自説を 持たない聖者 蓮のよう 欲や世間に 汚れることない<845>

○少年少女のためのスッタニパータ<845>
・・・
泥沼から生えるハスの花は
なぜあんなに美しいのだろうか?
欲や怒りの世間のなかにいて
なぜ聖者は清らかなのか?


第3 八つの詩句の章 9.マーガンディヤ経 11.

○毎田周一先生訳
845.
何の捉われもなく この世を堂々と生きてゆく修道者は
これが自分の説だなど論ずべきではない
水に生える棘(とげ)のある蓮が
水にも泥にも汚されぬように
静かな人は安らぎへの道を明かして 情熱に駆られず
欲望にも世間にも汚されない


○中村元先生訳
845
竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、
それらに固執して論争してはならない。
たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が、
水にも泥にも汚されないように、
そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、
欲望にも世間にも汚されることがない。


○正田大観先生訳
852.(845) 
それら(諸々の悪しき見解)から遠離した者として、世を渡り歩くべきであるなら、
龍(牟尼)は、それらに執持して、〔自説を〕説くことはないのです。
たとえば、汚水に生える、荊ある水蓮が、
水に〔汚されず〕、さらには、泥に汚されないように、
このように、〔内なる〕寂静を説く牟尼は、貪求なき者であり、
欲望〔の対象〕にも、世〔間〕にも、汚されないのです。(11)


○パーリ語原文
851.(845)
イェーヒ     ウィウィットー    ウィチャレッヤ    ローケー
‘‘Yehi      vivitto         vicareyya       loke,
それから    離れて        遍歴するがよい   世間を

ナ     ターニ    ウッガイハ   ワデッヤ    ナーゴー
Na     tāni      uggayha     vadeyya     nāgo;
なかれ  それらを   取り上げて   論争する    聖者は

ジャランブジャン    カンダカン    ワーリジャン     ヤター
Jalambujaṃ       kaṇḍakaṃ     vārijaṃ        yathā,
水蓮の          棘を        水中の        ように      

ジャレーナ   パンケーナ    チャヌーパリッタン
jalena       paṅkena      canūpalittaṃ;
水で       泥で        また汚されない

エーワン   ムニ    サンティワードー    アギッドー
Evaṃ      munī    santivādo         agiddho,
そのように  聖者は  寂静を語り        貪りなく

カーメー   チャ    ローケー    チャ    アヌーパリットー
kāme      ca     loke        ca     anūpalitto.
欲で      また    世間で      また    汚されない


○一口メモ
今回の偈は六行でできています。四行では表現しきれなかったのでしょうか。始めの二行は前回の偈を受けて、道に達した聖者は諸々の偏見から離れているので、自説を取り上げて、論争する筈はありません。また論争すべきではないと強調しています。

次の二行はそのような聖者を蓮に譬えているのです。蓮は池底の泥に根を張り、そこから茎が伸び、葉や花は水面に抜き出します。その時、葉や花は水や泥で汚れないのです。そのように聖者は欲望にも世間にも汚されないと言うのです。

その時の聖者の様子は安らぎ(平安あるいは寂静)を説く者であって、貪ることがないと述べられています。そろそろこの経の佳境に達しました。これは解脱した聖者の境地ですが、その過程について、私は昨日の一口メモでkempsfordさんのコメントに対する答えの形で述べましたが不完全なものでした。しかしSRKWブッダさんがそれを捕捉するようなコメントを述べてくれましたので、ここに引用させて頂きます。SRKWブッダさんありがとうございました。

(以下引用)「もろもろの如来は、無思考によって覚ることが出来るとは説かない。また、思考によって覚ることが出来るとも説かない。

もし無思考によって覚ることが出来るとするならば、いわゆる空住によって覚りに達するということになるが、それによって得られるのは極めたとしても無所有処や非想非非想処に過ぎず、覚り(=解脱)ではない。

また、思考によって覚ることが出来るとするならば、それでは覚りは段階的に達することが出来るということになるが、覚りの実際は漸悟では無く頓悟である。

では、無思考も思考も修行とは無関係なのであるかと言えば、決してそんなことはない。正しくある無思考と正しく為される思考は、道の歩みの一つの糧となるからである。たとえば、字が上達する人はあるときは字について無思考であり、あるときには字について思考するであろう。

世間のあらゆることがらにこだわることなく、こだわりを離れるということについてもこだわりを離れ、真実の真相を追求するとき、人は次第次第に真実に近づく。そうしてついに解脱が起こる。

***SRKWブッダ」(以上引用)


自説を 持たない聖者 蓮のよう 欲や世間に 汚れることない<845>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

2015年04月06日 04:40
たとえ他者と論争しなくとも、内なる論争、葛藤がある限り、心は動揺します。

見解に固執すると、内なる衝突は必然です。「それは違うだろ!」と。

例えば、新聞の書評欄を読むと、それまで気づかなかった自分の偏見、思い込み、先入観がわかったりします。

何故なら、新たな本は「それまでの定説、漠然とした常識、人々が抱きがちな偏見、先入観」などに対する「疑問や問題点、あるいはアンチ」を主張してるケースが多いからです。当たり前のことを書いても誰も買ってくれませんから。

あくまでも、自分の偏見や先入観に気づくことが大切で、すると「そうであるに決まってる」から「そうであるとは限らない」と変更になります。

「そうであるとは限らない」と自覚すると、世の中にある様々な主張と衝突し、内面的に葛藤することが少しずつなくなってきます。
身の丈修行者
2015年04月06日 08:02
おはようございます。
「自説を持たない・・」から、感じている事で止まり思考・見解・・と繋がって行かない聖者の様子を感じました。
SRKWブッダ様が下さったコメント・本文引用の中の「覚りの実際は漸悟では無く頓悟である」この意味が分かりません。宜しければ教えて頂けましたら幸いに思います。
ワンギーサ長老・SRKWブッダ様・皆様の今日も幸いでありますように。
SRKWブッダ
2015年04月06日 09:12
たとえば、ボルトとナットは徐々に、いわば段階的に解けていき、ついにそれぞれのピースに分離する。これがいわゆる漸悟であるが、分離した時に別に感動は生じない。

その一方で、知恵の輪は次第次第に正解に近づき、まるで正解に近づいていないようでありながら、突然に解け、独特の感動を生じる。これが頓悟に当たる。覚りの修行も同様に、精進により、また功徳を積むことにより、次第次第に覚り(=解脱)へと近づき、修行者が自分の覚り(=解脱)はまるで覚りは遠いことのように思っているとき、不意に因縁を生じてこの解脱が起こる。ここにおいて〈特殊な感動〉を生じ、また解脱知見を得る。

知恵の輪に取り組む途中の試行錯誤は無駄とはならず、それが感動を生じる一つの要因ともなるであろう。同様に、覚りに向けた遍歴は無駄ではなく、功徳は決して損なわれず、功徳が充分に積まれたときに解脱を生じ〈特殊な感動〉(=法華経では大歓喜と記す)が起こる。細かいことは略しているが、これが覚りの全貌である。修行者は、回りくどい修行に落ち込むことなく、正しい遍歴を為して、頓悟によって解脱すべきである。人は、この一なる道によってのみ仏となるからである。

***
ピンキー
2015年04月06日 16:06
身の丈修行者様。

預流果、一来果、不還果、阿羅漢果、という悟りの段階を藤本晃先生は漸悟と説明されているので、混乱されているのかもしれません。

確かに、アーナンダ尊者のように長年預流果であられた方が結集直前に急に阿羅漢果に悟られたりしてます。

これについてスマナサーラ長老に質問したことがあります。

長老によれば、急に阿羅漢果を得るような場合においても、預流果、一来果、不還果、阿羅漢果という順番は変わらない、というお話でした。

私なりに説明(長老が手で説明されたので)すれば、例えば、新幹線で東京から新大阪まで行くとします。

この場合、ノンストップで新大阪まで行くにせよ、途中の名古屋駅を通過せずには新大阪までは行けません。

いきなり阿羅漢果を得たように見える場合でも、預流果、一来果、不還果を通過せずには阿羅漢果は得られません。

私見ですが、漸悟か頓悟かは上記の意味で問題にはならないかと思われます。

迷いは修行の妨げにもなりますので、ご参考にしていただければ幸いです。
kempsford
2015年04月06日 18:55
こんばんは。
「その時、葉や花は水や泥で汚れないのです」。
先生が示してくださった、ここが私の目標です。なんとかしてここまで心を成長させたいものです。
日々ご指導ありがとうございます。
身の丈修行者
2015年04月06日 20:48
ワンギーサ長老・SRKWブッダ様・ピンキー様ご厚意を有難うございます。とても勉強になりました。
ワンギーサ長老の厚意で素晴らしい方がこのブログに集っているんだなと感じました。
心より感謝申し上げます。
素適な夜となりますように。
こころざし
2016年10月22日 07:35
自我を持ち、認識から概念を持ち、そして・・とどんどん偏見が出来てしまうように思います。智慧を持ってその流れを知り、そのようなものを超えた域に行ける様にしたいです。少なくとも、偏見で論争するような事は戒めたいと思います。