彼女らは 渇愛・不満 貪欲だ 糞尿のように 触れたくはない<835>

○少年少女のためのスッタニパータ<835>
・・・
男は女が好きだが
人間を超越したブッダは
女を好きでも嫌いでもない。


第3 八つの詩句の章 9.マーガンディヤ経 1.

○毎田周一先生訳
835.
「私は嘗て『渇望』と『不満』と『貪欲』と(いう女)を見たが
それと一つになろうとは決して思わなかった
この尿と糞とに充ちた汚いもの それが一体何であろうか
私は足でそれに触れようとさえ思わない」


○中村元先生訳
835
(師((ブッダ))は語った)、
「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、
かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。
糞尿に満ちたみの(女が)そもそも何ものなのだろう。
わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」


○正田大観先生訳
842.(835) 
〔世尊は言った〕
「渇愛、不満、貪欲と、〔これらの名をもつ悪魔の娘たちを〕見て、
〔わたしには〕淫欲(性交)にたいする欲〔の思い〕さえも、有りませんでした。
この、糞尿に満ちたものが、まさしく、何だというのでしょう。
足でさえも、それに触れることを求めません」〔と〕。(1)


○パーリ語原文
841.
ディスワーナー    タンハン    アラティン    ラガンチャ
‘‘Disvāna        taṇhaṃ     aratiṃ      ragañca,
見て           渇愛を     不快を      貪欲を・と

ナーホースィ    チャンドー   アピ    メトゥナスミン
nāhosi        chando      api     methunasmiṃ;
ない         意欲       さえ    淫欲における

キメーウィダン   ムッタカリーサプンナン
Kimevidaṃ      muttakarīsapuṇṇaṃ,
一体何なのだ   糞尿にみちたものは

パーダーピ   ナン    サンプスィトゥン    ナ    イッチェー
pādāpi       naṃ    samphusituṃ      na    icche’’.
足でさえ     それに  触れることを      ない  求め(ない)



○一口メモ
今日から始まる「マーガンディヤ経」は注釈書によれば、クル国のバラモン・マーガンディヤがブッダにあって、自分の美しい娘を嫁がせようとして、娘を着飾って妻とともに出かけていって申し出ます。しかし世尊は「美女に用はない」と取り合いません。そこでマーガンディヤは「美女もいらぬとはどいう考えだ」とその考え方を問いただします。その時の対話がこの経です。最後はこのバラモンは妻とともに出家して阿羅漢になったということです。その内容は十三偈で構成されています。

では今回の偈について説明します。マーガンディヤがブッダに自分の娘を嫁として勧めますが、それに対してブッダは次のように語ったのです。「私がブッダになる前に一大決意で冥想の座についた時、悪魔の大軍が襲来して、悟りの完成を妨げに来ました。その中に『渇望』と『不満』と『貪欲』という名前の悪魔の娘がいました。その三人は人間をだまして美しく見せていましたが、私はだまされません。汚れた醜いものしか見えませんでした。同棲することはもちろん、足で触れることさえも望みません。糞や尿で満ちた女が何だというのですか。私には興味のないことです。」と。この回答が今回の偈の内容です。このブッダの回答に対して、マーガンディヤの問が明日の偈で述べられます。

尚、ブッダの成道における悪魔の襲来については、スッタニパータ第3章2.精勤経(425偈から449偈)で述べられています。


彼女らは 渇愛・不満 貪欲だ 糞尿のように 触れたくはない<835>



○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2015年03月27日 04:01
おはようございます。
強烈な偈ですね。
明日からが楽しみです。
よろしくお願い致します。
2015年03月27日 04:23
足でさえ、、強烈に思いました。

子供の時分、足で物を触ったり、いじったりすると、行儀がわるいとよく叱られたものです。

私の個人的な経験と当時のインド文化を単純に比較出来ませんが、少なくとも私には「足で触れる価値もない」というのは強いインパクトがあります。

価値を入れたものは手で扱いますから。
身の丈修行者
2015年03月27日 06:14
おはようございます。
魅力的な女性を見ると、気持ち良い・貴重な・近くに居て欲しい等々の欲望・思考が出てきます。
その程度で終われば人間らしい(?)・・ですみますが、さらに・・となったら犯罪になりかねません。
「幸いでありますように」との慈しみの念を持ち、笑顔で(囚われる前の早期に)立ち去るようにしています。
私事ですが既に妻・子もおり、青春は終わっていると自覚しています。
惑わされ心が動揺しないように精進したいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
りんご
2015年03月27日 06:41
世間的には「美女=良い」と言う見方が、当然のようになっていると感じています。今日からはじまる経で、その見方が真理(事実)の立場からみると、どう見えるのかを理解していけたら良いなと思いました。
2015年03月27日 08:43
記述が曖昧でした。

プラスの価値を入れたものは手で慎重に扱い、マイナスの価値を入れたものは足で粗末に扱う。

という価値から離れているのは凄いというインパクトです。
noritarou
2015年03月27日 10:28
女性も糞尿に満ちたものであると納得することで、厭離への道につながることもあるでしょう。
ただ、禁欲主義的な言い方は、「聖人」という概念を生むことがあり、幻想である、聖人はこうあるべきという概念は、悟りから遠ざける要因にもなるでしょう。
厳格過ぎる規律や戒律は、利己的な、歪んだ情熱を生むことがあり、犯罪の温床にもなりえます。
それは、「宗教」の歴史が証明しています。
ブッダは、渇愛・不満・貪欲という悪魔に対して触れなかったのであって、現実に居る女性に対して言ったものではない事に注意しなければいけないと思います。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
141
2015年03月27日 19:08
最近、ブッダが悟る前に見た五つの夢の話を聞きました。その中の一つに、ブッダが糞尿(お布施)の上を歩いても足が汚れない、という夢があるそうです。増支部にあるエピソードらしいですが、それを聞いたとき、ブッダに少々怒りを覚えましたが、やはり、ブッダの悟った境地というのは、凡人の理解をはるかに超えたものであるのだと、思いました。今日のお経は、その夢の話を思い出させました。
こころざし
2016年10月18日 21:51
現在も若い女性に遭うと、目が行く自分がいます。ですがその女性は排泄もしますし、子供をもうけれる以外はその他の人間と変わらず、自分に色眼鏡のフィルターが入っている事を実感致します。「幸いでありますように」と念を入れて、引っ張らない様に戒めています。なかなか目が行く事自体は止まらないなと苦笑しています。