欲望を 顧みないで 修行して 激流渡った 聖者を羨む<823>

○少年少女のためのスッタニパータ<823>
・・・
本能といえども
克服できる。
真理を求める
志あれば。


第3 八つの詩句の章 7.ティッサ・メッティヤ経 10.

○毎田周一先生訳
823.
どんな欲望にも駆り立てられず
そこから解き放されて生きてゆく静かな人は
既に盲目の命の流れを渡ってしまっているので
欲望のため身動きならぬ人達がただそれを羨ましいと思うばかりである。


○中村元先生訳
823
聖者は諸々の欲望を顧みることなく、
それを離れて修行し、
激流を渡りおわっているので、
諸々の欲望に束縛されている人々はかれを羨むのである。」──


○正田大観先生訳
830.(823) 
〔一切から〕遠ざかった牟尼となり〔独り〕行じおこなう者を、
諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者を、
激流を超えた者を、
諸々の欲望〔の対象〕に拘束された人々は羨みます」〔と〕。ということで――(10)


○パーリ語原文
829.
リッタッサ    ムニノー    チャラトー
‘‘Rittassa    munino     carato,
離れて      聖者たちが  行じ

カーメース    アナペッキノー
kāmesu      anapekkhino;
諸欲望を     顧みず

オガティンナッサ    ピハヤンティ
Oghatiṇṇassa      pihayanti,
激流を渡ったのを   羨む

カーメース    ガディター    パジャーティ
kāmesu      gadhitā      pajā’’ti.
諸欲望に    束縛された   人々が・と


○一口メモ
昨日の偈で、離れて独りいること、即ち独りで修行することを学んだ修行者は、性欲を離れることが出来たのみならず。涅槃(安らぎ)に近づくことが出来ました。

今回の偈では、欲望を顧みることなく、それから離れて修行し、激流(煩悩)を渡り終わったのです。そして、諸々の欲望に束縛されなくなりました。涅槃に到達しました。彼は聖者と呼ばれるのに相応しく、欲望に束縛されている人々からは羨ましいと思われる人になったのです。

毎田先生の訳で「静かな人」とは、通常の訳では「聖者」のことです。毎田先生は聖者の本質は「静かな人」であると考えられたのだと思います。また激流(煩悩)を「盲目の命の流れ」という言葉を使われます。これも煩悩を「盲目の命の流れ」と考えられておられたのだと思います。煩悩は本能と同義語ということでしょう。性欲は本能ですが、性欲以外のすべての本能を乗り越えて、解脱して、彼岸(涅槃)涅槃に達するということになったのです。それで、性欲に関する説法である「ティッサ・メティヤ経」が終わりました。

明日からは「パスーラ経」が始まります。パスーラとは大論師である遊行者の名前ですが、この経はこのパスーラに対するブッダの説法なのです。


欲望を 顧みないで 修行して 激流渡った 聖者を羨む<823>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎3月20日(金)から3月24日(火)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。朝5時から7時の自主瞑想会は通常通り行います。理由はワンギーサ比丘が熱海の瞑想合宿に参加するためです。朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

2015年03月15日 04:43
「精神的」に性的な刺激に依存しないようにすることが何より大切です。

何故なら、日常生活のすべてが修行の場であるはずだからです。男性が女性と接し、女性が男性と接する。これはある意味不可避です。


実際すべての「性的行為」を一時的にでも絶ってみれば、それが妄想の産物に過ぎないこと、従って生命維持に何ら関係ないこと。むしろ気楽であることが分かります。


単に物理的に独りになるのではなく、精神的に独りになることで「性的妄想」から離れることが出来るのだと理解してます。

いくら物理的に独り籠って修行しても、街中の女性に発情するようではあまり意味がないと思います。
kempsford
2015年03月15日 05:02
おはようございます。
「羨む」。この言葉がぐさりときました。
本当に「うらやましい」です。
身の丈修行者
2015年03月15日 08:02
おはようございます。
「欲望を顧みないで修行」に精進したいと思います。
現状はあれやこれや家庭や仕事を言い訳のようにして、結局どこまで真摯に出来ているか?は・・と感じます。
また修行をなんだかんだで後回しにしようとする時もあります。
何が大事か・どう実践していくか?は明白なので、あーじゃこーじゃと振らつかずにさっと、出来る時間を生かして精進して参りたいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
こころざし
2016年10月14日 20:02
本能の存在感は大きいと思いますが、修行をする事でそれも正業出来るのではと思います。本能に振り回されるような人生から、理性で・智慧で生きれる割合をどんどんと増やして参りたいです。