欲望に 対する貪り 制御せよ 離欲安穏 取捨こだわるな<1098>

○少年少女のためのスッタニパータ<1098>
・・・
人と争って何かを求めている
人の顔を見て下さい。
そのような時は、
自分もそのような顔をしているのです。


第5 彼岸に到る道の章 12.ジャトゥカンニン経(ジャトゥカンニン学生の問い)3.

○中村元先生訳
1098
師(ブッダ)は答えた、「ジャトゥカンニンよ。
諸々の欲望に対する貪りを制せよ。
──出離を安穏であると見て。
取り上げるべきものも、捨て去るべきものも、
なにものも、そなたに存在してはならない。


○正田大観先生訳
1105.(1098) 
かくのごとく、世尊は〔答えた〕「ジャトゥカンニさん、
諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪求〔の思い〕を取り除きなさい。
離欲〔の境地〕を『平安である』と見て、
〔執着の対象として〕執持されたものが、あるいは、〔排除の対象として〕放棄されたものが、
あなたにとって、何ものも見い出されてはなりません。(3)


○パーリ語原文
1104.
カーメース     ウィナヤ   ゲーダン
‘‘Kāmesu      vinaya     gedhaṃ,
欲望に対する   慎め     貪りを

ジャントゥカンニーティ   バガワー
(jatukaṇṇīti          bhagavā)
ジャントィカンニンよと   世尊は(答えた)

ネッカンマン     ダットゥ    ケーマトー
nekkhammaṃ     daṭṭhu      khemato;
出離を        見よ       安穏と

ウッガヒータン      ニラッタン      ワー
Uggahītaṃ         nirattaṃ       vā,
取り上げるべきもの  捨て去るべきもの 或は

マー   テー     ウィッジッタ    キンチャナン
mā     te       vijjittha       kiñcanaṃ.
ならぬ  あなたに  存在しては    何ものも


○一口メモ
ジャトゥカンニンさんの質問に対するブッダの解答が述べられます。先ず欲望の対応方法が示されます。欲望をなくすというよりは欲望に対する貪りを問題にされています。とりあえず欲望があっても問題ないのです。しかし、欲望に執着することが問題なのです。ですから、欲望に対する貪りを制せよと説かれるのです。

ここで欲望を持ってはいけないと思うのではなく、その欲望に執着しなければ、その欲望を持つ自分を観察することが出来ます。この自分はその欲望を持たないでいることもできるのです。この自分はこのよくから離れれば、安穏で居られるのです。Nekkhammaの訳である出離は出家という意味もありますが、ここでは欲から離れることです。

この偈で終わりにジャトゥカンニンさんに、ブッダは執着して取り上げるものも、嫌って捨て去るものもあってはならないと無執著の態度が説かれます。


欲望に 対する貪り 制御せよ 離欲安穏 取捨こだわるな<1098>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎11月20日から11月24日まで熱海に瞑想合宿があり、ワンギーサ比丘はそれに参加しますが、ゴータミー精舎における朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催します。しかし、この期間の夜の自主瞑想会は行いませんので、御注意お願いします。


◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2015年11月18日 03:58
おはようございます。
「貪りを制する」ことと、「出離を安穏とみる」ことについては、今までの教えにもありましたので、違和感はありません(実践できているわけではないのですが)。また、「取り上げるべきもの」が「存在してはならない」という教えも記憶にあります。でも、「捨て去るべきもの」さえも、「存在してはならない」といった表現には、意表をつかれたような思いです。ちょっと驚きました。ただ冷静になって観ると、たしかに「『捨て去るべきもの』もない」といった状態でなければ「『なにものも』存在しない」ということにはなりません。「なにものも」というのは、まさに「厳密な意味」で「なにものも」なのでしょう。取るものも、捨てるものも、なにもない。それは、私達が固執している「眼耳鼻舌身意」で認識する「色声香味触法」という刺激のすべてが存在しない、といった境地なのだと思います。スッタニパータで説かれる教えは、私のような凡夫の次元を、遥か彼方に超えています。いつもながら、本当に難解な教えです。その教えに食らいつくのは至難の技ですが、ワンギーサ長老のお導きを頼りにさせて頂き、明日もまた頑張ります。ご指導ありがとうございました。
こころざし
2015年11月18日 06:47
おはようございます。
以前欲を抑えようとして、その反動かリバウンド(?)してより欲のままに走り→自己嫌悪してまた欲を抑えようとし、を繰り返す時がありました。
本文の「欲望を持ってはいけないと思うのではなく、その欲望に執着しなければ、その欲望を持つ自分を観察することが出来ます」を拝見し、その上記の・どうしようもない自分に呆れるのではなく、どうしたら良いのかを教えて頂いた気持ちになりました。
そして「執着して取り上げるものも、嫌って捨て去るものあってはならない」を拝見し、嫌って捨てる時には怒りが伴うような印象を感じ、どちらも執着しない無執着の態度が出来る様になりたいと実感致しました。精進したいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。