渇愛を よく見極めて 煩悩を なくした人を 渡った人と言う<1082>

○少年少女のためのスッタニパータ<1082>
・・・
「分かっちゃいるけど止められない」
という言葉がありますが、本当は、
分かっていないから止められないのです。


第5 彼岸に到る道の章 8.ナンダ経(ナンダ学生の問い)6.

○中村元先生訳
1082
師(ブッダ)は答えた、
「ナンダよ。わたしは『すべての道の人・バラモンたちが
生と老衰とに覆われている』と説くのではない。
この世において見解や伝承の学問や戒律や誓いをすっかり捨て、
また種々のしかたをもすっかり捨てて、
妄執をよく究め明かして、心に汚れのない人々──
かれらは実に『煩悩の激流を乗り越えた人々である』と、わたしは説くのである。」


○正田大観先生訳
1089.(1082) 
かくのごとく、世尊は〔答えた〕
「ナンダさん、わたしは、『全ての沙門や婆羅門たちが、
生と老に覆われている』と説くのではありません。
彼ら、まさに、この〔世において〕、あるいは、見られたものを〔捨棄して〕、
聞かれたものを〔捨棄して〕、あるいは、思われたものを〔捨棄して〕、
あるいは、また、一切の戒や掟を捨棄して―― 一切の無数なる形態をもまた捨棄して、
渇愛を遍く知って煩悩なき者たち――
彼らを、まさに、『激流を超えた人たちである』と〔わたしは〕説きます」〔と〕。(6)


○パーリ語原文
1088.
ナーハン    サッベー    サマナブラーフマナーセー
‘‘Nāhaṃ     sabbe      samaṇabrāhmaṇāse,
ない・私は   すべての    沙門・バラモン達が

ナンダーティ    バガワー
(nandāti       bhagavā)
ナンダよと     世尊は(答えた)      

ジャーティジャラーヤ  ニウターティ    ブルーミ
Jātijarāya          nivutāti       brūmi;
生と老いによって    覆われていると  説く(わけではない)

イェー    スィーダ     ディッタンワ    スタン    ムタン    ワー
Ye       sīdha       diṭṭhaṃva      sutaṃ    mutaṃ     vā,
彼等は   一体・ここで   見解を・或は   伝承を    思想を    或は

スィーラッバタン    ワーピ   パハーヤ   サッバン
sīlabbataṃ        vāpi     pahāya     sabbaṃ;
戒や掟を        また或は  捨てて     一切を

アネーカルーパンピ   パハーヤ    サッバン
Anekarūpampi       pahāya      sabbaṃ,
種々のものをも      捨てて      一切を

タンハン    パリンニャーヤ   アナーサワーセー
taṇhaṃ     pariññāya       anāsavāse;
渇愛を     よく知って      煩悩のない人々

テー    ウェー   ナラー     アガティンナーティ   ブルーミ
Te      ve      narā       oghatiṇṇāti        brūmi’’.
彼等は   実に   人々(である)  激流を渡ったと    私は説く


○一口メモ
ブッダは次のように説かれました。「すべての沙門達やバラモン達が、煩悩の激流を渡っていないわけではない。見解や伝承の学問や戒律や誓いをすっかり捨て、また種々のしかたをもすっかり捨てて、妄執をよく究め明かして、心に汚れにたくなった人は煩悩の激流を渡ったひとです。」と。

では、何故「見解や伝承の学問や戒律や誓いをすっかり捨て、また種々のしかたをもすっかり捨てて」とブッダは述べられたのでしょうか。そして「妄執をよく究め明かして、心に汚れにたくなった人」と説かれたのでしょうか。

多くの修行者は、いろいろな方法で煩悩をなくすと思っているのですのに、何故このようにブッダは述べられるのでしょうか。この問題を考えるために、ダンマパダの五番の偈を思い出してみましょう。

「実にこの世においては、
怨みに報いるに怨みを以てしたならば、
ついに息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。
これは永遠に真理である。」(ダンマパダ5番、中村先生訳)

この偈に対して、かなりの人々がどのようにして、怨みを捨てるのですかと質問します。しかし、怨みを持っているのは自分自身だから、自分で捨てればいいだけなのです。戒律を守れば怨みを捨てられるわけではないのです。瞑想をすれば怨みを捨てられるのではいのです。そのことに気付けば捨てられます。

ただ、ただ自分の煩悩をすべて捨てるためには、自分の煩悩に気付かなければできません。そこで「妄執をよく究め明らかにする必要があるのです。そしてすべての煩悩を捨てるのです。


渇愛を よく見極めて 煩悩を なくした人を 渡った人と言う<1082>


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎11月20日から11月24日まで熱海に瞑想合宿があり、ワンギーサ比丘はそれに参加しますが、ゴータミー精舎における朝の自主瞑想会は代理人により通常通り開催します。しかし、この期間の夜の自主瞑想会は行いませんので、御注意お願いします。


◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2015年11月02日 04:11
おはようございます。
心の汚れをなくすには、まずすべてを捨てなければならないのですね。見解・伝承の学問・想定・戒律・誓い・既存の種々のやり方。これらの全てを捨てて、妄執を究め明かさなければ、心の汚れはなくせません。まさに、今現在の世俗を全て捨て去れ、ということになっています。でも、だからこそ「出世間心:lokuttara-citta」なのでしょう。煩悩の激流を乗り超えた境地を、ちょっとだけ垣間見させて頂いたような気持ちです。
また、「怨みを持っているのは自分自身だから、自分で捨てればいいだけなのです」という先生の言葉には、はっと致しました。さらに「ただ自分の煩悩をすべて捨てるためには、自分の煩悩に気付かなければできません」で、この偈の意味を、より明確にに理解することができました。とはいうものの、こういったことは、既に私は何度も学んでいるはずでした。「繰り返し」をしなければ身に着けることができない自分の愚かさも、また思い知らされました。このような私を日々ご指導頂き誠にありがとうございます。本日も、ご指導ありがとうございました。
SRKWブッダ
2015年11月02日 04:39
覚り(=解脱)以前において妄執をよく究め明かすことができるかどうかが重要なことであるが、これはでき得ると答えなければならない。

智慧によって妄執をよく究め明かすことができる。智慧は、因縁によって生じる。因縁は、気をつけていることによってその機縁──通常、法の句(善知識)を聞く形で──を生じる。覚りの機縁を生じるのは、功徳を積んでいるからである。明知ある人が、適宜に功徳を積む。聖求を抱く修行者に、明知を生じる。聖求とは、自分自身覚り以前の身でありながら衆生が(もちろん自分も)覚れる身であるということを覚智していることに他ならない。

***
こころざし
2015年11月02日 06:20
おはようございます。
本文の「妄執をよく究め明かして、心に汚れにたくなった人・・」「怨みを持っているのは自分自身だから、自分で捨てればいいだけなのです・・」を拝見し、息を飲みました。
煩悩に色々と振り回されたりしながら、でもそれを手放したくはなくて→しがみついて離れない現実を感じました。
本文の「妄執をよく究め明らかにする必要がある・・そしてすべての煩悩を捨てる・・」事が出来るように、心で真にそうしたいと実行出来るようになりたいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
三日坊主
2015年11月02日 07:37
煩悩の捨て方は難解です。中村先生と正田先生の翻訳が微妙に違うように、瞑想の教え方も先生によって違います。私は瞑想を、まずスマナサーラ大長老から教わり、ワンギーサ長老から教わり、そして小池龍之介さんのイエデ式に流れ着きました。ややこしい遠回りを経て少しは丸くなれました。悟れますように。
シンプルなネズミ
2015年11月02日 14:40
江戸時代の長州藩では毎年正月に家臣が藩主に「今年は関東(徳川)討伐をなさいますか」と伺いを立てる習慣があったそうで、二百数十年間やっていたのかもしれません。それぐらい恨みがあったのでしょう。
西南戦争で死んだ桐野利秋も遺体の顔は原形をとどめないぐらい損壊していて、それは戦闘終了後に薩摩憎しで折り重なる死体をさらにめった刺しにした結果なのです。政府軍には旧佐幕派の兵士もたくさんいたのでしょう。
完全に恨みを解消したと言える仏教徒も限りなく0%に近いと思われますが、ほぼ全ての人間が恨みを持っているにも関わらず復讐行為を行わなかった人の方が多いことも現実ではないでしょうか。これは人間の歴史的な体験で因果応報が存在することを聞かされるうえに実際にそれを知る機会もあるので自ら手を下す必要なしと判断するのでしょう。それは正しい選択だと思います。
難しいことですがなるべく早く恨みをなくしたいものですね。悪い人は何もなくても死ぬ時に追い詰められるでしょう。心の仕組みでそうなるということと、そもそも存在するものは全て下らないということを、悪人に恨みを持つ人は知るべきですね。自分をどれだけ苦しみから解放できるかが本当に意味のある行為だということですね。わーよかった!でもなく幸せとは案外冷静なものであると。

幸せでありますように。
松下
2015年11月02日 23:01
失礼ながら今回の解説には矛盾があると思います。

先生は
>瞑想をすれば怨みを捨てられるのではないのです。
とも、
>ただ自分の煩悩をすべて捨てるためには、自分の煩悩に気付かなければできません。そこで「妄執をよく究め明らかにする必要があるのです。

とも、仰っていますが、「妄執をよく究め明らかにする」ことこそがヴィパッサナー瞑想(実践)であり、
観察で得る現象の無・苦・無我という正知よって、この場合であれば怨みという心所に対する執着がなくなるのですから、まさに瞑想によって怨みを捨てられる、ということになるのは明かであると思います。
逆にいえば瞑想をしていながら怨みを捨てることができないということは、その瞑想のレベルが正知を得ることの出来ない中途半端なものだからと考えるのが妥当なのではないでしようか?

もちろん、仰っている「瞑想」とはヴィパッサナー瞑想を差しているのではないというのなら別ですが。