学びから 利得なくとも 怒らない 渇愛ないから 対立しない<854>

○少年少女のためのスッタニパータ<854>
・・・
勉強するのは
試験に合格するためではありません。
試験があってもなくても
人間としての教養を身につけ
人格を向上させるためです。


第3 八つの詩句の章 10.死前経 7.

○毎田周一先生訳
854.
何かを得ようとして学ぶのではなく 
従って何も得られなくてもあわてず
愛欲に捉われて 人と関係をきしませず 
又美味を貪りもしない


○中村元先生訳
854
利益を欲して学ぶのではない。
利益がなかったとしても、怒ることがない。
妄執のために他人に逆らうことなく、
美味に耽溺することもない。


○正田大観先生訳
861.(854) 
利得(行乞の施物)を欲して学ばず、
さらには、利得がないときも怒りません。
しかして、〔他者を〕遮らない者(他者にたいし敵意なき者)は、
諸々の味について、渇愛〔の思い〕で貪り求めません。(7)


○パーリ語原文
860.
ラーバカンヤー    ナ     スィッカティ
‘‘Lābhakamyā     na     sikkhati,
利得のために     ない    学ば(ない)

アラーベー    チャ    ナ    クッパティ
alābhe       ca      na    kuppati;
利得なくとも   又     ない   怒ら(ない)

アウィルッドー     チャ    タンハーヤ
Aviruddho        ca     taṇhāya,
対立しない       又     渇愛のために

ラセース    ナーヌギッジャティ
rasesu      nānugijjhati.
味において  貪らない


○一口メモ
聖者の特徴の説明が具体的で生々しくなってきました。このように述べられると心にしみてくるのです。

「利益を欲して学ぶのではない。」について。正田先生は「利得(行乞の施物)を欲して学ばず」と訳して、利得を行乞の施物と説明されています。比丘(出家者)は食事のお布施をもらうために、経典を学ぶのではないのです。しかし、一部にはそのような比丘もいるようです。そのような比丘は法要でお経を読んで、お布施のもらいが少ないと怒りが湧いてくるのでしょう。聖者は渇愛がなく利得を求めるということがありませんから、怒りが起こりません。その意味が一行目、二行目です。

次の「妄執のために他人に逆らうことなく」について。妄執は愛欲あるいは渇愛、欲望と考えて良いでしょう。「他人と逆らう」とは他人と対立することです。何故対立するのでしょうか。それは他人と利益が対立するからなのです。他人との対立の本質は利益の対立であり。欲望の対立なのです。しかし、そもそも聖者は対立する欲望がありませんから、対立しないのです。

「美味に耽溺することもない。」について。昨日の853偈で述べられた「快いものに耽溺せず」がより具体的に、「美味」になったのです。もちろん聖者は美味しいものにも耽溺しないのです。解脱した人も美味しい不味いは分かるようですが、美味しいからと言ってそれに引きずられないのです。凡夫はそのことに味気ない人生だと思うでしょうが、聖者にとっては味に関する煩いのない安穏な状態は最高なようです。ブッダは「涅槃は最高だ。」と述べておられます。


学びから 利得なくとも 怒らない 渇愛ないから 対立しない<854>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~


◎特別連絡:4月29日(水)から5月6日(水)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。尚、朝5時から7時の自主瞑想回は通常通り行います。理由はワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するためです。しかし、朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


◎ライターの森竹ひろこさんのブログ「コマメディアー史上最弱の仏弟子コマメー」で「[報告]正田正観先生の現代語訳「小部経典」が発売!記念祝賀会の報告」という記事が掲載されています。
http://blog.goo.ne.jp/komamenet/e/488d72d3512f675ea970219bdcaac28a
その中でこのブログで引用させて頂いている正田先生の御姿や私(ワンギーサ)の写真も掲載されています。是非上記ブログを訪問して下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2015年04月15日 04:22
おはようございます。
「美味を貪りもしない」
戒めます。
ご指導ありがとうございました。
2015年04月15日 04:34
出家世界のことはわかりません。

生存戦略上に必要なものを得ようとする目的で個人も企業も学ぶ。

健康で長生き、、、そのこと自体は決して悪いことでないと思いますが、それを生きる目標とすると様々なトラブル(苦)が生じます。

何故なら、健康を害するもの、死の原因になるものは無数にあり、常にそれらと闘っていなければならないからです。

そして、老後は美味しいものが食べられることに幸せを感じる。

ごく当たり前の光景ですが、聖者のそれは全く違うのでしょう。
みき
2015年04月15日 06:17
おはようございます

昨日は3.5時間ほどサービス残業をしました。決してさぼっているわけではありません。仕事が多くてオーバーワークの毎日です。

世の中には残業もせず多額の給与を頂く人もいます。片一方私のように残業サービスをしても貧困な方は沢山います。

多くの見返り(給与)を期待して働くと、希望通りいかない場合は怒りが湧いてきます。しかし、これは他人に為にする仕事、社会や会社の役に立っている、と思えば怒りはでてきません。不思議ですが、心の持ち方で仕事は楽しくもなるし苦しいものにもなります。仕事だけではなく趣味や生活の中でも当てはまることだと思います。
りんご
2015年04月15日 06:39
聖者の特徴を見ていくと、世間での人々と違うのを感じます。
「出世間」と表現するのも、この違いを言っているのかなと解釈しました。
noritarou
2015年04月15日 10:03
ワンギーサ先生の法施に感謝致します。

意図せず自然に離貪に向かい、
得る事や失う事、
好き嫌い、
それら概念や、感情、見解というサンカーラから超然と離れることで、安楽が生まれているのだろうと思いました。

「コマメディア」拝読しました。
早速、小部経典の1巻を購入させて頂きました。
改めてダンマパダを読んで気になった所です。
・心を守る事が安楽をもたらす
・自己の為した悪が自己を破滅させる
・恐怖した心は、依存する対象に赴く
・善は為し難い

生きとし生けるものが幸せでありますように。
身の丈修行者
2015年04月15日 12:26
何か見返りがなければ、やる意味がない・・との様な利益重視の生き方をしてしまうと、渇愛が増え本当の幸いは得られないように思います。
慈しみの実践も、利得重視では出来ないように感じます。
そのような考え等々は捨て、渇愛を減らして参りたいです。
ワンギーサ長老・皆様の午後も幸いでありますように。
こころざし
2016年10月26日 21:54
色々考えるという過程においてはどんな学問も無駄ではないのでしょうが、人格の向上につながらない・・のであれば意味は乏しいように思います。私事ですが、現在人間味のある介護を学んでいますが、それはその後現場で実践し、お年寄りの心が喜ぶような状況までもっていけないと、知識の自己満足状態でしかない・様に思います。
意味のある域まで行けるように努めて参りたいです。