満足し 動揺しない 汚れない 偉大な人は 誰なのですか<1040>

○少年少女のためのスッタニパータ<1040>
・・・
この世の中に本当に
満足をしている人はいるのだろうか?
いるのならば、
ティッサ・メッテヤさんでなくとも、
知りたいものだ。


第5 彼岸に到る道の章 3.ティッサ・メッテヤ経(ティッサ・メッテヤ学生の問い)1.

○中村元先生訳
1040
ティッサ・メッテイヤさんがたずねた、
「この世で満足している人は誰ですか? 
動揺することがないのは誰ですか? 
両極端を知りつくして、よく考えて、(両極端にも)中間にも汚されることがない、聡明な人は誰ですか? 
あなたは誰を<偉大な人>と呼ばれますか? 
この世で縫う女(妄執)を超えた人は誰ですか?」


○正田大観先生訳
1047.(1040) 
かくのごとく、尊者ティッサ・メッテイヤが〔尋ねた〕
「誰が、ここに、〔この〕世において、〔常に〕満ち足りているのですか。
誰に、諸々の動揺〔の思い〕が存在しないのですか。
誰が、両極を〔あるがままに〕証知して、〔その〕中間において、明慧によって、〔何ものにも〕汚されないのですか。
誰を、『偉大なる人士である』と〔あなたは〕説くのですか。
誰が、この〔世において〕、貪愛〔の思い〕を超え行ったのですか」〔と〕。(1)


○パーリ語原文
1046.
コーダ      サントゥスィトー    ローケー
‘‘Kodha      santusito        loke,
誰が・ここ    満足した者       世間で

イッチャーヤスマー   ティッサメッテッヨー
(iccāyasmā         tissametteyyo)
と・尊者          ティッサメッテヤが(尋ねた)

カッサ    ノー    サンティ    インジター
Kassa     no     santi       iñjitā;
誰に     ない   存在し      動揺が

コー    ウバンタマビンニャーヤ
Ko      ubhantamabhiññāya,
誰が    両極端を知り尽くして

マッジェー    マンター    ナ    リッパティ
majjhe       mantā     na     lippati;
中間も      よく考えて  ない    汚されて(ないか)

カン    ブルースィ    マハープリソーティ
Kaṃ     brūsi       mahāpurisoti,
誰を    呼びますか   偉大な人・と

コー    イダ    スィッビニマッチャガー
ko      idha    sibbinimaccagā’’.
だれが   ここで   愛着を越えたか


○一口メモ
今回はアジタ学生に変わって、ティッサ・メッテヤ学生がブッダに質問します。このティッサ・メッテヤという名前はスッタニパータ第4章の7番目に同名の「ティッサ・メッテヤ経」があるのですが、注釈書の注には「同者に関係があるかどうか明らかでない。」と記載されています。

さて、ティッサ・メッテヤ学生の質問は、質問文としては次の5つになっています。内容としては同等のものがあるようです。ブッダはどのように答えられるのでしょうか?

1.この世で満足している人は誰ですか?
2.動揺することがないのは誰ですか?
3.両極端にも中間にも汚されることがない人は誰ですか?
4.あなたは誰を<偉大な人>と呼ばれますか?
5.この世で妄執(貪愛)を超えた人は誰ですか?

この内の3番目の「両極端にも中間にも」は何を意味するは考えておく必要があります。仏教は中道を説いていますが、その時は両端とは快楽と苦行です。中道の場合は智慧の道(八正道)です。しかしこの偈でいう中間は世間で言う中間で、中道ではありません。快楽で汚れるとは快楽に溺れること、苦行に汚れるとは、意味のない苦行に価値をおくことです。中間に汚れるとは、無関心になり怠惰になることです。

或は賞賛と非難も両端になります。中間は無視されることになるでしょうか。賞賛で汚れるとは喜び、舞い上がって、高慢になること。非難で汚れるとは、怒りで興奮し、相手に攻撃的になるなど。無視で汚れるとは、寂しくなり、悲しくなって落ち込むことなどです。

中村先生訳の「縫う女」はパーリ語のsibbiniにそのような意味があるからですが、カッコ内にあるように、妄執(貪愛、愛着)の意味と取ればいいのです。


満足し 動揺しない 汚れない 偉大な人は 誰なのですか<1040>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎9月18日(金)から9月23日(水)のゴータミー精舎における夜の自主瞑想会はお休みいたします。尚、朝5時から7時の自主瞑想回は通常通り行います。理由はワンギーサが熱海の瞑想合宿に参加するためです。しかし、朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催いたします。


◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2015年09月22日 04:09
おはようございます。
ティッサ・メッテイヤさんの質問も、アジタさん同様、次のことが前提として、既に認識されています。「満足している人がいる・動揺することのない人がいる・汚れていない聡明な人がいる・偉大な人がいる・妄執を超えた人がいる」。当時の修行者の方々の熱意には、本当に頭が下がります。当時のバラモンの方々は在家の生活を送っておられました。ということは、きっと五感を刺激する、甘い誘惑も多かったはずです。にもかかわらず、それらをきちんと制御して、「どう生きるべきかという『真理』」を真摯に追及されておられました。見習わねばなりません。
本日の講義のなかで、特に「中間に汚れる」についての先生の解説はとてもありがたかったです。「無関心になり怠惰になること」・「無視で汚れるとは、寂しくなり、悲しくなって落ち込むこと」、といった深みにまでは、自分一人ではとても到達できませんでした。
本日も、御指導ありがとうございました。
こころざし
2015年09月22日 07:53
おはようございます。
本文の「賞賛で汚れるとは喜び、舞い上がって、高慢になること。非難で汚れるとは、怒りで興奮し、相手に攻撃的になるなど。無視で汚れるとは、寂しくなり、悲しくなって落ち込むこと」心より共感致しました。なんて日常に普通にあるような出来事なんだろうと思います。
このような事にならないように、学ばせて頂きたいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
こころざし
2016年12月19日 06:10
中道という言葉から、真ん中が良いんだよみたいな俗人的な発想では、全く意味が分かっていない事になると思います。また、無関心になり怠惰になることが心が汚れる事になるのは注意点になるように感じました。俗世間的に生きますと心が容易に汚れる状態になりそうです。そうならない道を、是非学ばせて頂きたいです。