あてにせず あがめもせずに 執着の きずな捨てて 望み持たない<794>

○少年少女のためのスッタニパータ<794>
・・・
揺れ動くこの世のことは
何一つあてにできません。
特別尊重するものもありません。
これがわかれば光が見えます。


第3 八つの詩句の章 4.清浄八詩句経 7.

○毎田周一先生訳
794.
彼等は何かをあてにせず 又何かを取出してあがめることもなく
これが「終極の清らかさ」だなどともいわない
そして世間に結ぼれてゆくその執着を切り捨てて
この世の何事にも望みをかけない。


○中村元先生訳
794
かれらははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、
「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。
結ばれた執著のきずなをすて去って、
世間の何ものについても願望を起すことがない。


○正田大観先生訳
801.(794) 
〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず、
彼ら(知慧ある者たち)は、「究極の清浄である」と説かない。
〔執着の思いで〕拘束された執取の拘束(欲望や執着の対象)を捨てて、
世のどこにおいても、〔自分勝手な〕願望を作らない。(7)


○パーリ語原文
800.(794)
ナ    カッパヤンティ    ナ    プレッカロンティ
Na    kappayanti      na    purekkharonti,
ない  評価し        ない   重んじ

アッッチャンタスッディーティ   ナ    テー    ワダンティ
accantasuddhīti           na    te      vadanti;
究極の清浄だと          ない  彼等は   言わない

アーダーナガンタン    ガティタン    ウィサッジャ
Ādānaganthaṃ       gathitaṃ     visajja,
執着の束縛を       結ばれた    捨てて

アーサン   ナ    クッバンティ    クヒンチ   ローケー
āsaṃ      na     kubbanti      kuhiñci    loke.
願望を    ない    持た(ない)    何事にも  世間の     


○一口メモ
この偈の日本訳の始めの言葉、「彼等(かれら)」とは、世間の人々には理解できない人達です。清浄な人です。私は解脱した人と理解しました。そのような彼等の態度がこの偈に描かれているのです。今回は訳の言葉は違いますが、三先生とも同じことを述べています。三通りの訳語で、この偈を深く理解してみましょう。

彼等は「何かをあてにせず」「はからいをなすことなく」「〔特定の何かを〕想い描かず」。

彼等は「何かを取出してあがめることもなく」、「(何物かを)特に重んずることもなく」「〔特定の何かを〕偏重せず」。

彼等は「これが『終極の清らかさ』だなどともいわない」、「『これこそ究極の清らかなことだ』と語ることもない」、「『究極の清浄である』と説かない」。

後半の二行も同様です。毎田先生の訳で代表しましょう。「そして世間に結ぼれてゆくその執着を切り捨てて この世の何事にも望みをかけない」。

何故、清浄な人即ち解脱した人は、上記のような態度なのでしょうか?
この世ことは現象の世界なのです。現象の世界は無常であり、あてにはできず、特別に尊重すべきものがないからなのです。また、これが究極の清らかさと言うべきものがないからなのです。ですから、この世の何事に望をかけないのです。この最後の言葉は、何か投げやりな虚無的な印象を受けるかもしれませんが、そうではなくて清浄の人は現象の世界を知り尽くし、現象を超えた確固したものを体得したからこそ、このような態度なのです。


あてにせず あがめることなく 執着の きずな捨てて 望み持たない<794>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎2月10日(火)から2月16日(月)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。朝5時から7時の自主瞑想会は通常通り行います。理由はワンギーサ比丘が熱海の瞑想合宿に参加するためです。朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

2015年02月14日 10:16
そう言えば、カメと魚のたとえばなしを思い出しました。

仲の良いカメと魚。ある日カメが陸上に上がります。
魚はカメに陸上の世界のことを聞きますが、全く信じられません。

現象の世界にいる魚と、それを乗り越えたカメ。

カメは水中(現象世界)のこともよく知ってますね。
そして陸上(現象世界を乗り越えた世界)の素晴らさも知ってます。
身の丈修行者
2015年02月14日 12:34
ワンギーサ長老の分かりやすい
>この世ことは現象・・現象の世界は無常で・・あてにできず特別に尊重すべきものがない・・
>究極の清らかさと言うべきものがない・・→この世の何事に望をかけない・・
>清浄の人は現象の世界を知り尽くし、現象を超えた確固したものを体得・・
の解説から、見方と目指すものが明確になっていると思います。智慧でも分かるように精進したいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
こころざし
2016年10月05日 22:00
望むもの、について考えてみました。望むものがあると、何かそわそわ落ち着かないような状況になると思いました。そのような時に、なんとかその望みを叶えようとして、あきらめる方には行かない気が致します。あきらめても後悔が出て、また心が落ち着かなくなりそうです。それらのものを持たない、という事は超えている印象を感じます。そのような域に行ける様にしたいです。