見解や 学問・知識 道徳が 有ってもなくても 清らかにならぬ<839>

○少年少女のためのスッタニパータ<839>
・・・
善いことをしても覚れない。
もちろん悪いことをしても覚れない。
ではどうするの?
それらを超越することです。



第3 八つの詩句の章 9.マーガンディヤ経 5.

○毎田周一先生訳
389.
「見解とか 学問とか 知識とか
      マーガンディヤよ と世尊はいわれた
そして徳行とか そういうもので人が清らかになるとは 私はいわない
そして又無見解や無学や無知や
そして不徳や非行などによっても 人が清らかになるとは 私はいわない
そういうことをすべて捨てて 捉われず
拠り所など何も持たず この世のことに少しも望みをかけぬがよい」


○中村元先生訳
839
師は答えた、「マーガンディヤよ。
『教義によって、学問によって、
戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。
『教義がなくても、学問がなくても、
戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。
それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、
平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」


○正田大観先生訳
846.(839) 
かくのごとく、世尊は〔答えた〕「マーガンディヤさん、
〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず、
戒や掟によってもまた、清浄を言わないのです。
〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、
戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないのです。
しかして、これらを放棄して、執持せずして、
〔心が〕寂静となり、〔何ものにも〕依存せずして、〔もはや、迷いの〕生存を渇望しないのです」〔と〕。(5)


○パーリ語原文
845.(839)
ナ     ディッティヤー   ナ    スティヤー   ナ     ニャーネーナ
‘‘Na    diṭṭhiyā        na     sutiyā      na     ñāṇena,
ない    見解によって    ない   学問によて  ない   知識によって

マーガンディヤーティ   バガワー
(māgaṇḍiyāti         bhagavā)
マーガンディヤよと     世尊は

スィーラッバテーナーピ    ナ    スッディマーハ
Sīlabbatenāpi          na    suddhimāha;
戒や掟によっても       ない  清浄を・彼は説か(ない)

アディッティヤー    アッスティヤー     アニャーナー
Adiṭṭhiyā         assutiyā         añāṇā,
見解なしによって   学問なしによって   知識なしによって

アスィーラター    アッバター    ノーピ    テーナ
Asīlatā         abbatā       nopi      tena;
戒なしによって    掟なしによって  又ない    それによって

エーテー    チャ   ニッサッジャ    アヌッガハーヤ
Ete        ca     nissajja       anuggahāya,
これらを    また    捨てて       固執しないで

サントー    アニッサーヤ    バワン    ナ    ジャッペー
Santo      anissāya       bhavaṃ   na    jappe’’.
平静にして  依存しないで    生存を   ない   望ま(ない)



○一口メモ
前回の偈でマーガンディヤさんが質問した問は「<内心のやすらぎ>ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」という愚問でした。そこでブッダはその問には答えずに、今回の偈を述べました。

今回の偈を繰り返し述べることになりますが、「『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。」とブッダは述べたのです。

簡単に言えば、「善いことをしても清らかにならない、またもちろん悪いことをしても清らかにならない。」と述べられたことになります。これを聞くとマーガンディヤさんでなくても、では一体どうすればよいのだと思うでしょう。後の世の禅の公案のように思うでしょう。

ブッダはこの言葉の後に「それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、
平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」と述べたのですが、マーガンディヤさんはこの言葉の意味を理解する前に前半の言葉に反発してしまったのです。


見解や 学問・知識 道徳が 有ってもなくても 清らかにならぬ<839>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

2015年03月31日 04:44
間違っていたら指摘して欲しいのですが、ブッダの答えは因果の完全否定でしょうか?

空腹でいる時。。

1、音楽を聴くと空腹感を癒やせる。とは言わない。
2、音楽を聴かないと空腹感を癒やせる。とも言わない。

これは因果の完全否定の場合。

一方、因果が成立してる場合は、

3、食事をすると空腹感が癒やせる。と言う。

4、食事をしないと空腹感が癒せない。とも言う。
りんご
2015年03月31日 07:34
難しいと感じます。
どんな対象にも、固執しないという所が大切なのかな
と理解してみました。
身の丈修行者
2015年03月31日 07:43
おはようございます。
ワンギーサ長老の分かり易い本文・解説の「固執することなく・・平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安・・」心に響きます。
言葉を超越している域・・を感じます。
愛様のコメントを拝見致しまして、私の主観で恐縮ですが記載させて頂きます。
言葉・知識→概念で考えた事・・と智慧は違う域の様子みたいです。
智慧になるには冥想実践が必要になる様子です。
言葉で捉えるしかない・・ですが、それを智慧で分かるには・・のニュアンスを感じています。私も身の丈で精進しています。
ワンギーサ長老・愛様・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
kempsford
2015年03月31日 19:01
こんばんわ。
「善いことをしても清らかにならない」には、私も途方にくれます。それに対して、「それらを捨て去って、固執することなく」と諭されてもなあ(すみません)、というのが本音です。
かなりレベルの低い凡夫ですね。お恥ずかしいです。でもここから始めます。
こころざし
2016年10月20日 06:23
何かを得たり、善的に生きれば悟れる・・ではないと、(教えて頂いて)思っています。善的に生きないと心が汚れ悟れるような状況にならない事と、得ようとしているものを捨てる・捨てきれる方向から悟りに近づけるのではと感じます。
悟りに少しでも近づける様に精進したいです。