快楽に 耽ることなく 穏やかで 弁舌さわやか 離欲思わず<853>
○少年少女のためのスッタニパータ<853>
・・・
甘いものの
食べ過ぎは危険です。
心がそれに依存して
身体は病気になります。
第3 八つの詩句の章 10.死前経 6.
○毎田周一先生訳
853.
快楽に耽らず
思い上がっていい気にもならず
おだやかで 機智に富み
自分の信ずることを人におしつけず
又自分はどうしても無欲にならねばならぬとも思っていない
○中村元先生訳
853
快いものに耽溺せず、
また高慢にならず、
柔和で、弁舌さわやかに、
信ずることなく、なにかを嫌うこともない。
○正田大観先生訳
860.(853)
諸々の快楽にたいし〔煩悩が〕漏れ出ない者は、
しかして、高慢〔の思い〕に陥る者ではありません。
しかして、〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕、即応即答〔の知慧〕ある者は、
信仰なく、離貪しません
(今に生きる者は、限定された特定の信仰を持たず、無執着の者には、離貪という行為自体が存在しない)。(6)
○パーリ語原文
859.
サーティイェース アナッサーウィー
‘‘Sātiyesu anassāvī,
快いものに 溺れない
アティマーネー チャ ノー ユトー
atimāne ca no yuto;
高慢に また ない 関わる者で
サンホー チャ パティバーナワー
Saṇho ca paṭibhānavā,
柔和で また 弁才があり
ナ サッドー ナ ウィラッジャティ
na saddho na virajjati.
ない 信が ない 離欲し
○一口メモ
今回も引き続き聖者の特徴が述べられます。中村先生の訳を見出しにして説明させて頂きます。
「快いものに耽溺せず」について。生きることのほとんどは苦であっても、少しの楽があるために人間は生きることを嫌がらずに、何としても生きて生きたいと思っています。しかし、聖者は快いもの(快楽)は人間を迷わす毒だと知って快いもの(快楽)に耽溺しないのです。聖者はその理由を知って、渇愛を滅していますから、快いもの(快楽)に執着することがありません。
「高慢にならず」について。前回の852偈の「傲慢にならず」とほぼ同じです。毎田先生は「思い上がっていい気にもならず」と説明しています。
「柔和で」について。正田先生は「〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕」と説明しています。
「弁舌さわやかに」につい。毎田先生は「機智に富み」と訳されています。正田先生は「即応即答〔の知慧〕ある」と説明されています。教条的な知識でなく、事実に即した分かりやすい智慧による話をするということだと思います。
「信じることなく」について。毎田先生は「自分の信ずることを人におしつけず」と訳されました。正田先生は「限定された特定の信仰を持たず」と説明されています。注釈書には信は盲信として、自信が覚った法を信じ、誰の法も信じないとしています。私は「信じる」ということではなく、「理解した」或は「納得した」ということだと思っています。
「なにかを嫌うこともない」について。毎田先生は「自分はどうしても無欲にならねばならぬとも思っていない」と訳されました。正田先生は「離貪という行為自体が存在しない」と説明されています。聖者は何かをしようとする作為がないので、離欲もしようとも思わない。すなわち無為の態度かなと私は思いました。
快楽に 耽ることなく 穏やかで 弁舌さわやか 離欲思わず<853>
○人生の万能薬(慈悲の瞑想)
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように
*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。
~~~~~~お知らせ~~~~~~
◎特別連絡:4月29日(水)から5月6日(水)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。尚、朝5時から7時の自主瞑想回は通常通り行います。理由はワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するためです。しかし、朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。
◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。
◎ライターの森竹ひろこさんのブログ「コマメディアー史上最弱の仏弟子コマメー」で「[報告]正田正観先生の現代語訳「小部経典」が発売!記念祝賀会の報告」という記事が掲載されています。
http://blog.goo.ne.jp/komamenet/e/488d72d3512f675ea970219bdcaac28a
その中でこのブログで引用させて頂いている正田先生の御姿や私(ワンギーサ)の写真も掲載されています。是非上記ブログを訪問して下さい。
◎このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーを一日一回クリックして下さい。そうすると、仏教ブログのランキングが上昇します。御支援をお願い致します。
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甘いものの
食べ過ぎは危険です。
心がそれに依存して
身体は病気になります。
第3 八つの詩句の章 10.死前経 6.
○毎田周一先生訳
853.
快楽に耽らず
思い上がっていい気にもならず
おだやかで 機智に富み
自分の信ずることを人におしつけず
又自分はどうしても無欲にならねばならぬとも思っていない
○中村元先生訳
853
快いものに耽溺せず、
また高慢にならず、
柔和で、弁舌さわやかに、
信ずることなく、なにかを嫌うこともない。
○正田大観先生訳
860.(853)
諸々の快楽にたいし〔煩悩が〕漏れ出ない者は、
しかして、高慢〔の思い〕に陥る者ではありません。
しかして、〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕、即応即答〔の知慧〕ある者は、
信仰なく、離貪しません
(今に生きる者は、限定された特定の信仰を持たず、無執着の者には、離貪という行為自体が存在しない)。(6)
○パーリ語原文
859.
サーティイェース アナッサーウィー
‘‘Sātiyesu anassāvī,
快いものに 溺れない
アティマーネー チャ ノー ユトー
atimāne ca no yuto;
高慢に また ない 関わる者で
サンホー チャ パティバーナワー
Saṇho ca paṭibhānavā,
柔和で また 弁才があり
ナ サッドー ナ ウィラッジャティ
na saddho na virajjati.
ない 信が ない 離欲し
○一口メモ
今回も引き続き聖者の特徴が述べられます。中村先生の訳を見出しにして説明させて頂きます。
「快いものに耽溺せず」について。生きることのほとんどは苦であっても、少しの楽があるために人間は生きることを嫌がらずに、何としても生きて生きたいと思っています。しかし、聖者は快いもの(快楽)は人間を迷わす毒だと知って快いもの(快楽)に耽溺しないのです。聖者はその理由を知って、渇愛を滅していますから、快いもの(快楽)に執着することがありません。
「高慢にならず」について。前回の852偈の「傲慢にならず」とほぼ同じです。毎田先生は「思い上がっていい気にもならず」と説明しています。
「柔和で」について。正田先生は「〔所作進退が〕優雅で〔隙なく〕」と説明しています。
「弁舌さわやかに」につい。毎田先生は「機智に富み」と訳されています。正田先生は「即応即答〔の知慧〕ある」と説明されています。教条的な知識でなく、事実に即した分かりやすい智慧による話をするということだと思います。
「信じることなく」について。毎田先生は「自分の信ずることを人におしつけず」と訳されました。正田先生は「限定された特定の信仰を持たず」と説明されています。注釈書には信は盲信として、自信が覚った法を信じ、誰の法も信じないとしています。私は「信じる」ということではなく、「理解した」或は「納得した」ということだと思っています。
「なにかを嫌うこともない」について。毎田先生は「自分はどうしても無欲にならねばならぬとも思っていない」と訳されました。正田先生は「離貪という行為自体が存在しない」と説明されています。聖者は何かをしようとする作為がないので、離欲もしようとも思わない。すなわち無為の態度かなと私は思いました。
快楽に 耽ることなく 穏やかで 弁舌さわやか 離欲思わず<853>
○人生の万能薬(慈悲の瞑想)
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように
*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。
~~~~~~お知らせ~~~~~~
◎特別連絡:4月29日(水)から5月6日(水)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。尚、朝5時から7時の自主瞑想回は通常通り行います。理由はワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するためです。しかし、朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。
◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。
◎ライターの森竹ひろこさんのブログ「コマメディアー史上最弱の仏弟子コマメー」で「[報告]正田正観先生の現代語訳「小部経典」が発売!記念祝賀会の報告」という記事が掲載されています。
http://blog.goo.ne.jp/komamenet/e/488d72d3512f675ea970219bdcaac28a
その中でこのブログで引用させて頂いている正田先生の御姿や私(ワンギーサ)の写真も掲載されています。是非上記ブログを訪問して下さい。
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この記事へのコメント
毎田先生の「自分はどうしても無欲にならねばならぬとも思っていない」の訳は、とても印象的でした。その意味の深さをこれからじっくりと味わいます。
ご指導ありがとうございました。
個別具体的な生々しい問題に「具体的な答え」をされたのだと思います。
当時の人々は人生のあらゆる問題を釈尊に相談し、そして解決してきたそうです。
まさに「ブッダの智慧で答える世界」だったのだと理解しました。
今日も勉強になりました。有難うございます。
ワンギーサ長老解説の「聖者は何かをしようとする作為がないので、離欲もしようとも思わない。すなわち無為の態度かな・・」とても分かり易く感じました。
自分の心が欲を作っていると実感致します。それを減らせたら→無くせたら、離欲の必要もない訳ですよね。
目指したいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
そのような状態と「聖者は何かをしようとする作為がない」の状況は比較にもならないように感じますが、聖者の域が少しでも分る様に精進したいです。