慢ゆえの 勝れているとも 同じとも 劣っているとも 思わぬように<918>

○少年少女のためのスッタニパータ<918>
・・・
多くの人々は
小さい時から死ぬまで
勝った、負けたと
一喜一憂しています。


第4 八つの詩句の章 14.迅速経 4.

○毎田周一先生訳
918.
それによって 自分を勝れているとも
劣っているとも また等しいとも 思わぬがよい
そして色々なことを人から問われても
自分をひとかどの者と思って相手に対せぬがよい


○中村元先生訳
918
これ(慢心)によって『自分は勝れている』と思ってはならない。
『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか思ってはならない。
いろいろの質問を受けても、
自己を妄想せずにおれ。


○正田大観先生訳
925.(918)
それによって、〔他者より〕『より勝る』〔と〕思わないように。
『より劣る』〔と〕、しかして、あるいは、また、『等しい』〔と思わないように〕。
無数なる形態〔の特質〕を体得したとして、
自己を〔あれこれと〕想い描きながら、〔世に〕止住しないように。(4)


○パーリ語原文
924. (918)
セッヨー      ナ     テーナ    マンニェッヤ
‘‘Seyyo       na     tena      maññeyya,
より勝っていると (ない) それによって 思わないように

ニーチェッヨー    アタワーピ    サリッコー
nīceyyo        athavāpi      sarikkho;
等しいと       或はまた     劣っていると

プットー     アネーカルーペーヒ
Phuṭṭho     anekarūpehi,
触れて     無数の形態において

ナートゥマーナン    ウィカッパヤン    ティッテー
nātumānaṃ       vikappayaṃ      tiṭṭhe.
ない・自己において  妄想         (しない)でいるように


○一口メモ
一行目の「それによって」は、前回の「すべてを知り尽くすこと」において、相手より勝れていると思ったり、同等と思たり、より劣っていると思うことをしてはならないと述べられています。

仏教では一般に、自分を他人と比較する心の働きを「慢」と言います。そしてその種類を三種類に分類しています。
①増上慢:自分が他人より上だと考える。
②同等慢:自分が他人と同等だと考える。
③卑下慢:自分が他人より劣っていると考える。
この心の働きは根強いものがあり、阿羅漢になるまではなくならないと考えられています。
ついでに申し上げれば、預流果になれば有身見がなくなる筈なのに、何故阿羅漢になるまでなくならのかという疑問に対する解答としては、有身見とは「私がいる」という見解がなくなることで、「私という」感覚は阿羅漢になるまでなくならないということであります。

三行目の訳について、毎田先生と中村先生の訳は同じですが、正田先生の訳とパーリ語原文の訳は異なります。その理由は訳する底本の原文が異なるためです。本ブログのパーリ語Phuṭṭhoは「触れたる」、これは正田先生と同じで、毎田先生と中村先生の底本のパーリ語がPuṭṭho「問われたる」となっているためです。

四行目は、慢によって自分についていろいろ妄想し、舞い上がったり、落ち込んだりするなと言うことであります。毎田先生の訳は、916偈で「自分を聖者のように」と訳されていましたの、ここでは「自分をひとかどの者と思って相手に対せぬがよい」ということになっているのです。


慢ゆえの 勝れているとも 同じとも 劣っているとも 思わぬように<918>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2015年06月18日 04:12
おはようございます。
「見」と同じく、「慢」も本当に厄介です。なぜ預流果にまで達しながら慢がなくならなのか?、とは、アビダンマを学んでいるときからずっと疑問でした。でも、本日その謎が解けました。御指導ありがとうございました。
2015年06月18日 04:19
自分の感覚を知るので、私がいるという感覚から、私がいるという見解が生まれるでしょう。

よく「自己評価が高い」という表現を耳にしますが、これは有身見と慢が絡んでいるように今のところ思います。
2015年06月18日 04:59
間違って入力しました。

私という感覚から、私がいるという見解が生まれます。
みき
2015年06月18日 05:23
おはようございます。
分かりやすい説明有難うございます。
意味が気になったので、毎田先生の「自分をひとかどの者と思って相手に対せぬがよい」ひとかどの者はどういう意味か調べてみました。「優れた人」とありました。文脈からして自分のことを「優れた人」と思って相手をしてはいけないということだ思います。何事にも謙虚な姿勢が必要なのでしょう。 

身の丈修行者
2015年06月18日 06:25
おはようございます。
本文の「慢によって自分についていろいろ妄想し、舞い上がったり、落ち込んだりするな」心に響きます。
他と優劣つけて心が浮き・沈みするのは日常と思います。私事ですが昨日新人就職者の言動で心が曇る時がありました、自分と比べていたと思います。
慢を知識・見解として捉える事は出来ても、実際にそれを無くす事が出来るのは阿羅漢になる迄続く・・はインパクトを感じます。慢を無くせるように努めていきたいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
エル
2015年06月24日 20:38
 「慢」という概念を学んでから、自分は慢が強いのではないかという心配が生じました。意見を言う時は「自分は偉くない。気を付けよう。」と一呼吸おいてから言うようにしています。人当りはよくなったかもしれませんが、かえって正当化しているような気もするので、内面的な効果があるのかよくわかりません。
 また、「自分は特別でない」と思うと、安易に若い世代や上の世代に意見を言いにくくなりました。智慧がないため、判断に迷ってしまうのだと思います。阿羅漢になるまでなくならないのなら、「許容範囲」「仕方のないレベル」の慢があるのでしょうか。
こころざし
2016年11月17日 21:29
人生の中で勝った・負けたを繰り返していく中で、何処かでその姿勢を変えないと、高齢となり老化現象の中で負けたと思うばかりの状態になり、そのやりきれなさから逃避する為に、認知障害を自ら起こしかねないと経験しています。そのような意味で、長老から仏教を教えて頂けます事は大変貴重な至宝の機会になると実感しています。
色々な意味で慢を減らせる・無くせる様にしたいです。