戒律を 破ったりすれば おののいて 戒ある生活に 戻ろうとする<899>

○少年少女のためのスッタニパータ<899>
・・・
殺してはいけないから
殺さないのではない。
慈しみの心があれば
殺せないのです。


第4 八つの詩句の章 13.大集積経 5.

○毎田周一先生訳
899.
彼はもし戒律を破ったりすれば 罪のある行いをしたといってふるえおののき
再び戒律の生活へ帰って清らかになろうと躍起になる
あたかも隊商から離れたものが隊商の処へ
家を離れて生活するものが 家へ帰りたがるように――


○中村元先生訳
899
もしもかれが戒律や誓戒を破ったならば、かれは(戒律や誓戒の)つとめにそむいて、おそれおののく。
(それのみならず)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。
たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、
家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。


○正田大観先生訳
906.(899)
彼が、もし、戒や掟から死滅した者(喪失者)と成るなら、
〔為すべき宗教〕行為を失って、動揺します。
〔彼は〕清浄を渇望し、かつまた、切望します
――家から離れて旅する者が、〔共に旅する〕隊商から捨棄されたかのように。(5)


○パーリ語原文
905.(899)
サチェー    チュトー     スィーラワタトー    ホーティ
Sace       cuto        sīlavatato        hoti,
彼がもし    滅する者に   戒や掟から       成ると

パウェーダティー    カンマ       ウィラーダイトゥワー
pavedhatī         kamma       virādhayitvā;
振るえる         為すべきことを  失って

パジャッパティー    パッタヤティー   チャ    スッディン
Pajappatī         patthayatī      ca      suddhiṃ,
望み           求める        また    清浄を

サッターワ      ヒーノー    パワサン       ガランハー
satthāva        hīno       pavasaṃ       gharamhā.
隊商から・ように  はぐれた者   離れて旅をして  家から


○一口メモ
戒律を破ったら恐れおののいて、戒律を守ろうとすることは悪いことではありません。むしろ褒められるべきことです。仏教では慚愧(ざんき)は重要な徳目です。慚(ざん)は悪い行いをすることを恥じる心で、愧(き)は悪い行いすることを怖れる心で、この二つの心によって、戒律が守られ、道徳が実践されるのです。しかし、今回の偈では戒律を破ることにおそれおののくことに、批判的は表現がされています。それは何故でしょうか? この問題を考える前に戒律について考えてみましょう。

戒律は何のためにあるのでしょうか? 戒律は人々の自由を拘束するためにあるのではありません。人々が不幸にならないためにあるのです。それを別の言葉で言えば、慈悲を実践するためにあるのです。例えば五戒の一つ一つの項目を守ることは慈悲の実践です。これらを守らないことは慈悲を実践しないことです。五戒を守らなければ、罪になり、人間関係が悪くなります。それは不幸になることなのです。ですから戒律を守ることは、不幸ならないことであり、慈悲を実践することなのです。

ここで注意しなければならないことがあります。戒律を守るということは戒律の条項を守ることではなく、慈悲を実践することです。戒律を守ろうとする人の気持ちの中に、だだ戒律の条項を守ればよいと思っていると、戒律の精神を忘れてしまう恐れがあるのです。

仏教の初期には戒律はありませんでした。いろいろな出家者や仏教徒の中には慈悲の心のない人、少ない人がいました。そのために慈悲を教える方便としてブッダは戒律を制定しました。戒律は守ればよいというものではないのです。慈悲の精神を実践することです。そのことを換気するためにこの偈が述べられているのです。


戒律を 破ったりすれば おののいて 戒ある生活に 戻ろうとする<899>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2015年05月30日 04:09
おはようございます。
先生はかねてより「真理とは『生きとし生けるものが幸せでありますように』である」と教えてくださっておられます。私はその教えに感銘をうけ、座右の銘とさせて頂いております。本日の教えで、座右の銘がさらに増えました。
〇「戒律は人々の自由を拘束するためにあるのではありません。人々が不幸にならないためにあるのです。それを別の言葉で言えば、慈悲を実践するためにあるのです」
〇「戒律を守るということは戒律の条項を守ることではなく、慈悲を実践することです」
本日の教えも胸に響きました。大切に致します。
御指導ありがとうございました。
SRKWブッダ
2015年05月30日 04:42
拡大解釈は、一般に誤りである。

その一方で、根底の意味を把捉している人が為すところの解釈は(方便の説として)見事であり、人々の心を正しく奮励させるものともなる。

三蔵(経、律、論)と呼ばれる諸の仏説は、基本的にすべて方便である。これら方便の根底にある真意を理解してこそ、仏の教説の理解者であり、仏弟子と呼ばれる。

***
身の丈修行者
2015年05月30日 10:19
ワンギーサ長老の分かりやすい本文・解説の「戒律を守ることは、不幸ならないことであり、慈悲を実践することなのです」心に響きます。
なぜ戒律を守る根拠が明確で、根本となるポイントは慈悲という事、とても大事と感じます。実践して参りたいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
こころざし
2016年11月10日 19:46
慈悲の心がなくて、戒律を守っているだけの状態を想像してみました。恐らく成長はない・・様な状況になるのではと思いました。慈しみの気持ちがないと、自分の心は明るくならないと経験しています。慈悲の気持ちを持って、五戒を守って参りたいです。