平静で 常に念ある 聖者らは 等・勝・劣を 思うことない<855>

○少年少女のためのスッタニパータ<855>
・・・
始めは違いが見えます。
よく見ると同じが見えます。
そして同じが大切だとわかります。


第3 八つの詩句の章 10.死前経 8.

○毎田周一先生訳
855.
歓び悲しみも届かぬ静かな処に いつもすっきりした気持で居り
この世の中で 自分を人と等しいとも思わなければ
また勝れているとも劣っているとも思わず
総じて何の思い上りもない


○中村元先生訳
855
平静であって、常によく気をつけていて、
世間において(他人を自分と)等しいとも思わない。
また自分が勝れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。
かれは煩悩の燃え盛ることがない。


○正田大観先生訳
862.(855) 
〔愛憎の思いを〕放捨した、常に気づきある者は、
世において、〔自己と他者について〕『等しい』と思いません。
『勝る』〔とも思い〕ません。『より劣る』〔とも思い〕ません。
彼には、諸々の増長〔の思い〕は存在しません。(8)


○パーリ語原文
861.
ウペッカコー     サダー    サトー
‘‘Upekkhako     sadā      sato,
平静で         常に     気づきあり

ナ     ローケー    マンニャテー    サマン
na     loke       maññate       samaṃ;
ない   世間で     考え         等しいと       

ナ    ウィセースィー    ナ    ニーチェッヨー
Na    visesī          na    nīceyyo,
ない   勝れている      ない   劣っている

タッサ      ノー   サンティ    ウッサダー
tassa       no     santi      ussadā.
その人には  ない    存在し     増長は 


○一口メモ
今回の偈は三つに分けて、解釈できると思います。

第一の部分は始めの一行目。パーリ語のウペッカー(捨)、意味は冷静、平静です。これは喜怒哀楽の感情から離れた状態です。慈悲の冥想で「覚りの光があらわれますように」と唱えることは、この「捨」の心を育てているのです。これを毎田先生は「歓び悲しみも届かぬ静かな処」と訳されています。このように訳されると解るような気持ちになります。この言葉のあとに「常に気づき(念)のある(者)」が続きます。それは常に気づきあると、平静でいられるからです。毎田先生は気づきのある状態を「すっきりした気持ちでいる」と訳されました。気づきあれれば気持ちはすっきりしていますね。

第二の部分は二行目、三行目です。「この世の中で、自分を人と等しいとも思わなければ、また勝れているとも劣っているとも思わず」です。これは、第一の部分の状態にある聖者は、自分を他人と等・勝・劣と思わないのです。平静で気づきのあると、自分を他人と比較することなく、等・勝・劣を思わないのです。自分と他人の区別よりも人間として、対等・平等であることを感じているのです。

第三の部分は四行目「彼には、諸々の増長〔の思い〕は存在しません。」(正田先生訳)です。一行目から三行目で述べた聖者はこのような方だというのです。中村先生訳の「かれは煩悩の燃え盛ることがない。」ということでしょう。


平静で 常に念ある 聖者らは 等・勝・劣を 思うことない<855>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎特別連絡:4月29日(水)から5月6日(水)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。尚、朝5時から7時の自主瞑想回は通常通り行います。理由はワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するためです。しかし、朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


◎ライターの森竹ひろこさんのブログ「コマメディアー史上最弱の仏弟子コマメー」で「[報告]正田正観先生の現代語訳「小部経典」が発売!記念祝賀会の報告」という記事が掲載されています。
http://blog.goo.ne.jp/komamenet/e/488d72d3512f675ea970219bdcaac28a
その中でこのブログで引用させて頂いている正田先生の御姿や私(ワンギーサ)の写真も掲載されています。是非上記ブログを訪問して下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2015年04月16日 04:15
おはようございます。
「歓び悲しみも届かぬ静かな処」。ここに至ることができたら、と思うと、わくわくします。でもそれも妄想ですよね。
ただ気付く。心を育てる。これだけに専念します。
ご指導ありがとうございました。
2015年04月16日 04:21
目下、食事の際に「ガツガツ」早食いで食べる癖と格闘してます。

ガッツクのではなく、じっくりと気付きを保って食事するように心がけてます。
油断すると、気がつかないうちに平らげてしまいます。

食事が逃げるわけじゃあるまいし、、無知(混乱した)な行動そのものです。
りんご
2015年04月16日 05:15
気づき(念)のある状態が、「捨」の状態なのだなと、理解しました。
身の丈修行者
2015年04月16日 06:32
おはようございます。
毎日している慈悲の冥想ですが、ワンギーサ長老の分かり易い本文・解説の「(捨)、意味は冷静、平静・・喜怒哀楽の感情から離れた状態・・「覚りの光があらわれますように」と唱えることは、この「捨」の心を育てている・・」を知りませんでした。何となくですが渇愛無く念を入れて生きれる事かなとの様な解釈でいたので、至福に思いました。
スマナサーラ長老の文に、慈悲喜捨の冥想実践が進むと「自と他は同じもの」と分かる、と拝見して意味が分からず、質問させて頂きました。平等で差はない・自分は別と思っている間違いに気がつく事を教えて頂き、大切な学びを頂けました。
本日のワンギーサ長老の厚意でさらに深みを頂けました様に思います、感謝致します。
ワンギーサ長老・皆様の今日も幸いでありますように。
2015年04月16日 08:46
サティとサンパジャーナの実践ですね。
てくてく
2015年04月16日 16:35
こんにちは。
てくてくでございます。

今日の偈をこのように思いました。

『常に 気づきあり』とは、何に気づくのでしょうか?と。

それは、聖者を聖者と気づき、人を人と気づき、ブッダをブッダと気づく、ということと思いました。

人は人、聖者は聖者、ブッダはブッダと、常に気づき行こうと思いました。
こころざし
2016年10月26日 22:01
共生して生きていくには、自と他の区別をしてさらに差別化してしまうのではなく、自も他もない平等な姿勢になるほうがやり易いように感じます。実際に実生活で、どなた様とも喧嘩をせず・敵にはせず、共生させて頂きますとの姿勢ですと、不思議とトラブルが生じないと実感した事があります。
対等・平等の姿勢、実践して参りたいです。