楽と苦と 不苦不楽でも 感覚が 自分に或は 他人にあれば<738前の散文と738.739.>

○少年少女のためのスッタニパータ<738前の散文と738.739.>
・・・
好ましい感覚からも苦が生まれます。
それがなくなるのが嫌だからです。
しかし、好ましい感覚も消えるのです。


第3 大きな章 12.二種の観察経 15前の散文と15.16.

○中村元先生訳
 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて感受に縁って起るものである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の感受が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待される。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

738
楽であろうと、苦であろうと、
非苦非楽であろうとも、
内的にも外的にも、
およそ感受されたものはすべて、

739
「これは苦しみである」と知って、
滅び去るものである虚妄の事物に
触れるたびごとに、衰滅することを認め、
このようにしてそれらの本性を識知する。
諸々の感受が消滅するが故に、
修行僧は快を感ずることなく、安らぎに帰している。


○正田大観先生訳
 (7)「『他の教相によってもまた……略……。では、どのように、〔他の教相によってもまた、正しく、二なることの随観は〕存在するのでしょうか。『それが何であれ、苦しみが発生するなら、一切は、感受という縁から〔発生する〕』ということで、これが、一つの随観となります。『まさしく、しかるに、諸々の感受の残りなき離貪と止滅あることから、苦しみの発生は存在しない』ということで、これが、第二の随観となります。〔比丘たちよ、〕このように、正しく……略……。しかして、他にも、〔世の〕教師たる方は、こう言いました。

744.(738) 
「もしくは、楽しいことであろうが、苦しいことであろうが、
苦ではなく楽ではないことと共に、
内も、外も、それが何であれ、
〔知覚として〕感受されたものが存在するなら――(15)

745.(739) 
『これは、苦しみである』と知って、
『虚偽の法(もの、こと)である』『壊れ崩れるものである』〔と知って〕、
〔その〕接触〔その〕接触の衰滅を〔常に〕見ている者
(瞬間瞬間の感覚が生じては滅するあり方をあるがままに見る者)は、
このように、そこにおいて、〔あるがままに〕識知する。
比丘は、諸々の感受(受:知覚)の滅尽あることから、
無欲の者となり、完全なる涅槃に到達した者となる」と。(16)


○パーリ語原文
743.(738)
スカン      ワー    ヤディ    ワー   ドゥッカン
‘‘Sukhaṃ    vā      yadi      vā     dukkhaṃ,
楽        或は    もし      或は   苦

アドゥッカマスカン    サハ
adukkhamasukhaṃ    saha;
不苦・不楽        と共に

アッジャッタンチャ   バヒッダー    チャ
Ajjhattañca        bahiddhā     ca,
内             外         と

ヤン   キンチ    アッティ    ウェーディタン
yaṃ    kiñci      atthi      veditaṃ.
それが  何でも    あれ(ば)  感受が


744.(739)
エータン    ドゥッカンティ   ニャトゥワーナ
‘‘Etaṃ     dukkhanti      ñatvāna,
これは     苦であると     知って

モーサダンマン    パローキナン
mosadhammaṃ    palokinaṃ;
虚妄の法を      破壊すべきものに

プッサ     プッサ    ワヤン    パッサン
Phussa     phussa    vayaṃ     passaṃ,
触れる     触れる    衰滅を    見つつ

エーワン   タッタ        ウィラッジャティ
evaṃ      tattha        virajjati;
このように  それについて   離欲する

ウェーダナーナン  カヤー      ビック
Vedanānaṃ      khayā       bhikkhu,
感受の        滅尽によって  比丘は

ニッチャートー    パリニッブトーティ
nicchāto        parinibbuto’’ti.
無欲で         寂滅している・と


○一口メモ
前回述べた接触があると、感覚が生じます。感覚には好ましく感じるものがあります。それは仏教用語では楽と言います。また嫌だと感じるものがあります。それは苦と言います。その他にも好ましくも嫌だとも感じない、どちらでもない感覚があります。それを不苦不楽と言います。中村先生は非苦非楽と訳されていますが同じことです。

このように感覚を大きく分けてればこの三種類があることになりますが、これらの感覚を縁にして苦が生じるのだと述べています。そのために「これ(感覚)は苦あると知って」となるのです。

それは何故でしょうか?

感覚の好き嫌いは業(生まれながら持っている性質)によって決まっています。例えばライオンの好きなもの(肉など)を牛は嫌いです。反対にライオンの嫌いなもの(草など)を牛は好きです。これは生命に種類によって決まっています。同じ種類でも個体による好き嫌いの違いも業によるものです。Aさんが好きなものをBさんは嫌い。その逆もあります。しかし、これらの好き嫌いの理由は説明できません。業だからです。

しかし、好ましく感じる感覚も好ましくなく感じる感覚もどちらも、変化して確定はしていません。ですから、これは好ましいと決めつけられないのです。例えば好きな食べ物も、たくさん食べ過ぎると食べたくなくなり、ある場合には嫌いになります。好きとも嫌いとも断言できないのです。そのことを「滅び去るものである虚妄の事物」と言っているのです。

また「触れるたびごとに、衰滅することを認め」とはどんな感覚も消えて行くということです。これはヴィパッサナー瞑想で確認できていることだと思います。永遠に続く感覚はありません。

楽の感覚もいずれなくなりますから、それに対して不満が起きて苦を感じます。苦は始めから苦です。不苦不楽も退屈して不満や不快に変わり苦になります。つまりどのような感覚も苦の縁になるのです。

そのことを『およそ苦しみが生ずるのは、すべて感受に縁って起るものである』という第一の観察と『しかしながら諸々の感受が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察によって、よく知って、感覚にとらわれず、感覚から離れる修行者は安らぎの寂静(涅槃)にいるのです。

説明が前後しますが、738偈の三行目「内も、外も、それが何であれ、」の内とは「自分に」であり、外には「他人に」の意味です。ここで特にこのことを申し上げますのは、四念処経(中部経典第10)等に書かれている内と外の意味が私にはよく分からなかったからです。この場合も今では内は自分であり、外は他人であると考えています。他人の感覚も注意深く観察すれば分かります。他人を配慮するとは他人の感覚も理解することです。これは大切なことなのです。


楽と苦と 不苦不楽でも 感覚が 自分に或は 他人にあれば<738>



○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

あすか
2015年01月06日 07:26
非苦非楽とはなんぞや、でしたが、
退屈という感じも少しずつ
観察出来るようになってきました。
ほんの少しずつでも、前進、前進。
りんご
2015年01月06日 08:46
3種類の感覚は、どれも
苦しみを作るということですね。

知らなければ、感覚に振り回される
だけ。知っていけば何とかなるかも。
身の丈修行者
2015年01月06日 08:47
「苦」に感じる事を嫌がり「楽」を感じる事をしたがる。そして「不苦不楽」に感じることは+・-ゼロで自分的に以上でも以下でもない・・そんな感じで楽を求める自分がいました。でもその楽ってどんなに手に入れれたとしてもキリがない、砂漠で(水の)蜃気楼のようなもの?と学びました。

楽を求めない生き方をしたら、肩が軽くなり生きやすくなりました。見栄や物欲等々どんどん減らせれたらと思います。

自分の心の成長・透明にするの事は「楽」と言うのかわかりませんが、もっと執着はせずに身の丈で精進したいと思います。

今日も幸いでありますように
カエルくん
2015年01月06日 12:37
不苦不楽な状態が続くと、退屈して怒りの感情が生まれやすくなる気がします。

あと、他の人の感情に配慮し、周囲の人を苦しめない人になりたいです。
てくてく
2015年01月06日 22:36
こんばんわ。
てくてくでございます。

あくまでも自分の捉え方ですが、自分は、「内に」「外に」「内に外に」は、連係を観察することを説かれているのかなと思いました。連係を見るには、そのように観察しないと見れないと思ったからです。

もしも、自分が、内に自分を見て、外に他人を観察するなら、これだけは、絶対に厳守しようと思いました。それは、内には、過ちだけを見て、外には尊敬だけを見るということです。もしも、外に善と悪を見たら、善を快いとし、悪を不快とするだろうからです。内には、ただ真っ直ぐに見るだけにしようと思いました。

生きとし生けるものは幸せでありますように。
こころざし
2016年09月21日 08:04
自分を振り返りますと、何か「感動した!」事に喜々となり・興奮してそして、その感動をもう一度・・と探し・求める状況がありました。その結果、感動した!を再び得られても、その感動の度合いが前回と比べどうかとか変な比較をして、苦を生む自分がいました。そのような事を繰り返すのではなく、第一・二の観察が出来る様に努力し、そのようなものを超えた・涅槃に少しでも近づける様にしたいです。
※私事ですが、昨年2015年1月に別の名前でコメントさせて頂いている自分の投稿を見ました。何か混沌としたごちゃごちゃと知識的なものが回転し、落ち着いていない様子を感じました。ワンギーサ長老のお陰様で日々学びの機会を頂戴し、大切な宝を頂いたと心より感謝しています、有難うございます。月日が過ぎ、今の自分の状態はまだまだ・・ですが、日々精進し成長が出来る様に、実践をして参りたいです。今後もご指導をどうぞ宜しくお願い申し上げます。