虚妄知って 無知を離れて 修行者は この世あの世を ともに捨て去る<再13>

○ワン爺さんの独り言<13>
・・・
今見ているものが
そのまま真実だと考えるならば、
自分は愚か者と思うべきだろう。


第1 蛇の章 1蛇経 13.

○スマナサーラ長老訳
行き過ぎることもなく止まることもなく
[世界(存在)において]一切は虚妄であると知って、
無知を離れた修行者は、
蛇が脱皮するように
この世とかの世とをともに捨て去る。


○毎田周一先生
行き過ぎずまた後れず
「一切はこれ虚妄」と愚鈍を離れた
その修行者は この世とかの世を共に捨て去る
蛇が朽ち古りた皮を脱ぐように


○中村元先生訳
走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、
「一切のものは虚妄である」と知って迷妄を離れた修行者は、
この世とかの世とをともに捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。


○正田大観先生訳
行き過ぎず、戻り過ぎず、
「これは、一切が真実を離れたものである」と、迷い(痴)を離れた、
その比丘は、此岸と彼岸を捨てる
――蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。


○パーリ語原文
ヨー   ナッチャサーリー ナ    パッチャサーリ
Yo    nāccasārī      na   paccasārī,
者は   行き過ぎず    ない   戻り過ぎ

サッバン   ウィタタミダンティ   ウィータモーホー
sabbaṃ    vitathamidanti      vītamoho ;
「一切は   虚妄だ この」と    無知を離れた
 
ソー   ビック    ジャハーティ   オーラパーラン
So    bhikkhu   jahāti      orapāraṃ,
その   比丘は   捨てる      この世あの世を

ウラゴー   ジンナミワッタチャン   プラーナン
urago     jiṇṇamivattacaṃ      purāṇaṃ.
蛇が     老化した皮を       古い


○一口メモ
第8偈から「ヨー ナッチャサーリー ナ パッチャサーリ」(行き過ぎず、遅れもしない)で始まる偈が6つ続きましたが、今日で終わります。

さて、今回の第13の偈のテーマは何でしょうか。無知(愚鈍、迷妄、迷い)です。今回の偈では、「一切は虚構である」の真理を悟った方は、世間に対する一切の無知はないことが述べられています。

無知について、少し説明しなければなりません。無明、愚かさ、痴、愚痴、迷妄、迷いなどは無知の同義語です。無明(無知)は煩悩の最大のものであります。なぜならば、すべての煩悩の原因は無知だからです。無知がなければ欲もなく、怒りもないからです。ですから無知は煩悩の親玉だと言われています。しかし、この無知は、自分には無知があると気づきにくいものなのです。怒りがある時や、欲が有る時は少し冷静になれば分かります。しかし無知は自分が無知ですから気づけないのです。その意味でも無知はくせ者なのです。

無知な人を愚か者というのですが、愚か者は自分を賢い、自分は正しいと思っている人なのです。自分は正しいと思っている人は世間が虚妄である、実体はない、あるいは事実から離れているとは夢にも思っていないのです。ですから、この「一切は虚妄である」という真理は知るよしもありません。世間に執着し、この世あの世にしがみついているからです。しかし、自分は愚か者と気づいた人のみが、自分の考えている世間を疑問に思い、それが間違えているかもしれないと考えられるのです。自分が見ているものに疑問を感じられれば、それが虚妄であることに気づけるのです。

「ナッチャサーリー ナ パッチャサーリ」(行き過ぎず、遅れ過ぎない)とサティ(念)ある修行者は自分の無知に気づき、無知をなくして、「一切は虚妄である」という真実を悟るのです。そして、この世あの世を ともに捨て去るのです。


○前回のこの偈の解説

虚仮知って 無知を離れて 修行者は この世あの世を ともに捨て去る<13>
http://76263383.at.webry.info/201304/article_13.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

生きとし生けるものは幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごことが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2016年01月25日 03:46
おはようございます。
「無常・苦・無我」という言葉を、まるで「呪文」のように唱えても、無知を脱することはできません。そこで、なにかいい方法はないかと模索しました。すると、私には「死隨念」がもっとも効果的であると発見しました。「死」によって「物」や「感情」など全てを捨てることになります。逆に「業」は必ず付き添ってきます。であれば、生きている間だけでも、執着を断ち、慈しみの心を保つべきだと判ります。またそれを、日々の先生の教えが、いつも励まして下さいます。感謝申し上げます。ありがとうございます。
巾着飴入り
2016年01月25日 06:17
執着する対象があって、その時執着してる「自分」というものが出来上がります
自分という感覚が存在するためには、執着してる、「自分」なり、対象に怒りを向けてる「自分」が必要です

対象があって、対象を感じてる自分というものが成り立ちます。すなわち、一切対象を感じてない時には自分という感覚は消えます、そこで、何かのきっかけが執着のもとが、ポット現れたときに、これが自分て感覚を作り出す元かと、っ苦しみのもとかと、なる、訳です、自分って感覚があるから苦しんでるんですからね
こころざし
2016年01月25日 07:40
おはようございます。
無知な自分に気が付けないと、成長はない印象を日常から実感しています。特に自分の感情に任せて生きる度合いが多いほど、それが著明と感じます
無知を無くせるように冥想修行を実践し、そして無知が心レベルで分るように精進したいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
シンプルなネズミ
2016年01月26日 01:16
無明を見破る視点が小津安二郎と清水宏の両者ともに備わっていたと仮定すると、なぜか小津映画の方が世界的な評価が高い理由はズバリその不器用さにあると思います(笑)
別の言い方をすれば分かりやすさでしょうか。幽玄な世界観をなんとか「説明」しようとするのです。
ストーリーの排除という意味では清水宏の方が極端ですが、あくまで映画であることを優先します。映画の運動性をよく理解していたのではないでしょうか。描いているのはあくまでも無明の世界です。しかし結果的には小津以上に洗練された形で、映画の脈動として真理を衝く視点が示唆されている気がします。
小津監督は自分の墓石に「無」と彫らせる人です(笑)
海外の人から見れば小津映画の方が取っ付きやすかったのでしょう。

幸せでありますように。
エル
2016年01月26日 17:12
 物事が整理できずよく迷うし、怠け者なので、きっと私は無知がたくさんあるのだと思います。3年前までは、それがバレないようにビクビクしていました。最近は、人からどう見られても、自分の持ち物である業には関係ないのではないだろうかと思うようになりました。
たか坊
2016年05月01日 15:55
虚妄の喝6つ様々な視点から、学ぶコトができました!
またコツコツ精進して行きます♪