現れる 怒りの毒消す 修行者は この世あの世を ともに捨て去る<再1>

○ワン爺さんの独り言<1>
・・・
やさしい気持ちがあれば
怒りは現れません。
怒りが現れないように
やさしい気持ちを育てましょう。


1.第1 蛇の章 1.

○スマナサーラ長老訳
体に入った蛇の毒をすぐに薬で消すように
生まれた怒りを速やかに制する修行者は、
蛇が脱皮するように
この世とかの世とをともに捨て去る。


○毎田周一先生訳
拡がる蛇の毒を薬草で消すように
湧き上がる怒りを後にする
その修行者は この世とかの世とを共に捨てる
蛇が朽ち古びた皮を脱ぐように


○中村元先生訳
蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、
怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、
この世とかの世とをともに捨て去る。
──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。


○正田大観先生訳
彼が、広がった蛇の毒を諸々の薬で〔除き去る〕ように、
沸き起こった忿激〔の思い〕(忿)を取り除くなら、
その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する
――蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。


○パーリ語原文
ヨー     ウッパティタン    ウィネーティ  コーダン
Yo      uppatitaṃ       vineti       kodhaṃ,
彼が    現れた         なくす       怒りを

ウィサタン    サッパウィサンワ    オサデーヒ
visaṭaṃ      sappavisaṃva      osadhehi;
広がった     蛇の毒・ように      薬で

ソー    ビック      ジャハーティ    オーラパーラン
So      bhikkhu     jahāti        orapāraṃ,
その    比丘は     捨てる       この世あの世を

ウラゴー    ジンナミワッタチャン    プラーナン
Urago      jiṇṇamivattacaṃ       purāṇaṃ.
蛇は       古くなった皮を        古い


○一口メモ
解脱を目指す修行者が先ず取り組むべき課題は怒りです。修行者は、怒りを蛇の毒のように考えなければいけません。良い蛇毒と悪い蛇毒がないように、良い怒りも悪い怒りもありません。怒りはすべて毒で危険なのです。ですから、毒を薬で消すように、怒りも薬で消さなければなりません。怒りの薬はなんでしょうか。それは慈しみです。慈しみという薬を持っている修行者は怒りを消すことが出来ます。慈しみの少ない修行者は慈しみの心を育てて下さい。慈しみの心を育てれば、怒りを消すことが出来ます。

さて、この偈では怒りを消した修行者は、「この世とかの世とをともに捨て去る。」と述べています。この意味を考えてみましょう。この世とは今私達が生きているこの人間界です。あの世とは死後の世界です。仏教では生命は解脱しない限り死後は、天界、人間、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄のいずれかの世界に生まれ変わると考えています。この意味は死後の世界で生きることを望まないということです。すなわち、解脱するということです。

多くの人々はいつまでも生きていたいと思っていますから、死後も生きていたいと思っているのです。もちろん、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄などの怖ろしい、苦しみの多い世界に生まれ変わることは望んでいませんが、人間界か天界には生まれ変わりたいと思っているのです。しかし、慈悲の心を育て、怒りを消した修行者は、人間界や天界に生まれかることをも捨てるとこの偈は述べているのです。何故でしょうか?

日本テーラワーダ仏教協会訳の日常読誦経典の慈経の第10偈(スッタニパータ152偈)には次のように書かれています。
「(このように実践する人は) 邪見を乗り越え、常に戒を保ち、正見を得て、諸々の欲望に対する執着をなくし、もう二度と母体に宿る(輪廻を繰り返す)ことはありません。」

この意味は、慈悲の心を育て、怒りをなくした修行者は、生きていることは、生きとし生けるもに迷惑をかけることなしに生きることが出来ないことを知るのです。そのために、その人は生きることを厭う気持ちが現れます。ですから輪廻を繰り返すことを望まなくなるのです。


○前回のこの偈の解説

現れる 怒りの毒消す 修行者は この世あの世を ともに捨て去る<1>
http://76263383.at.webry.info/201304/article_1.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

生きとし生けるものは幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごことが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2016年01月13日 03:48
おはようございます。
「怒りの発生するメカニズム(1/Apr/2013ワンギーサ先生解説)」を追及すると、必ず「自我」と「固執」に行き着きます。すべての現象は無常です。なのに、なぜ「固執」するのか。それを追及すると、今度は、「『死』を真剣にとらえていない自分」を発見します。私は必ず死にます。そしてそのときは、すべて捨てなければなりません。捨てるものは、「物」だけではありません。「感情」も持っていけません。なのに、なぜ「怒り」という「感情」を起こし、しかもそれに「固執」するのか。せっかく人間として生きているのに、なぜわざわざ悪業を積むのか。せっかく生きているならば、「善行為」をするべきではないか。生きるときに気を付けるべきことは、「前向きか後ろ向きか」といった世俗の価値観ではない。本当に気を付けなければならないことは「善か、不善か」ではないのか。本日の偈に触れて、この確信をさらに強いものにすることができました。ご指導ありがとうございました。
こころざし
2016年01月13日 07:43
おはようございます。
何か嫌な事があると即決して怒りが出ます。ですがそこで止めれるか、怒りに思考・妄想してさらに怒りを増してしまうかで自分の成長の度合いが出ると感じています。これまでの体験から怒りを爆発させてしまう程損にしかならないと経験しています。
ですがそれが分っていても繰り返す事もまた事実でした。それは自分のエゴが脅かされた(と判断した)事に対する防御反応から来るものかなと自己観察で実感しています。
怒りを拡大させて・損にしかならない事を断てるように、心を成長させて、エゴをなくして参りたいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
巾着飴入れ
2016年01月13日 12:55
気持ちを置いて、帰ります
そこでの気持ちはそこにおいて、帰ります
決して持ち帰らない
エル
2016年01月13日 17:50
 ご講義ありがとうございます。慈教の結びの部分については以前から不思議に思っていました。ヴィパッサナー瞑想ではなく、慈悲の瞑想のみで解脱が可能というふうにも解釈可能ではなかろうかと思っていました。
 今日は、慈悲の念を保つことと、輪廻を脱することの間に、生きとし生けるものと自身との関係を深慮し生を厭うという段階があることを学びました。
有学
2016年01月13日 19:59
「良い蛇毒と悪い蛇毒がないように、良い怒りも悪い怒りもありません」との教え、瞠目しました。サティを入れても入れても怒りがしつこくくすぶっている事がありますが、怒りが消えないのは「あんな事ことをされたら怒るのも当然だ。これは正当な怒りだ」とお腹の底で思っているからです。毒は毒です。内臓を焼かれるような苦しみを忘れず、怒りを消し止められるように精進します。

今日からスッタニパータの復習が始まるので、新しいノートを開いてブログにアクセス、真っ先に飛び込んできた言葉は「ワン爺さんの独り言」……思わず笑ってしまいました。ユーモアを交えながら温かくご指導くださるワンギーサ長老の慈悲をより身近に感じ、今日一日弾むような心地で過ごしました。教えをいただける幸せに深謝します。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
シンプルなネズミ
2016年01月13日 20:08
怒った人が角を生やす表現方法がありますが、人間というものは本当に怒ると頭のてっぺんがバシッと音を立てて炎みたいなものが立ち上がるものです。恨んでいる状態とはまるで漆を飲み込んだような、黒い毒が体中に巡っているような感触があるのです。
私は怒りを克服した人間だとは言い難いですが、とにかくこれ以上ネガティブになると心身が壊れてしまうという限界領域がありますから、いざとなったら安全確保の為に自動的に心の方向性が変わってしまうんですね。コワモテでもないのに赤の他人が私を怖がりますから、これはまずい状態だとなるんですね。
江戸時代の仇討ち話というのも実際には生々しく痛々しいものばかりでハッピーエンドなんて皆無ではないでしょうか。ただでさえ武家の人は精神的に病んでそうな表情の人が多いですから、武士道ってなんだろうなみたいな疑問はありますね。
現代でも競争社会という言葉を当たり前のように耳にする時点で問題の根深さが窺えます。
私は案外心の広い人の言葉に出会う幸運はあったと思いますし、そういう人の存在が社会の役に立っていることは事実でしょうね。
ちょっと意味は違うけど早川雪洲の「僕は役を演じたのではない。スターを演じたのだ」というのは何故か凄く心が晴れるような効き目がありましたね。

幸せでありますように。