子供らも 家畜もおらず 土地もない 得たり捨てたり したものもない<858>

○少年少女のためのスッタニパータ<858>
・・・
子供がいれば幸せですか?
仕事があれば幸せですか?
財産があれば幸せですか?


第3 八つの詩句の章 10.死前経 11.

○毎田周一先生訳
858.
その人の処には子供も家畜もおらず 
田畑や屋敷もない
そして彼が手に入れたものとか 未だ手に入れなかったものとか
そういうものが彼の内には何もない


○中村元先生訳
858
かれには、子も、家畜も、
田畑も、地所も存在しない。
すでに得たものも、捨て去ったものも、
かれのうちには認められない。


○正田大観先生訳
865.(858) 
彼に、子供たちや家畜たちは〔見い出され〕ません。
さらには、田畑や地所も見い出され〔ません〕。
あるいは、また、自己が、あるいは、自己ではないものが、
彼においては、〔対象として〕認められないのです。(11)


○パーリ語原文
864.(858)
ナ     タッサ    プッター    パサウォー
‘‘Na    tassa     puttā      pasavo,
ない    彼に     子供      家畜

ケーッタン   ワットゥンチャ     ウィッジャティ
khettaṃ     vatthuñca       vijjati;
田畑       家屋敷・或は     見出せ(ない)

アッター        ワーピ    ニラッター      ワー
Attā           vāpi      nirattā         vā,
得たもの(自我)   或はまた  捨てたもの(無我) 或は

ナ    タスミン     ウパラッバティ
na    tasmiṃ     upalabbhati.
ない  彼には     認められない


○一口メモ
子供がいるということは結婚して幸せな家庭ができ子供ができるということです。そして家畜が居るということは畜産という安定した職業があり、田畑や屋敷があるということは財産があるということです。すなわちそれは現代でも通用する理想的な幸福の世間的なイメージです。しかし、この偈では、子供もいない、家畜もいない、財産もない人について述べられています。これは世間的な考えでは不幸な人になります。この偈ではそれについて具体的な評価をしていません。次の偈でそれを述べることになります。

この偈の三行目のattāとnirattāにはそれぞれ二つの訳があります。attāは①得たもの、②自己、自我nirattāは①捨てたもの、②無我、非我です。毎田先生及び中村先生は、「得たもの、捨てたもの」の訳を取り、正田先生は「自己、自己でないもの」という訳をしています。しかし、どちらの訳を取ってもその真意は簡単ではありません。

簡単に訳しなおすと「彼には得たものも捨てたものもない」或は「彼には自我も無我もない」ということになります。これをあえて説明すれば、「彼には得ようとしたものも捨てようとしたものがない」であり、作為がないということになります。それを「自我も無我もない」という言葉で表現しているのです。


子供らも 家畜もおらず 土地もない 得たり捨てたり したものもない<858>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎特別連絡:4月29日(水)から5月6日(水)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。尚、朝5時から7時の自主瞑想回は通常通り行います。理由はワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するためです。しかし、朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


◎ライターの森竹ひろこさんのブログ「コマメディアー史上最弱の仏弟子コマメー」で「[報告]正田正観先生の現代語訳「小部経典」が発売!記念祝賀会の報告」という記事が掲載されています。
http://blog.goo.ne.jp/komamenet/e/488d72d3512f675ea970219bdcaac28a
その中でこのブログで引用させて頂いている正田先生の御姿や私(ワンギーサ)の写真も掲載されています。是非上記ブログを訪問して下さい。


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この記事へのコメント

2015年04月19日 04:42
放逸に食事をすると、美味しいものから食べたりします。相対的に不味いものは後回し(相対的に捨てようとしている)ことになります。

ところが、相当細かく実況中継をすると、その差がどんどんなくなってきます。選り好みがなくなります。
「自分が」という意識が弱まり、ただ食べているのです。

正田先生の「自己、自己でない」は「慈悲喜捨」に繋がるように思いました。
noritarou
2015年04月19日 10:18
>自我も無我もない

瞬間ごとに五蘊から現れ出てくる「私・自我」という、妄想の化け物もいない。
また、瞬間ごとの生滅により、その「私・自我」がいないということもないことを理解するが、無常を体感することで、その「無我もまた、ない」ということを洞察したのだろうと思いました。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
kempsford
2015年04月19日 11:13
おはようございます。
妻子なし、かつ平社員でもうすぐ定年を迎える私は、「理想的な幸福の世間的なイメージ」とは真逆の人間です。そのため「この偈ではそれについて具体的な評価をしていません」とされ、結果が判明する「明日」に胸騒ぎを感じています。でもワンギーサ先生の教えから逃げることは決して致しません。明日も、逃げずにきちんと学びます。
よろしくお願い致します。
身の丈修行者
2015年04月19日 12:43
(悟ってない私が記載させて頂くのは恐縮ですが)文字で理解しようとするとかえって智慧から遠ざかるような内容かなとも感じます。
理解するには冥想実践がその道と思われます。
ワンギーサ長老の分かり易い本文・解説の「彼には得ようとしたものも捨てようとしたものがない」から、感じているもので止まり思考・妄想がなくなると、幻覚に惑わされる事はない智慧になるのではと、言葉上で想像致しました。
真の意味で分かるように、冥想実践をして参りたいです。
ワンギーサ長老・皆様の素晴らしい午後~となりますように。
SRKWブッダ
2015年04月19日 15:08
世人の豊かさや貧しさは、客観的に分かるものである。その一方で、〈道の人〉の(学識や功徳の)豊かさは、外からは窺い知れない。このことを、「かれには認められない」と表現している。

かれには、世俗的なものは何も認められない。そして、それとは別の何か得たものも(外からは、衆生から見ては)認められない。また、かれが何か失ったもの(=覚るために犠牲にしたもの)も認められない。

なお、釈尊には子供があり、私(=SRKWブッダ)にも子供があるが、言語表現上は子供は認められないと言える。もちろん、覚者は子どもを捨て去っているわけでもない。この真意・機微が分かる人は、平等心ということを完全に理解していると認められ得る。

***
こころざし
2016年10月27日 20:55
私には現在、子供・仕事・(家などの)財産があります。俗世間的には幸せな部類に入ると思います。ですが冷静に観察すると、それらから幸福だと錯覚している自分に気が付きます。何かあると容易に生き難くなると思われます。そのような次元ではない「得ようとしたものも捨てようとしたものがない」状況になれるようにしたいです。