ぞっとする 苦行などで 清浄にと 思う人には 執着がある<901>

○少年少女のためのスッタニパータ<901>
・・・
心を清らかにするために
そうしたいという想いでも
心は汚れる。


第4 八つの詩句の章 13.大集積経 7.

○毎田周一先生訳
901.
見るも厭わしい苦行の中へ身を投じたり
或はまた見解や学問や思想の上に腰をおろしたりして
声高に清らかさをほめたたえるものは
あれこれの生き方を願って 生きることを(一面的に肯定する立場から)離れていない


○中村元先生訳
901
あるいは、ぞっとする苦行にもとづき、
あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、
声を高くして清浄を讃美するが、
妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。


○正田大観先生訳
908.(901)
あるいは、〔苦行者たちは、世の人々に〕忌避されている苦行に依存して、
しかして、あるいは、また、見られたものに、あるいは、聞かれたものに、あるいは、思われたものに〔依存して〕、
声高に清浄を唱えます
――諸々の種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕から離れられずに。(7)


○パーリ語原文
907.(901)
タムーパニッサーヤ   ジグッチタン    ワー
Tapūpanissāya       jigucchitaṃ     vā,
苦行にたよって      厭うべき      或いは

アタワーピ    ディッタン   ワ     スタン     ムタン     ワー
athavāpi      diṭṭhaṃ     va     sutaṃ     mutaṃ     vā;
或はまた     見たこと    或は   聞いたこと  考えたこと  或は

ウッダンサラー    スッディマヌットゥナンティ
Uddhaṃsarā      suddhimanutthunanti,
声高いに       清浄を唱える

アウィータタンハーセー    バワーバウェース
avītataṇhāse           bhavābhavesu.
渇愛を離れず          種々の生存において


○一口メモ
戒律で清浄になると考えている人々について、そうではないと898偈、899偈、900偈で述べられていましたが、今回は、苦行で清浄になる、或は見解、学問、思想などで清浄になると主張している人々を批判しています。既に、見解、学問、思想などで清浄にならないということは「小集積経」でも述べられていました。

ここでは、新たに苦行で清浄になろうとしていることに批判しているのです。また、それらのもので清浄になろうとしている、その執着する心が清浄から離れた事柄なのだと述べています。


清浄を 苦行や見解 学問で 讃美する者は 離れていない<901>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2015年06月01日 04:07
おはようございます。
「苦行」を、「ぞっとするもの・忌避されるもの」としてブッダがおっしゃっておられるのは、強烈です。また見解に固執することも同じであるというのも印象的です。しっかり脳裏に留めておきます。
御指導ありがとうございました。
2015年06月01日 04:20
今日の内容は妙に説得力を感じました。

「俺は○○瞑想道場で修行した経験がある」「毎日○○時間座禅している」「有名な○○師の元で研鑽を積んだ」、、等々。

様々な修行をした自分に酔ってる。世間と違った高尚な事をやってることを自慢したい。大御所と言われる人を知ってるのを鼻にかける、、等々。

何故に仏教なのか?何故に修行しているのか?という問いかけは、根底から真剣に考えるべきだと思いました。
身の丈修行者
2015年06月01日 06:28
おはようございます。
滝行とか○日歩き続ける等の修行を凄いと表現されていた場に接した事があります。普通出来ない事をやるノリを感じました。ある意味で自己PRの媒体でしょうか。
また、それをする事で何がどうなるのか・目標は何?等の表現がないように感じました。
また、本当に悟った方は自己PRなどは無縁の様子ですね。執着ない生き方、目指したいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
こころざし
2016年11月11日 20:43
心を清らかにしたいですが、そうしたいとの欲が強いと容易に執着になると感じました。冥想実践をする事で何処まで自分がクリアに成れたか?、どこまで修行が進んだかを知りたいと思う時期がありましたが、現在はそのような思考は捨てようと思っています。とにかく真摯に実践したいです。
こころざし
2016年11月11日 20:43
心を清らかにしたいですが、そうしたいとの欲が強いと容易に執着になると感じました。冥想実践をする事で何処まで自分がクリアに成れたか?、どこまで修行が進んだかを知りたいと思う時期がありましたが、現在はそのような思考は捨てようと思っています。とにかく真摯に実践したいです。
満月
2016年11月28日 01:00
こころざしさんがコメントでおっしゃっているように、最初は私も「清浄になること」すら執着してはいけないのかなと想いましたが、この偈では「清浄になるための方法(苦行、見解、学問、思想)」に執着しないようにと言っているのではないでしょうか?
最終的にはすべてに拘らないのが解脱者の境地であるとしても、修行者としては「心を清らかにしたい」という願いや志は大いに持った方がいいのではないかと思います。
苦行、見解、学問などは「心を清らかにする=慈しみの心を育てる」ための方法であり、それらをエゴの満足のために使わないように精進してゆきたいです。