見解や 学問・知識 道徳の 有無でないとは 愚かなことだ<840>

○少年少女のためのスッタニパータ<840>
・・・
思いこんでいることは
否定されても
否定されているとは
思えない人が多い。


第3 八つの詩句の章 9.マーガンディヤ経 6.

○毎田周一先生訳
840.
「もしもそのように見解とか学問とか知識とか
            とマーガンディヤはいった
そして徳行とか そういうもので人は清らかにはならぬといわれ
又無見解や無学や無知や
そして不徳や非行などによっても 清らかにならぬといわれるなら
それは人を惑わす教えだと私は思います
ある人々はものの見方で清らかになれると信じているではありませんか」


○中村元先生訳
840
マーガンディヤがいった、
「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても
清らかになることがではない』と説き、
また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、
それはばかばかしい教えである、とわたくしは考えます。
教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」


○正田大観先生訳
847.(840) 
かくのごとく、マーガンディヤが〔言った〕
「もし、おっしゃるように、〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず、戒や掟によってもまた、清浄を言わないなら、
〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないなら、
わたしは〔それを〕、まさしく、迷愚の法(教え)と思うのです。
或る者たちは、見解によって清浄を信受します」〔と〕。(6)


○パーリ語原文
846.
ノー    チェー   キラ     ディッティヤー  ナ    スティヤー    ナ    ニャーネーナ
‘‘No    ce      kira      diṭṭhiyā       na    sutiyā       na    ñāṇena,
ない   もし     言うように 見解によって   ない  学問によって  ない  知識によって

イティ    マーガンディヨー
(iti      māgaṇḍiyo)
と      マーガンディヤは(言った)

スィーラッバテーナーピ   ナ    スッディマーハ
Sīlabbatenāpi          na    suddhimāha;
戒や掟によっても       ない  清浄を・言った

アディッティヤー    アッスティヤー    アニャーナー
Adiṭṭhiyā         assutiyā        añāṇā,
無見解によって    無学問によって   無知識によって

アスィーラター    アッバター   ノーピ    テーナ
Asīlatā         abbatā      nopi      tena;
無戒によって    無掟によって  もない    それらによって

マンヤーマハン   モムハメーワ      ダンマン
Maññāmahaṃ     momuhameva      dhammaṃ,
私は思う       まったく愚かである   教えは

ディッティヤー   エーケー    パッチェーンティ    スッディン
Diṭṭhiyā        eke        paccenti         suddhiṃ’’.
見解によって    ある人々は   了解している      清浄を


○一口メモ
マーガンディヤさんは、見解とか学問とか知識とか徳行にこだわっているのです。それ以外の考え方があるとは思いもよらないことなのです。ですからそれらに依っても或はそれらに依らなくても清浄にならないと言われたらどうしたらいいのだと思ってしまうのです。

そのため、そのような考え方は「人を惑わす教えだ」或は「ばかばかしい教えである」或は「迷愚な教えだ」と思ってしまうのです。多くの人々は一度ある考えにとりついてしまうとそれ以外の発想が出来なくなるものなのですね。その点を明日の偈でブッダに指摘されます。

ブッダとマーガンディヤさんとやり取りを読んで理解しにくいとお考えの方は、自分がマーガンディヤさんと同じようにある固定観念(先入観)に陥っていないかよく考えて下さい。それに気が付けば固定観念(先入観)を克服したことになります。


見解や 学問・知識 道徳の 有無でないとは 愚かなことだ<840>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2015年04月01日 04:18
おはようございます。
大変お恥ずかしいことなのですが、この偈のマーガンディヤさんの疑問に、「そうだよな」と同意してしまう自分がいます。そういう今の自分を知って、明日からのブッダの教えを大切に受け取ります。
先生、ご指導よろしくお願い致します。
2015年04月01日 04:42
マーガンディアさんにとって、見解、学問、知識、徳行に依拠して質問するのは常識だったのかもしれません。

さて、先入観ですが、私の場合本を読んだ後、一年ほど経ってから読むと、明らかな誤読に気づくことがよくあります。

同じ本を繰り返し読むのは、実に興味深いものです。
知識を駆使して読むということは、実は全く読んでいなかったのです。

知識は常に過去のものです。従って、それまでの知識を動員して本を読むことは、「過去に囚われ」現在に学ぶことを拒否しています。

学ぶためには、過去の知識を一度チャラにする必要があります。そうしないと、既知の概念を入れ換えただけの結果になり進歩がありません。

話を聞く場合もそう思います。
身の丈修行者
2015年04月01日 07:10
おはようございます。
色々な・・を学ぶほど知識は増えます。そして自分なりの概念を作り「こんなものだ」と考える色眼鏡が出来てしまいます。
その一度ついた色眼鏡を取るのは、なかなか難しい様子です。
本当に正しく教えて頂けるスマナサーラ長老・ワンギーサ長老らとご縁を頂戴出来・学ばさせて頂けている事を至福に思います。
ワンギーサ長老・皆様の今日も幸いでありますように。
りんご
2015年04月01日 07:32
ある見方も、呼吸と同じで、当たり前すぎると自覚がしづらくなると思います。
そうならないためにも、気づきを持って生活するのが大切だと感じました。
こころざし
2016年10月20日 07:16
固定概念を持ってしまう恐ろしさを感じます。ですが、俗世間では程度の差こそあれ、固定された概念を持つのは普通と思います。そんな自分の固定概念に気づき、破り・捨てて、そして真理が見える様になりたいです。