戒律も 罪についても 超越し、清浄求めず 寂静願わず<900>

○少年少女のためのスッタニパータ<900>
・・・
エゴの自由は
わがままと言います。
本当の自由とは
解脱と言います。


第4 八つの詩句の章 13.大集積経 6.

○毎田周一先生訳
900.
戒律を立派に守ろうなどと 一切考えず
罪があろうとなかろうと そのどちらの行ないも共に捨てて
『清らかである 清らかでない』などと願い求めることなく
靜けさということにさえ捉われず 自由に生きてゆくべきである


○中村元先生訳
900
一切の戒律や誓いをも捨て、
(世間の)罪過あり或いは罪過なき(宗教的)行為をも捨て、
「清浄である」とか「不浄であると」とかいってねがい求めることもなく、
それらにとらわれずに行え。──安らぎを固執することもなく。


○正田大観先生訳
907.(900)
あるいは、また、一切の戒や掟を捨棄して、
さらには、罪を有するものも罪なきものも、この〔宗教〕行為を〔捨棄して〕、
清浄なるものも清浄ならざるものも、かくのごとく、〔一切を〕切望せずにいる者は、
〔一切の執着を〕離れ、寂静に〔さえも〕執持せずして、〔世を〕歩むでしょう。(6)


○パーリ語原文
906.
スィーラッバタン    ワーピ    パハーヤ    サッバン
Sīlabbataṃ       vāpi      pahāya      sabbaṃ,
戒掟を         或はまた   捨てて      一切を

カンマンチャ   サーワッジャナワッジャメータン
kammañca     sāvajjanavajjametaṃ;
また行為を    この有罪無罪の

スッディン     アスッディンティ     アパッタヤーノー
Suddhiṃ      asuddhinti         apatthayāno,
清浄であること 不浄であることを     求めないで

ウィラトー     チャレー    サンティマヌッガハーヤ
virato        care       santimanuggahāya.
遠離する者は  行くがよい   寂静に捉われず 


○一口メモ
今回の偈は、昨日の偈を一歩進め、更にその考え方の範囲を広げるものなのです。

一歩進めるとは、戒律を守ることに関して、戒律の条項を守ることよりも戒律の精神を守ることの意義について述べましたが、更に戒律を守ることに執着することを否定して、戒律を守ることを超越して、戒律に対する無執着の態度を強調しています。もちろんこれは昨日も述べましたが、戒律を犯してよいというものではありません。戒律を超越して、慈悲の心から戒律を犯すことが出来ないのです。

考え方の範囲を広げるとは、戒律に対する態度と同様に、罪に対しても、罪を犯さないように精進するというレベルではなく、罪があるかないかを超越して、罪の犯せない、罪を超越した境地を目指しているのです。罪があるかないかに執着していないのです。

更に、清浄であるか不浄であるかを超越して、清浄に関しても無執着なのです。もちろん清浄であるべきではあります。「清浄であるべきであるべきだ」ということは清浄にこだわっていることであり、本当の清浄から離れているのです。

最終的には、寂静に関しても、寂静にこだわることなく、完全な無執着の態度、自由に生きることが推奨されています。この時の自由は言うまでもなく、エゴの自由(わがまま)ではなく、エゴから離れた自由です。


戒律も 罪についても 超越し、清浄求めず 寂静願わず<900>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2015年05月31日 04:23
おはようございます。
「願い求めることなく」・「靜けさということにさえ捉われず」。この二点ですが、難しいです。ヴィパッサナー実践にあたっても「期待・願望・解釈」は厳禁であることを、スマナサーラ長老から何度も厳しくされています。ですが、ついついその罠にはまっています。
「精進するというレベルではなく、罪があるかないかを超越して、罪の犯せない、罪を超越した境地を目指しているのです」。先生のこの解説のおかげで、もやもやとしていたものを、かなりすっきりさせることができました。
御指導ありがとうございました。
みき
2015年05月31日 05:44
おはようございます。
個人的な意見ですが「罪を犯そうと思っても犯せない」レベルって果てしなく険しい道のりに思います。原子脳に支配されている人間はやはり「悪人」「善人」をというカテゴリーでは区別できませんね…。「精進」していきます。ありがとうございました。
身の丈修行者
2015年05月31日 07:07
おはようございます。
言葉を超えた・言葉で捉えるのではない・智慧の世界の様子を感じました。
言葉・思考等の回転でなく、智慧で持つ事が出来るように精進したいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
エル
2015年06月01日 09:28
「不殺生戒を守ろう」と自覚して2年くらい虫を殺さなくなったら、家族から目の前の小さな虫を「殺して」「殺せ!」と言われても殺せなくなりました。手を少し動かすだけのことがとても難しく感じ、逆に「殺したくない」とも思えませんでした。慈悲深くなったという実感もありません。家族は苛立ち、私にとっては不思議な現象でしかなく、自分の中で解決できませんでしたが、この偈の解説を読んで、修行を続けると生き方も変わるのだという希望をもてました。
SRKWブッダ
2015年06月01日 12:16
自分の修行は上手く行っているなどと言いふらす者は、自分で自分のことを言いふらすのであるから下劣な者であると知られることになる。そのような者は、自分でも気づかずに大きな悪行を為し、悪処へと向かう。このような者を、〈道を汚す者〉と呼ぶ。

下劣な者は、せっかく修行しても、地獄に堕ちる。行き先は、その者に相応しい処となるからである。

こころある人は、この恐ろしさに注視してつつしみ、高貴な人となって、以って自らの道を浄めよ。

***
こころざし
2016年11月11日 20:40
エゴ的な我儘な視点ですと、狭い範囲の生き方になり、智慧には行けない印象を感じます。特に自分に利益があるかどうか?だけの視点では、功徳を貯める行為的なものは分からないのではと思います。エゴから離れた状態での、自由を体感し、そしてエゴを捨て、解脱に近づける様になりたいです。