執著の 対象であると よく知って 生に対して 渇愛持つな<1068>

○少年少女のためのスッタニパータ<1068>
・・・
見たり、聞いたりすることは
すべて欲しくなるものだから、
無駄なものは
見たり、聞いたりしないこと。


第5 彼岸に到る道の章 6.ドータカ経(ドータカ学生の問い)8.

○中村元先生訳
1068
師は答えた、
「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいて
そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──
それは世の中における執著の対象であると知って、
移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。


○正田大観先生訳
1075.(1068) 
かくのごとく、世尊は〔言った〕
「ドータカさん、それが何であれ、〔あなたが〕正しく知るなら、
上に、下に、さらには、また、横に、〔その〕中間において、
これを、『世における執着〔の対象〕である』と知って、
種々なる生存のために、渇愛〔の思い〕を為してはなりません」〔と〕。ということで――(8)


○パーリ語原文
1074.
ヤン      キンチ     サンパジャーナースィ
‘‘Yaṃ      kiñci      sampajānāsi,
およそ     何であれ   あなたが正知する(ものは)

ドータカーティ    バガワー
(dhotakāti       bhagavā)
ドーカタよと     世尊は(言った)

ウッダン    アドー    ティリヤンチャーピ   マッジェー
Uddhaṃ     adho     tiriyañcāpi        majjhe;
上に      下に     横にも・また       中間において

エータン    ヴィディトゥワー    サンゴーティ   ローケー
Etaṃ      viditvā          saṅgoti       loke,
これらを    知って          執著と       世間における

バワーバワーヤ       マーカースィー     タンハンティ
bhavābhavāya        mākāsi         taṇha’’nti.
種々の生存にたいして     為してはならぬ       渇愛を・と


○一口メモ
今回の偈は、ブッダのドータカ学生への最後の教えです。この偈はメッタグー経の1055偈と前半は同じですが、後半は少し異なります。前半は「上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと」ということで、あなたが意識しているものは何でもということでした。「上と下と横と中央とにおいて」については、1055偈の「一口メモ」で次のように解説しました。

「それを上と下と横と中央に分類しました。これら何を意味しているのでしょうか。単に意識する対象を空間的に、上にあるもの、下にあるものというように理解できましが、注釈書には、上は未来の時、下は過去の時、横と中は現在の時と言われていると書かれています。
しかし、この上、下、横、中は、時間や空間の意味ではなく、価値観(優劣観)の上下と取った方がブッダの真意を理解しやすいと思います。価値のあるもの(優れているもの)、価値のないもの(劣っているもの)、価値が普通のもの(同等のもの)のように理解するのです。」

1055偈の後半は次の通りです。
「それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。」
今回の1068偈は次の通りです。
「それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。

表現は異なりますが、趣旨は同じです。微妙は違いを指摘すれば、1055偈では「喜びと偏執と識別とを除き去って」でありますが、1068偈では「生存への妄執をいだいてはならない」という所だと思います。

以上で、ドータカ経(ドータカ学生の問い)は終わります。前回のメッタグー経と同様の結論で終わりました。大切なことは繰り返し述べられるというわけです。明日からはウパシーヴァ経(ウパシーヴァ学生の問い)が始まります。


執著の 対象であると よく知って 生に対して 渇愛持つな<1068>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2015年10月20日 04:08
おはようございます。
ブッダの御答えは「生存への執着を捨てる」に尽きます。スマナサーラ長老が繰り返し説かれる次のお言葉が浮かびます。「みなさんは原始脳の指令である『生きていきたい・死にたくない』という感情の奴隷になっているのです」。と同時に、「生きていきたい、などと敢えて願わなくても、どうせ死ぬまでは生きているのです。また身体が死んだって、心は延々と輪廻せざるをえないのです」というスマナサーラ長老の教えもセットで想起されます。理性で観ればスマナサーラ長老の仰る通りなのに、「感情(原始脳)」が激しく邪魔をします。この「感情(原始脳)」との闘いに勝利しない限り、心の成長は望めません。そのことを今回の偈文から改めて痛感させられました。
ある学校の校長先生が「教育とは繰り返しですよ」と仰っていました。ワンギーサ先生のご説明「大切なことは繰り返し述べられるというわけです」と全く同じです。何度も繰り返して教えて頂かないと身につけることができない私自身の出来の悪さを振り返ると、なるほどな、と納得致しました。
本日も、ご指導ありがとうございました。
こころざし
2015年10月20日 05:47
おはようございます。
本文の「価値のあるもの(優れているもの)、価値のないもの(劣っているもの)、価値が普通のもの(同等のもの)・・それは世の中における執著の対象である、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」を拝見し、ここ数日の自分の状況から思う事がありました。
私事ですが子供のしつけ的な事で同居の家族の希望と僕の認識が違い、お互いの意向を話し合いたいとの僕の意向は阻まれ、双方が平行線で自分の見解を(裏で)ぶつけ合うような状態でいます。
その状況は、凄く(恐らく良くない方の)業が溜まる状態になっていると恐ろしく感じます。冥想中もその事のフラッシュバック妄想が多大に出てきます。
今回の偈の「それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」から、今のこの状態を乗り越えるヒントを頂けましたように思います。
心より感謝しその意味を深いレベルで分かり・実践出来るように努めたいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
シンプルなネズミ
2015年10月20日 07:35
一言で言うと「バカ」であることが我々生命の本質であって、それ以外には何もないと言ってもいいのでしょう。
耳鳴りがするほどの孤独やどうしようもない宇宙の不幸みたいな虚脱感から自分を救ってくれるのは、自分(生命)の突き抜けたマヌケさというものへの認識です。
人が何かを美化するという現象を想像するだけで十代の私はよく奇妙な発作に襲われたものです。呼吸が苦しくなって体中から力が抜けて顔が真っ白になるのです。その時は何でもいいから粗野な言葉を自分に投げかけることで回復したものです。
今現在、不意の動悸や気分の悪さなどに襲われた時は深呼吸なんてものもしません。うまくリラックスできずに余計苦しくなるからです。今はただ腰骨の辺りを想像するだけです。それで回復します。

不格好(無常)であるから生きられる、正気を保てる。しかしそれがまさしく不幸であることも知る必要がある。人間も宇宙もどこまで行っても掘っ建て小屋…振り返れば清々しいぐらい壊れ易いものだったはずです。そう割り切れるようになるための修行…そこに道がある…。

幸せでありますように。
三日坊主
2015年10月20日 09:37
ワンギーサさん、メールでも相談しました。仏道を歩むのは、執着を捨てるのは、とても大変です。上座仏教はやはり輸入されてきてから日が浅く、果たして、私のような凡人、庶民にも、実践できるのか、はなはだ情報が少なく、心細いのです。メールでも相談しましたが、そういう心細さや、逆境を、ブッダの真理に照らされることによって、救われたいと考えます。やはり、逆境や弱者として、テーラワーダに救われた作家のエッセイや小説など、ないものでしょうか。「自分はこれこれの逆境にいたが、『○○経』の「・・・・・」という言葉を読んで、ああ、弱者でも、自分のような愚者でも救われるんだ」と光がさしたエピソードなどが書かれた。つまり、大乗仏教でいうところの親鸞さんみたいな位置にある上座部の誰かの著作はないでしょうか。
三日坊主
2015年10月20日 20:13
私はキリスト教に救ってもらいたいのです。ですが、生きとし生けるものへの慈しみが、その救いを邪魔します。戒律にとらわれ、苦行です。