解脱した 聖者の名色 消え去って 吹き飛ばされた 火炎のようだ<1074>

○少年少女のためのスッタニパータ<1074>
・・・
吹き消されたローソクの炎は
「どこに行ったの」聞かれても
どこにもないのです。


第5 彼岸に到る道の章 7.ウパシーヴァ経(ウパシーヴァ学生の問い)6.

○中村元先生訳
1074
師が答えた、
「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は
滅びてしまって(火としては)数えられないように、
そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、
(生存するものとしては)数えられないのである。」


○正田大観先生訳
1081.(1074) 
かくのごとく、世尊は〔答えた〕
「ウパシーヴァさん、たとえば、諸々の風の勢いで飛び散った炎が、
滅却し去り行くと、〔もはや〕名称に近づかない(名づけようがない)ように、
このように、名前の身体(名身)から解脱した牟尼(沈黙の聖者)は、
滅却し去り行き、〔虚構の〕名称(概念)に近づくことがありません(名づけを離れた存在となる)」〔と〕。(6)


○パーリ語原文
1080.
アッチー    ヤター    ワータウェーゲーナ    キッター
‘‘Accī      yathā     vātavegena         khittā,
炎が      ように    風の勢いで        投げ出された

ウパスィーワーティ    バガワー
(upasīvāti         bhagavā)
ウパシーヴァよと     世尊は(答えた)

アッタン    パレーティ   ナ    ウペーティ     サンカン
Atthaṃ     paleti       na    upeti         saṅkhaṃ;
消え      去る       ない   出来(ない)    数に入れる          

エーワン   ムニー    ナーマカーヤー   ウィムットー
Evaṃ      munī      nāmakāyā      vimutto,
このように  聖者は    名称と身体から   解脱して

アッタン    パレーティ    ナ    ウペーティ    サンカン
atthaṃ     paleti       na     upeti       saṅkhaṃ’’.
消え      去る       ない   出来(ない)   数に入れる


○一口メモ
今回は前回のウパシーヴァさんの二つの質問に対するブッダの解答でありますが、それに対して直接解答するということではないようです。ないようですと言うのはこれが直接の解答なのかもしれませんが、私にはそれが判断できません。

第一の質問「多年そこにととどまるならば、清涼なるのでしょうか?」に対して直接答えてないように思います。

第二の質問「「そのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」に対しては、炎が風で吹き消された場合を例にして答えられています。しかし、識別作用が存在するかどうかで答えるのではなく、nāmakāyāからの解脱について説かれています。

Nāmakāyā(ナーマカーヤー)については、中村先生は、ナーマルーパ(名称と形態)と同じとしていますが、正田先生は「名前の身体(名身)」としています。またカーヤには集合と言う意味があるため、「名の集合」とも訳せます。私は識別作用の消滅に関連して、ナーマカーヤーが問題にされていますから、中村先生の訳のように、ナーマルーパ(名称と形態)と同じ意味であるとしておきます。

そうであるならば、ナーマルーパ(名称と形態)が消滅すれば、十二因縁の教えにあるように識(識別作用)は消滅するのです。その有様を、炎が風に吹き消されるように消えると答えられたのです。


解脱した 聖者の名色 消え去って 吹き飛ばされた 火炎のようだ<1074>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2015年10月26日 04:02
おはようございます。
今日のブッダの御回答には圧倒されます。聖者の視点は、私のような凡夫の想像をはるかに超えています。協会で学んでいても、このように、「はっ」とすることがよくあります。私達の質問に回答して下さるスマナサーラ長老の視点や、このブログでのワンギーサ長老の解説ポイントには、何度も「はっ」と驚かされました。ただそれを繰り返していると、次第に自分にはない致命的なものが観えてきました。それは「自我」にあります。「自分」にしがみついている限り、聖者の視点は理解できません。「自我」があれば、慈悲の冥想はもちろんのこと、ヴィパッサナーにおけるラベリングさえまともにはできなくなります。そして、結局「自分」から生じる妄想に溺れることになります。私は還暦に達しましたが、未だに「はっ」とするという自分の愚かさを恥じながらも、こうやって学び続けられることを幸福であるとも感じています。本日の偈文から、ついついそんな想いに浸ってしまいました。ご指導ありがとうございました。
こころざし
2015年10月26日 07:51
おはようございます。
本文の「ナーマルーパ(名称と形態)が消滅すれば・・識(識別作用)は消滅するのです」を拝見し、感じた感覚を「感じた」で止めて、認識までいかない印象を感じました。
私事ですが、職場等で危機的な状態になるほど、受けた感覚を感じた・・で止めるよう・認識につなげないようにして、地道に目の前の事を乗り越えていく・・の繰り返しで、ふと気がつくと危機は去った状況になる事があります。
識をしてしまう事について何処まで有効なのか、余裕があるとやってしまう事なのか等考える時もありますが、それは妄想と思いますので、しっかりサティを行っていきたいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
三日坊主
2015年10月26日 08:02
今朝は冷えます。

十二因縁、プラユキさんから教わったことがあります。
「無明→・・・六処」この段階で気づくのはむずかしいから、
「六処→触」←ここに気づきを入れるのがヴィパッサナーだとか。
(間違って記憶しているかもしれません。)
専門的なことはお坊さんにお任せします。

最近、やっと瞑想に落ち着いて取り組めます。
幸せです。幸せでありますように。
シンプルなネズミ
2015年10月26日 14:08
阿羅漢聖者と比較することはできませんが、明治時代までは割とたくさんいたという、いつもボーっと突っ立って涎を垂らしているような若い人達の内面とはいかなるものだったのかと思います。日本的アジア的な土壌に「江戸時代260年の平和」的な条件が重なればそのような人々が出現するのでしょうか。それは例えば念仏三昧を通り越して道端で寝ているだけだったという浄土系の僧侶だとか横綱常陸山の現代人が面食らうような逸話などと共通するような日本人の文化を最も突き詰めたような佇まいという気もするのです。
阿羅漢聖者の場合、我々から見れば危険なぐらい生への執着が消えているうえに最強の哲学者でもあるという印象を受けるのかもしれませんね。

阿羅漢果を得ることを現実的な目標としている人には正直脱帽します。私が想定しているのはあくまで人間であるための無我なのでしょう。
しかし避難場所ではありません。大袈裟でなく私は幸運にも人よりも自由を得たのだと思います。

幸せでありますように。
SRKWブッダ
2015年10月26日 22:19
覚れば識別作用が完全に滅し、二度と復活しないのであるか?という問いには、釈尊は慎重に答えている。なぜならば、釈尊は自分の人生がまだ終わっておらず、あり得ないはずであるが可能性としてはのちには識別作用の一部(あるいは全部が)一時的に、あるいは恒久的に復活することも全くあり得ないことではないという慎重な態度であったであろうことが推察される。

ただし、結果的には釈尊は死の直前まで識別作用の滅を継続しており、問いに対する現代の基本的な答えとしては「解脱によって識別作用の滅を見て、それが復活してしまうことは無い」と言って大過ないであろう。

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