物事を よく知ったから 依存せず 生死をともに 願うことないく856>

○少年少女のためのスッタニパータ<856>
・・・
さくらの花が
散ってしまうように
すべてのものは
変化してなくなります。
それを悲しまないように。


第3 八つの詩句の章 10.死前経 9.

○毎田周一先生訳
856.
この人が何の拠り処ももたないのは
物事の本性をよく知って それによりかからぬからである
そこには生きようとする強い願いも
又生きることを止めようとする強い願いも そのどちらもない


○中村元先生訳
856
依りかかることのない人は、
理法を知ってこだわることがないのである。
かれには、生存の断滅のための
妄執も存在しない。


○正田大観先生訳
863.(856) 
彼に、〔他者に〕依存することが存在しないなら、
法(真理)を知って、依存なき者となります。
彼に、〔迷いの〕生存への〔渇愛の思いが〕、あるいは、〔迷いの〕生存から離れることへの
渇愛〔の思い〕が、見い出されないなら――(9)


○パーリ語原文
862.
ヤッサ     ニッサヤナー    ナッティ
‘‘Yassa    nissayanā       natthi,
その人に   依存することが   存在しない

ニャトゥワー   ダンマン      アニッスィトー
ñatvā        dhammaṃ     anissito;
知って       真理を       依存しない

バワーヤ     ウィバワーヤ     ワー
Bhavāya      vibhavāya       vā,
生存(生)にも  非生存(死)にも   或は

タンハー   ヤッサ     ナ     ウィッジャティ
taṇhā      yassa      na     vijjati.
渇愛が    その人には  ない   見出せ(ない)



○一口メモ
今回の偈の一行目と二行目の関係は、三人の先生方の考え方が違います。毎田先生は、二行目が原因で一行目が結果です。中村先生は一行目と二行目が並列的です。正田先生は一行目が原因で二行目が結果です。どの訳も一理あります。実際はどのような関係にあるのでしょうか。

パーリ語に忠実に訳すると正田先生のようになると思いますが、そうすると、一行目はどのようにしてそうなるのか考えてしまいます。すなわち、どのようにして依存しない者になるのかと言うことです。その点、毎田先生のように、「物事の本性をよく知って それによりかからぬからである」と考えると解りやすいと思います。依存しないためには、物事の本性をよく知ることだということになります。

物事の本性を知るとは、無常だと知るということです。無常なものには依存できません。無常なものは確固たるものではありませんから、それに依存できません。そのことを正しく知った人は依存しません。という訳で、「物事の本性をよく知って それによりかからぬからである」ということになるのです。という訳で今のところ私は毎田先生の訳を取ります。

三行目、四行目は、聖者には渇愛がないということです。渇愛の内容には三種類あります。①欲愛:五欲(眼、耳、鼻、舌、身、意の欲)に対する渇愛。②有愛:生きたいという渇愛。③無有愛:死にたいという渇愛。この偈は渇愛の有愛と無有愛が表現されているのです。

では、一、二行目と三、四行目の関係を考えてみましょう。すなわち依存しないことと渇愛がないこととどのような関係があるのでしょうか? その時のキーワーダは無常です。物事の本性は無常であると知った人は、依存しないと同様に、物事の本性が無常だと知った人には渇愛は起こらないのです。渇愛は渇愛の対象を契機として起こりますが、その対象は無常であり、渇愛の対象になりえないと知ってしまえば、渇愛は起こらないのです。五欲に対する渇愛は分かりやすいと思いますが、生きることも、死ぬことも無常です。今自分が考えている生も死も無常なのです。渇愛の対象にならないのです。そのことを正しく知れば聖者と同じように、「生きようとする強い願いも、又生きることを止めようとする強い願いも、そのどちらもない」のです。


物事を よく知ったから 依存せず 生死をともに 願うことないく856>



○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎特別連絡:4月29日(水)から5月6日(水)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。尚、朝5時から7時の自主瞑想回は通常通り行います。理由はワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するためです。しかし、朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


◎ライターの森竹ひろこさんのブログ「コマメディアー史上最弱の仏弟子コマメー」で「[報告]正田正観先生の現代語訳「小部経典」が発売!記念祝賀会の報告」という記事が掲載されています。
http://blog.goo.ne.jp/komamenet/e/488d72d3512f675ea970219bdcaac28a
その中でこのブログで引用させて頂いている正田先生の御姿や私(ワンギーサ)の写真も掲載されています。是非上記ブログを訪問して下さい。


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この記事へのコメント

りんご
2015年04月17日 04:24
何かに依存するのは、どこかで、その対象が無常であることを理解していない部分が、きっとあるのだなと感じました。
2015年04月17日 04:46
無常と渇愛との関係の解説有難うございます。

一方で無常であるが故に、渇愛が生じるという側面もあります。

今見た薔薇の花は次の瞬間変化してしまい、それ故、最初見たその薔薇を花屋さんで買うことは実際出来ません。自分の視覚も既に変化してます。そこに不満が生じます。

無常と渇愛との関係を整理する必要があると思いました。

それから、虚無への渇愛が何故に生じるのか疑問でしたが「今考えてる生も死も無常」ということで、その渇愛が生じた時、死を妄想して実体視してることに気づきました。

今日の内容は今後の課題にさせて頂こうと思います。
みき
2015年04月17日 05:58
おはようございます。ワンギーサ先生、ご指導有難うございます。無常とは説明されると頭では「わかった!」という気持ちになります。しかし、現実には渇愛が生じてきて苦しみます。

物事の無常を正しく理解できると渇愛は消えて執着がなくなります。

つまり、私は理解したようで理解できていないのです。理解するためにはどう行動・考えればよいのでしょうか?

よくよく考えてみようと思います。
身の丈修行者
2015年04月17日 06:15
おはようございます。
日々色々な事がありますが「無常ですから・・」の一言で全て含むように感じています。
日常で接する人達が日々の出来事から「あーでもない・こーでもない」と話したり・感情的になるシーンが少なからずあります。心の揺れを感じます。
要点のみ抑えて必要な対応をして流すと時間はそうかからないし感情の起伏も少ないです。何より消耗しにくいです。
依存・渇愛に繋がっていかないように無常を分かり、そして心が安定して過ごして参りたいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も幸いでありますように。
kempsford
2015年04月17日 12:23
こんにちは。
渇愛と無常との関係を分かりやすく説明して頂き、ありがとうございます。「生きる」ことへの「願い」は、一般では、「尊い」とされています。でもそこに潜む無常という真理・苦という真理を知って、それを乗り越えるべき道を目指すのは至難の技です。しかしそこにしか幸福はないことも真理です。このことを再認識することができました。
ご指導ありがとうございました。
noritarou
2015年04月17日 12:38
煩悩も、欲も、渇愛も不完全であり、それ自体が不満であり、苦です。
すべて無常だとわかると、無明がなくなり、「私・生死・渇愛」を含め、実体・固体あるものは存在しなくなり、心に安楽をもたらします。

生きとし生けるものが幸せでありますように。

この言葉ほど、そのときの状態を的確に表す言葉を私は他に知りません。
偉大なるブッダに帰依します。
素粒子空
2015年05月28日 19:10
生きてるのなんて、無意味、無価値、なんの重要性もない。生き続けたいって、苦しみ続けたい、ということ。別に今死んでもかまわない。三渇愛振り払えば、すっきり気楽ああ楽ちん。もっとトレーニングしたいとやめられなくなりまんなー。
こころざし
2016年10月27日 20:46
○○が欲しいと思っても、その対象も自分も変化していきます。ですが、その欲しいと思っている時は、それらが無常とは見ていないと感じます。全ては無常であり、渇愛の対象にならない事を、本当の意味で分かる事が出来る様に、精進して参りたいです。