好き嫌い 思わぬ聖者 悲しみや ケチな思いで 心汚れぬ<811>

○少年少女のためのスッタニパータ<811>
・・・
聖者とは覚った方です。
覚った方の心は
動揺がなく完全に静かです。
「静かな人」と呼ばれます。


第3 八つの詩句の章 6.老経 8.

○毎田周一先生訳
811.
静かな人は どこへいっても捉われがなく
好き嫌いをいわない
葉の上で水が染まらぬように
悲しみもねたみも彼をよごさぬ


○中村元先生訳
811
聖者はなにものにもとどこおることなく、
愛することもなく、憎むこともない。
悲しみも慳(モノオシ)みもかれを汚すことがない。
譬えば(蓮の)葉の上の水が汚されないようなものである。


○正田大観先生訳
818.(811) 
一切所で依存なき牟尼は、
愛しいものを作らず、また、愛しくないものも〔作ら〕ない。
彼のうちに、嘆きや物惜しみ〔の思い〕は〔存在しない〕
――たとえば、〔蓮の〕葉に、水が着かないように。(8)


○パーリ語原文
817.(811)
サッバッタ      ムニー    アニスィートー
Sabbattha      munī     anissito,
一切処において  聖者達は  依存しない

ナ    ピヤン    クッバティ   ノーピ   アッピヤン
na    piyaṃ     kubbati     nopi     appiyaṃ;
ない  愛を     作らず     またない  不愛を(作らない)

タスミン      パリデーワマッチャラン
Tasmiṃ      paridevamaccharaṃ,
彼に対して    悲しみ・もの惜しみは

パンネー   ワーリ    ヤター   ナ     リンパティ
paṇṇe      vāri      yathā    na     limpati.
葉において  水が     ように    ない   汚さ(ない)



○一口メモ
毎田先生は、muniを聖者あるいは牟尼とは訳さず、一貫して「静かな人」と訳されます。muniには「沈黙して修行する聖人」という意味がありますから、「静かな人」がよいとお考えなのでしょう。ブッダがmuniという言葉を使われる時は覚った方を指していますから、その人の心は動揺がなく、完全に静かな人であると思いますから、「静かな人」が適当なのでしょう。

二行目の直訳は「愛を作らない、不愛を作らない」です。これを「好き嫌いをいわない」或は「愛することもなく、憎むこともない。」或は「愛しいものを作らず、また、愛しくないものも〔作ら〕ない。」と訳されるのも面白いですね。

昨日の810偈の「遠ざかり退いて行ずる修行者」は涅槃に至り、聖者になったのです。それで今回の811偈で、その聖者は何ものにも依存せず、捉われがなく、「好き嫌いをいわない」あるいは「愛することもなく、憎むこともない」ので、卑近な例でいえば、恋愛をすることがないのですから、恋愛の相手に振られて、悲しむこともなく、相手を憎むことがないと言うことで、つまりそのために心を乱すことがないということになります。

それをイメージすると、ハスの葉の上に落ちた水が小さな水玉になって、水が葉を濡らすこと出来ないような状態だと言うのです。


好き嫌い 思わぬ聖者 悲しみや ケチな思いで 心汚れぬ<811>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎3月11日(水)は、ゴータミー精舎にて、スマナサーラ長老の「パーリ経典解説」(18:30~21:00)がありますので、夜の自主瞑想会はお休みしますが、この「パーリ経典解説」に参加することを推薦します。


◎3月20日(金)から3月24日(火)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。朝5時から7時の自主瞑想会は通常通り行います。理由はワンギーサ比丘が熱海の瞑想合宿に参加するためです。朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

2015年03月03日 07:02
静かな人は、「私のもの」という「思い」を捨てているので、恋愛感情のような所有欲がないのですね。
りんご
2015年03月03日 07:42
好きだから、良いもの。嫌いだから、悪いもの。と判断しがちです。
そして、その判断のプロセスに無自覚だと、そうだと思いこんでしまいがちだなと感じました。
身の丈修行者
2015年03月03日 07:49
おはようございます。
私事話恐縮ですが、以前自己啓発系で「出来事等を好き・嫌いで判断せず、感謝して受け入れる」と教わりました。
有効でしたが、根本的な解決にはならず、結局・・の繰り返しになりました。
ワンギーサ長老の分かり易い解説「・・何ものにも依存せず、捉われがなく、「好き嫌いをいわない」・・そのために心を乱すことがない・・」こちらですと、根本的な解決になりますね。
ニュアンスは似てる所もあるかも・・ですが、次元が全く違うように感じます。
毎日自分がやってしまっている所と思いますので、これが智慧になるように精進したいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
SRKWブッダ
2015年03月03日 13:01
(覚っていない)世人に、好き嫌いや愛憎があるのはそれ自体は別に問題とはならない。

しかしながら、好きだから価値があり、嫌いだから無価値だと断じるならば、問題である。また、愛するものがあるのは構わないが、その対象でないとダメと固執するならば、問題である。憎む相手があっても、それだけの理由でその人の尊厳を護らないのでは、問題となる。

覚れば、これら情欲を超えた境地に達する。そこは、何よりも自分自身が静かである。

***
おみ
2015年03月03日 21:59
ワンギーサ長老、こんばんは。

今更のように“物惜しみ”について、ある考えが浮かびました。

覚った人は何も持っていませんよね。“物惜しみ”する対象を自ら捨ててしまったのだから、惜しみたくても惜しめないと考えてもよいのでしょうか?

持っているといえば『智慧』だけ。『智慧』は他の生命に分けたとしても減るものではない。

「持ってないから惜しめない、減らないものだからあげますよ」というと「なんだかずいぶん貧乏臭くてケチもいいとこ」のように感じなくもないのですが、『分け与えることのできるものが智慧である』ということは、それ以上のことは何もない、すごいことだと思いました。

この偈の論点とは、けっこうズレているかもしれませんが、我ながらちょっとおもしろいかも、と思ったので書いてしまいました。

生きとし生けるものが幸せでありますように

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こころざし
2016年10月10日 21:55
諸々の事に影響を受け、そして何だかんだ感情等が生まれて発火するような状態では、全く静かとは言えないと思います。私事ですが、妻の「うるさい」とのちょっとした言動から怒りを爆発させた様な自分がいました。一体こちらで何を学ばせて頂いているのかと情けなく思いました。
自分の失敗から学び、聖者の静かな姿勢が少しでも出来る様にしたいです。