克己心で 自ら証し 真理みた そのブッダの教え あがめ学ぶ<934>

○少年少女のためのスッタニパータ<934>
・・・
勉強をしようとする君と
遊びたいという君がいることを
知っていますか?
どちらが強いですか?


第4 八つの詩句の章 14.迅速経 20.

○毎田周一先生訳
934.
その人は自らに打克って 他に打克たれることなく
人から聞いてではなく自ら証しして真理を見た人である
だからこそこの尊き師の教えをあがめ 怠ることなく
それに従って学んでゆくがよい


○中村元先生訳
934
かれは、みずから勝ち、他にうち勝たれることがない。
他人から伝え聞いたのではなくて、みずから証する理法を見た。
それ故に、かの師(ブッタ)の教えに従って、
怠ることなく、つねに礼拝して、従い学べ。」


○正田大観先生訳
941.(934)
まさに、彼(ブッダ)は、〔煩悩を〕征服する者、〔煩悩に〕征服されざる者です。
伝え聞きではない、自ら体現した法(真理)を、〔彼は〕見ました。
それゆえに、まさに、世尊である彼の教えにおいて、〔気づきを〕怠ることなく、
常に〔彼を〕礼拝しながら、〔彼に〕学ぶように」〔と〕。ということで――(20)


○パーリ語原文
940.
アビブー      ヒ    ソー    アナビブートー
‘‘Abhibhū     hi     so      anabhibhūto,
征服者      実に   彼は    征服された者でない

サッキダンママニーティハマダッスィー
sakkhidhammamanītihamadassī;
自ら体験した・真理を・伝聞でない・見た

タスマー    ヒ    タッサ    バガワトー   サーサネー
Tasmā      hi    tassa     bhagavato     sāsane,
それ故に   実に  彼の     世尊の      教えにおいて

アッパマットー    サダー   ナマッサマヌスィッケーティ
appamatto       sadā     namassamanusikkhe’’ti.
不放逸であり    常に     礼拝して・従い学べと


○一口メモ
今回は、迅速経の最後の偈です。この経を述べたブッダはどのよう方なのでしょうか? またこの経に述べられた真理はどのようなものなのでしょうか? そしてその真理をどのように学ぶべきかここで述べられます。

ブッダは自分自身に打ち勝った方であり、他者に打ち勝った方ではないと説かれます。自分自身に打ち勝つということは、正田先生の説明のように、自分の煩悩を克服したということです。また、ブッダが覚った真理は、人から聞いたり、教えられたものでなく、自分自身で体得した真理であるということです。そのようなブッダの教えだからこそ、ブッダを尊敬し、不放逸、常に気づきを怠ることがないようにいるべきと説かれました。

さて、この経の最後に当たって、始めの約束した「何故この経が迅速経と言われるのか?」について説明します。

この経のパーリ語の題名はTuvaṭakasuttaṃです。このTuvaṭakaの意味は「迅速な」「急ぐ」などの意味があるので、「迅速経」と呼ばれています。この経の偈の中にTuvaṭakaという言葉はないのです。そのために、Tuvaṭakaを人名と考える説もありますが、その確定的な証拠がないので、注釈書の注では、「どうしてこの題名を冠するのか明らかでない。」と述べられています。しかし、この経の編集者はそれなりの意図を持って、この題名をつけたのでしょうから、それを考えてみましょう。

この経を注意深く学ぶと、この経の要所に不放逸ということが述べられています。925偈、最後の933偈、及び934偈に不放逸という言葉があります。不放逸は通常、念、気づきを怠らないことと訳されますが、毎田先生は不放逸を「時を無駄に過ごさず」と訳されました。まさに、不放逸とは時間を無駄にしないことなのです。ブッダの最後の言葉は「すべての現象は消えていくものです。不放逸で励みなさい。」でした。このように修行者が不放逸であるべきなのは、すべても現象が迅速に消え去るからなのです。不放逸であるべき前提は、すべての現象が迅速に消えるところにあります。そのような訳でこの経は「迅速経」と命名されたのだと思います。

この偈で「迅速経」は終わり、明日からは「武器を執ること経」が始まります。


克己心で 自ら証し 真理みた そのブッダの教え あがめ学ぶ<934>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎特別連絡:7月17日(金)から7月21日(火)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。尚、朝5時から7時の自主瞑想回は通常通り行います。理由はワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するためです。しかし、朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2015年07月04日 04:09
おはようございます。
「迅速」の意味について、ずっと気になっていました。「不放逸」をポイントにして「すべても現象が迅速に消え去るからなのです」との先生のご説明に、なるほど、と思いました。
でも、それも「自分自身で体得した真理」でなければ意味がありません。これからの私自身の修業のなかで、さらに追及を続けていきます。御指導ありがとうございました。
明日からの新たな経典も楽しみです。また明日からも、ご指導よろしくお願い致します。
2015年07月04日 04:26
今日一日だけの人生かもしれません。死は突然襲ってきます。

惰眠を貪ってると、時間を無駄に、ただ生きてるだけの人生になります。

「不放逸」、、改めてその本質的な重要さを教えられました。
身の丈修行者
2015年07月04日 06:15
おはようございます。
本文の「修行者が不放逸であるべきなのは、すべても現象が迅速に消え去るからなのです」心に響きます。
不放逸を自分なりに実践しようとした時、それが常に出来ないと意味が(少)ない印象を感じます。常にしようとしなければ迅速に変わっていってしまう・・と思った時に自分的に腑に落ちました。
実質は常に不放逸は出来ていませんが、心掛けて参りたいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
みき
2015年07月04日 06:17
おはようございます。
仏陀の言われたことに共感します。

自己に打ち克つのは困難なことですが、不可能な事ではないことを身を持って実証された。凄いことだと思います。
dukkha
2015年07月04日 11:32
本能を克服する道。それは不放逸の実践。
勉強になりました。
ありがとうございました。
SRKWブッダ
2015年07月04日 11:50
迅速経の題意は、迅速経-2=スッタニパータ〈916〉にある言葉の通りだと考えられ得る。すなわち、

 「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ。(中村元訳)

ということに縁っていると考えて大過ない。これに沿って題意を言い換えれば、迅速経 → 即応経 とでも言うべき内容となっている。

ここで即応というのは、表面的なことで右往左往するのではなく、また考えた末に正解を出そうとするのでもなく、修行者の根底の「それ」にしたがって正しく即応するという意味。これが出来るようになったとき、すでに真理は体得されていると認められ得る。

***
カタヤマ
2015年07月04日 12:57
大変勉強になりました。先生がこのような形式でブログを続けておられる意図がよく分かりました。パーリ語を勉強する必要も感じました。
今からあらためて不放逸に挑戦します。
てくてく
2015年07月04日 15:41
こんにちは。
てくてくでございます。

今日の一口メモより「何故、迅速経と言われるのか?」について、このお経を初めから読みました。
すぐに916偈の前半だと察しました。でも、自分は察したことを説明できないので胸にしまいました。その後で、コメント欄を読みました。
コメント欄を読んで、ここで仏と仏の教えに出会えて本当に良かったと胸が熱くなりました。
エル
2015年07月15日 19:39
「迅速」に本質的な意味があるとは、思いつきもしませんでした。ありがとうございました。
こころざし
2016年11月22日 19:43
今はどんどん変化していき、自分も変化し、今と言いながら思考・煩悩等の世界の、今でない所にいる錯覚状態の自分があると感じます。サティを真剣にして、本当の意味で今に生きる事が出来る様に、精進して冥想実践をしたいです。