虚妄知って 怒りを離れ 修行者は この世あの世を ともに捨て去る<再12>

○ワン爺さんの独り言<12>
・・・
最近は怒ることはほとんどないが、
まだいつ怒るかは分からない。
本当に気に入らないことがあれば、
怒るだろう。


第1 蛇の章 1蛇経 12.

○スマナサーラ長老訳
行き過ぎることもなく止まることもなく
[世界(存在)において]一切は虚妄であると知って、
瞋恚(シンニ)を離れた修行者は、
蛇が脱皮するように
この世とかの世とをともに捨て去る。


○毎田周一先生
行き過ぎずまた後れず
「一切はこれ虚妄」と憎悪を離れた
その修行者は この世とかの世を共に捨て去る
蛇が朽ち古りた皮を脱ぐように


○中村元先生訳
走っても疾(ハヤ)過ぎることなく、また遅れることもなく、
「一切のものは虚妄である」と知って憎悪を離れた修行者は、
この世とかの世とをともに捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。


○正田大観先生訳
行き過ぎず、戻り過ぎず、
「これは、一切が真実を離れたものである」と、怒り(瞋)を離れた、
その比丘は、此岸と彼岸を捨てる
――蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。


○パーリ語原文
ヨー   ナッチャサーリー ナ   パッチャサーリ
Yo    nāccasārī      na   paccasārī,
者は   行き過ぎず    ない  戻り過ぎ

サッバン   ウィタタミダンティ   ウィータドーソー
sabbaṃ   vitathamidanti      vītadoso ;
「一切は   虚妄だ この」と    怒りを離れた
 
ソー   ビック    ジャハーティ  オーラパーラン
So    bhikkhu    jahāti      orapāraṃ,
その   比丘は    捨てる      この世あの世を

ウラゴー   ジンナミワッタチャン  プラーナン
urago     jiṇṇamivattacaṃ     purāṇaṃ.
蛇が     老化した皮を      古い


○一口メモ
本日の偈も「ヨー ナッチャサーリー ナ パッチャサーリ」(行き過ぎず、戻り過ぎず)で始まります。二行目の「サッバン ウィタタミダンティ」(一切は虚妄だと)という言葉も同じです。その次の「ウィータラーゴ」(愛欲から離れた)が「ウィータドーソー」(怒りから離れた)に変わったのです。3行目、4行目は同じです。

この「蛇経」の第一偈も、怒りについての偈でした。その偈では怒りを「蛇毒」に例えて、その毒を薬(慈悲)で消すように述べられていました。今回は、「一切は虚妄だ」と知って、「怒りから離れた」ということです。一切が虚妄だと分かってしまえば、自分が怒ろうとしていることが事実でないことが分かるのです。それならば怒る理由はありません。怒る理由がなければ、怒らないはずです。

しかし、実際には怒る理由がなくとも、怒ることがあるようです。ですから、どんな時でも、どんなことにも怒らないようになる必要がると思いますが、一切が虚妄だと、悟った方はほとんど怒らなくなるでしょう。

この偈についても、「前回のこの偈の解説」を参考にして下さい。


○前回のこの偈の解説

虚仮(コケ)知って 怒りを離れ 修行者は この世あの世を ともに捨て去る<12>
http://76263383.at.webry.info/201304/article_12.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

生きとし生けるものは幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごことが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2016年01月24日 03:45
おはようございます。
「死」によって捨てるものは「物」だけではありません。「感情」も同じです。私はその「感情」にしがみついています。でもそれは、「死」とともに跡形もなく消えるものです。一緒に連れ添うのは「業」だけです。こちらは逆に、捨てたくても捨てることができません。「感情」への執着は「不善業」です。それなのに、なぜそこにしがみつくのか。第十二偈の教えを刻み、「瞋恚」から離れます。本日も、ご指導ありがとうございました。
巾着飴入り
2016年01月24日 03:56
例えば多くの方を乗せた、バスの運転手はいかなる時でも激怒できません。激怒すればもう首です。
多くの人を前に激怒すれば、どんな世界でも首でしょう
激怒するということは傲慢ということです
皆の中で生きる以上激怒はあり得ないのですね、もし皆の前で激怒したら、ふつうは自ら皆の前から去ります
シンプルなネズミ
2016年01月24日 07:21
本当は「何か」が生じる、滅する、とも言えない黄泉の国のように内実を欠いた因縁の世界が広がっているのでしょう。
私はたぶん本気で爆発したことがありません。私は生まれつきの人格者なのか、単に覇気がないだけなのかは分かりませんが、世の中には常時病気で弱っている人も無数にいるのだと思うと、少なくとも自分の分だけは暴発的な感情をぶちまけなくて良かったとも思えるのです。
結局死ぬ時はもっと他人のために慈悲の心を放出しておけばよかったと思うのではないでしょうか。

幸せでありますように。
こころざし
2016年01月24日 08:28
おはようございます。
日常で、腹が立つ事があります。ですがそれを怒り→怒りだす!にまで繋げてしまうと、自分の心は成長していない決定になると思います。
そもそも無我ですし、怒ること自体錯覚を基にしている何処までも
損にしかならない事と言葉では分かっています。それが心でも伴うように精進したいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。