ここにこそ 清浄あると 主張して 他の教えには ないという人<892>

○少年少女のためのスッタニパータ<892>
・・・
私たちが正しい、君たちは正しくない。
そのように言う人の心は、
穏やかでないよね。
心は汚れているのです。


第4 八つの詩句の章 12.小集積経 15.

○毎田周一先生訳
892.
『ここにこそ清らかさがある』と説いて
他の教えの中には 清らかさがないという――
このように異説を称える人達は すべて執著して
自分自身の道をしっかりつかまえて論じている


○中村元先生訳
892
ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、
他の諸々の教えには清浄がないと言う。
このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、
かの自分の道を堅くまもって論ずる。


○正田大観先生訳
899.(892)
〔彼らは〕『まさしく、ここ(自説)に、清浄がある』と説きます。
他者の諸々の法(見解)について、清浄を言いません。
また、このように、異教の者たちは、個々〔それぞれ〕に〔思いが〕固着し、
自らの道において、そこにおいて、断固として〔自らの正しさを〕説いているのです。(15)


○パーリ語原文
898.(892)
イデーワ    スッディ   イティ    ワーダヤンティ
Idheva      suddhi    iti       vādayanti,
ここにのみ   清浄が   と       論じる

ナーンニェース   ダンメース    ウィスッディマーフ
nāññesu        dhammesu    visuddhimāhu;
ない・他の      教えに      清浄が(ない)と言う

エーワンピ   ティッティヤー    プトゥソー    ニウィッター
Evampi      titthyā         puthuso     niviṭṭhā,
このように   外道達は       別々に     執着して

サカーヤネー    タッタ    ダルハン    ワダーナー
sakāyane       tattha    daḷhaṃ     vadānā.
自分の道を     その    断固に     論じる


○一口メモ
今回も、自説を正しいとして、他説を批判する人々(外道、異説を称える人達)について述べられています。彼等は自説を堅く守っているのです。

その人の言葉が真実かどうかは、その人の言葉や行いでわかります。自分は清浄だと言いながら、他人を批判することはどうでしょうか。その態度は清浄とは思えません。ですから、この人は言っていることとその態度が違っているのです。もうこの事実で彼は間違っていると言えるでしょう。


ここにこそ 清浄あると 主張して 他の教えには ないという人<892>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


◎このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーを一日一回クリックして下さい。そうすると、仏教ブログのランキングが上昇します。御支援をお願い致します。


この記事へのコメント

2015年05月23日 04:40
私はある説なり主張に触れた時、「妥協点はないか」「共感できるところはないか」という立場で理解しようとしないとダメですね。
そうしないと、その主張そのものが理解できない。

一方。相違点→批判(粗探し)というパターンの場合にはそこにあるのは「怒り」の感情です。

「怒り」にやられて、様々な主張の真意を全く理解することなく、全面否定することになります。

単純に「怒った」だけなのです。

共感できるところを出発点とすると、相違点も冷静に見ることができます。
身の丈修行者
2015年05月23日 06:25
おはようございます。
今流れである(○○学)を勉強している方とやり取りしています。大切な事の本筋は同じ・・所もある様子です。魂とか出てくるのは・・ですが
それを否定するのでも・肯定するのでもなく、限られた時間を使いすぎる事もなく、こちらで学んでいます真理はどなた様も当てはまるはず・・のニュアンスで良い加減で接しさせて頂いています。
正直な感想は、こちらで学んだほうが分かり易く宜しい様にも思いますが、これが過ぎると今日の偈の者になってしまいますよね。戒めたいです。
私事ですが今日は小学生子供の運動会です。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
エル
2015年05月23日 07:09
自分が正しくあるためには、他の人は間違っていなければならない。ついついそういう構造をつくっていることに気づくことがあります。

ここ数年、一方的な自己主張をおさえ、相手が発言しやすいようにして、価値観の違う人に対しては「どうしてこの人はこう考えたのだろう」と思うようになってきました。まだまだうまくいきません。発言に慎重になりテンポのよいやりとり等できず、途中で固まってしまったりします。

しかし冷静に観察をはじめてから、話の内容より話し手の印象・キャラクターや立場や話し方が重視される場面が、私の周囲では多いことがわかってきました。話し合いの判断基準も実際は「正しさ」であることはほとんどありません。(効率性、単なる好み、○○が嫌、○○さんの意見だから・・・・・・)

俗世間の観点からも自説に固執するのは愚かなことだと思います。
kempsford
2015年05月23日 12:38
こんにちは。
努力(精進)しなければ、心を清浄に育てることはできない。でも、「清浄になった」、「清浄を掴んだ」、という慢を抱いた途端に、清浄から離れ、汚濁に落ちる。
怖いことです。これは、修行者が常に注意しなければならないことですね。
ご指導ありがとうございました。
SRKWブッダ
2015年05月23日 16:28
努力によって心を清浄にすることはできない。

悪を制し、とどめることによって、心が清浄になる。

慢心は、修行を停滞させるものである。慢を離れ、つつしんで修行する修行者の修行は、すみやかに進む。

欲心が、世間の汚れである。世人は欲心ゆえに悪に手を染めるからである。欲望がとどまることなく、すでに妄執を超えたならば、不滅のニルヴァーナへ至ると説かれる。

***
こころざし
2016年11月08日 09:40
本文を拝見し、他人が有効な意見を言うと、いつの間にかそれは自分が言い出したみたいに・自分の意見にすり替えて使っていた方がいたのを思い出しました。自分以外の人が正しいみたいな視点は何処までも持ちたくないのかなと想像致しますが、それでは視野がかなり狭くなってしまうと感じます。そのような姿勢にならないように戒めたいです。