いろいろな 修行はあるが こだわるな 欲の本質 究めるべきだ<940>

○少年少女のためのスッタニパータ<940>
・・・
夢や希望はその人の欲望です。
ですから夢や希望を聞けば、
その人がわかります。
欲望はその人自身ですから。


第4 八つの詩句の章 15.武器を執ること経 6.

○毎田周一先生訳
940.
世間では色々の学術を習うのであるが
そんなものによって
世間へあれこれと縛りつけられるのではなく
そもそも欲望というものが何であるかをよく知って
自分というものがすっかりなくなることをこそ学ぶがよい


○中村元先生訳
940
そこで次に実践のしかたが順次に述べられる。
──世間における諸々の束縛の絆に
ほだされてはならない。
諸々の欲望を究めつくして、
自己の安らぎを学べ。


○正田大観先生訳
947.(940)
そこで、諸々の学び〔のあり方〕が、〔以下において〕随説されます。
それらが、世において、諸々の拘束されたもの(執着の対象)としてあるなら、
それらを追い求める者として存さないように。
諸々の欲望〔の対象〕を、全てにわたり〔あるがままに〕洞察して、
自己の涅槃を学ぶように。(6)


○パーリ語原文
946.
タッタ      スィッカーヌギーヤンティ
‘‘Tattha     sikkhānugīyanti,
そこで      諸々の学びが・随説される

ヤーニ    ローケー    ガディターニ
yāni      loke       gadhitāni;
それらが  世において  束縛するもの(であるなら)

ナ    テース    パストー    スィヤー
Na     tesu     pasuto      siyā,
ならぬ  それらに  耽るもので   あっては

ニッビッジャ    サッバソー    カーメー
nibbijjha       sabbaso      kāme;
洞察して あまねく     欲望を

スィッケー   ニッバーナマッタノー
Sikkhe      nibbānamattano.
学ぶように   自己の寂滅を


○一口メモ
毎田先生は、sikkhaを学術と訳しています。世間の学術によって拘束されるべきでない。それよりは、欲望の本質を究めよと述べています。また「自己の寂滅」の意味を「自分というものがすっかりなくなること」として、それを学ぶべきだとしています。これが心に刺さった矢を抜くことと解釈しているのだと思います。

中村先生と正田先生は、sikkhaを「実践のしかた=諸々の学び〔のあり方〕」と取られ、明日からの偈で続いて述べられる具体的な項目を指していると思います。これらの具体的な項目の実践は「矢を抜くこと」なのだとしているように思います。ただ、「世間における諸々の束縛の絆にほだされてはならない。」の意味は「実践のしかた」が形骸化されるといけないという意味かなと思っています。例えば、戒律の心を重んじないで、形だけ戒律を守ればよいとするようなことです。

四行目については、三先生と同じです。「諸々の欲望を究めつくして」が心に刺さった矢を抜くことになるということです。そして、それが自己の涅槃を学ぶことだとしています。「自己の涅槃」を学ぶとはどのような意味なのか分からないのですが、毎田先生は上に書きましたように、「自分というものがすっかりなくなること」としています。


いろいろな 修行はあるが こだわるな 欲の本質 究めるべきだ<940>



○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎特別連絡:7月17日(金)から7月21日(火)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。尚、朝5時から7時の自主瞑想回は通常通り行います。理由はワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するためです。しかし、朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2015年07月10日 04:02
おはようございます。
毎田先生の「自分というものがすっかりなくなることをこそ学ぶがよい」というとても「大胆」な訳が心に残りました。また、ワンギーサ先生の解説のおかげで、毎田先生がなぜそのように訳されたのかも納得できました。
本日も御指導ありがとうございました。
2015年07月10日 04:30
自分の主観を破るべく努力しようと思います。

どうしても、自分勝手に判断したり、自分の都合で解釈してしまいます。
身の丈修行者
2015年07月10日 06:27
おはようございます。
本文の「夢や希望はその人の欲望です」を拝見し、以前自己啓発系で「あなたの夢は何ですか?」との投げかけのシーンを思いだしました。その夢には金が入る、著明度・地位が上がる、人を導く・・みたいな内容があったと記憶しています。欲を煽ってますよね。
欲望が出ている自分に気がつき、そして涅槃に向かえるように精進したいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
noritarou
2015年07月10日 09:41
感官と感官の対象の接触によって生じる欲望は、自然に発生するもので、私のものではなく、私がそれを捉えた時に感情となり、心を刺激するものとなり、苦しみになる感じがします。
接触も、接触から生じる意思も、変わるもの全ては、私とはいえませんね。

人間が持つべき夢・希望・欲望は、生きとし生けるものが幸せでありますように、という願いだけで、あとは単なるおまけになれば、争いはなくなるのではないでしょうか。
それをさせないのが人間社会ですが、個人単位では挑戦し続けなければならないと思います。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
みき
2015年07月10日 19:28
「涅槃を目指す」ことが目標であったら、その願いが叶うように努めることが必要です。では、具体的にどのように行動すればよいのか?
「瞑想」は必要です。しかし、瞑想だけでいいのでしょうか?社会がいう夢や希望とは全く正反対な道を歩むことも必要となるでしょう。「する」「しない」は個人に課せられているということです。ご講義有難うございました。
こころざし
2016年11月24日 07:25
夢や希望を持つ状況から回転する状態を思いました。今・ここの状態で夢や希望があると、とたんに妄想の割合がどっと増える様に思います。欲に溺れ・水没してしまうのではなく、そのような思考を止めて「今」で生きれるように、冥想実践をして参りたいです。