泥水に 汚れぬ蓮花 そのように 聖者は知識 等で汚されぬ<812>

○少年少女のためのスッタニパータ<812>
・・・
若者は知識、学問、思想など
学ばなければなりません。
しかし、それらに汚されてはいけません。


第3 八つの詩句の章 6.老経 9.

○毎田周一先生訳
812.
蓮の葉の上で水滴が
蓮の葉の上で水が 染まらぬように
それと同じく静かな人は
知識にも学問にも思想にもそまらない


○中村元先生訳
812
たとえば蓮の上の水滴、
あるいは蓮華の上の水が汚されないように、
それと同じく聖者は、
見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。


○正田大観先生訳
819.(812) 
たとえば、また、蓮〔の葉〕に、水滴が〔着かない〕ように
――たとえば、蓮華に、水が着かないように
――このように、牟尼は、すなわち、この、見られ聞かれたものに〔依存せず〕、
あるいは、諸々の思われたものについて汚されない。(9)


○パーリ語原文
818.
ウダビンドゥ    ヤターピ   ポッカレー
Udabindu      yathāpi    pokkhare,
水滴が       たとえば  蓮において

パドゥメー    ワーリ    ヤター    ナ    リンパティ
padume      vāri      yathā     na    limpati;
蓮花において  水が     たとえば  ない   汚さ(ない) 

エーワン    ムニ    ノーパリンパティ
Evaṃ      muni    nopalimpati,
このように   聖者は  付着しない

ヤディダン   ディッタスタン      ムテース    ワー
yadidaṃ     diṭṭhasutaṃ        mutesu     vā.
すなわち    見たこと・聞いたこと  考えたこと   或は



○一口メモ
今回も蓮の譬えを使って、聖者の特徴を説明しています。実は前回も811偈では蓮という言葉は出てきたわけではなく単に「葉」という言葉でありましたが、今回の812偈に蓮と蓮花の言葉がありましたので、蓮の葉として訳したのです。

今回は蓮という言葉として、pokkhareとpadumeという二つの単語が出てきました。pokkhareは「蓮において」という意味で蓮の花とか蓮の葉かは特定している訳ではありませんが、「水滴」がありますので、蓮の葉と思われます。一方padumeは「蓮の花において」です。

今回の偈に対する三人の先生方の訳を詳しく読むと、意味が異なるのです。イメージが解ればよいと考えればどうでもよいのですが、細かい意味の違いがあります。聖者は水なのか蓮なのかという問題です。皆様も考えてみて下さい。私は正田先生の訳が正確だと考えています。

この偈で結局言いたいことは、聖者(静かな人)は、見たこと(知識)、聞いたこと(学問)、考えたこと(思想)に依存しない、影響されないということです。あらゆる固定観念に拘束されずに、自由であるということです。


泥水に 汚れぬ蓮花 そのように 聖者は知識 等で汚されぬ<812>



○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎3月11日(水)は、ゴータミー精舎にて、スマナサーラ長老の「パーリ経典解説」(18:30~21:00)がありますので、夜の自主瞑想会はお休みしますが、この「パーリ経典解説」に参加することを推薦します。


◎3月20日(金)から3月24日(火)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。朝5時から7時の自主瞑想会は通常通り行います。理由はワンギーサ比丘が熱海の瞑想合宿に参加するためです。朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

2015年03月04日 07:42
聖者は、見たり聞いたり考えたことに、引っ掛かかることがありません。しがみつくこともありません。あたかも蓮に水が着かないように。

一方、我々が美しいと思うような蓮の華で水滴が汚れないように、知識や学問や思想に囚われ、汚れることがないのです。
身の丈修行者
2015年03月04日 08:09
おはようございます。
ワンギーサ長老の分かり易い解説「聖者・・は、見たこと・・聞いたこと・・考えたこと・・に依存しない、影響されない・・自由である・・」とても心に響きました。
どんなに良い事を知っても、それを元にした色眼鏡で見てしまったら、本筋と違ってしまうと想像致します。
本当の智慧とはこのようなものなのではと思います。
いちいち言葉に・概念にせず、自由である・・とのニュアンスにもなるでしょうか。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
SRKWブッダ
2015年03月04日 11:56
蓮の葉の上の水滴は、転がっても蓮の葉に汚されず、また蓮の葉を汚すこともない。

(一切世間に)塵を撒き散らさない人が、塵を受けることがなく、遍歴し、自らを浄めて、ついに円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと到達する。

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こころざし
2016年10月11日 19:16
学び、知識を得て、見識を広げる事は有効と思います。ですが、常に実践の大切さを教えて頂いているように感じています。作るものは固定概念ではなく智慧だと理解しています。それが言葉でなく実際に繋がる様に精進したいです。