生きものを 慈しむけど 子をもたず 仲間求めず 一人で歩く<再37>

○ワン爺さんの独り言<37>
・・・
憐れみや親しみがあれば、
別れる時は自分も辛いが、
相手も辛いはず。
それならば独りでいよう。


37.第1 蛇の章 3.犀角経 3.

○毎田周一先生訳

友達や仲間を哀れんだりすれば
心が縛られて(自在の)利を失う
親しみにこの恐ろしさのあることを見抜いて
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう


○中村元先生訳

朋友・親友に憐れみをかけ、
心がほだされると、おのが利を失う。
親しみにはこの恐れのあることを観察して、
犀の角のようにただ独り歩め。


○正田大観先生訳

朋友や知人を慈しみながら(情をかけつつ)、
〔その思いに〕心が縛られた者は、〔自己の〕義(道理)を失う。
この恐怖を、親愛〔の情〕のうちに見る者は、
犀の角のように、独り、歩むもの。


○パーリ語原文

ミッテー    スハッジェー    アヌカンパマーノー
Mitte      suhajje        anukampamāno,
友人を     親友を        同情する者は

ハーペーティ  アッタン   パティバッダチットー
hāpeti       atthaṃ     paṭibaddhacitto,
失う        道理を     依存した心は

エータン  バヤン     サンタウェー   ペッカマーノー
etaṃ     bhayaṃ     santhave      pekkhamāno,
この     恐怖を     親交において  観察する者は

エーコー  チャレー   カッガウィサーナカッポー
eko      care      khaggavisāṇakappo.
一人    歩む    犀の角のように


○一口メモ
今回の偈は友達や仲間と親交することについて述べたものです。友達を哀れむとか同情するということは、一般には良いこととされていています。むしろ、同情や哀れみをもたないことは良くないこと、冷酷だとして非難されると思います。

しかし、ここでは友達や仲間に同情することは、友達との関係において心が拘束されて、心が自由ではなくなるというのです。心が自由でないと、物事を正しくありのままに観ることができなくなるのです。正しく物事を見ることができないと、道理に反する行動を起こす危険があるのです。ですから、物事を正しく観察人は友達を同情すること、哀れむことに危険を感じ、恐れを感じるのです。

以上の説明は前回の解説の始めの部分ですが、修行者の立場に立って友達や仲間に同情する危険性について述べています。しかし、同情すると友達や仲間にも危険性があるということも忘れていけないと気が付きました。自分だけが危険だから同情しないというのでは、あまりにも利己的です。そうではなく、相手のためにも必要なことなのではないかと思います。同情すれば、相手にも依存心が生じ、別れる時には悲しい思いをさせてしまうのではないでしょうか。修行者が犀の角のように独り歩くものであるということは、自分自身のためだけではないのです。


○前回のこの偈の解説

友達を 同情すれば 道はずす 危険を避けて 一人で歩く<37>
http://76263383.at.webry.info/201305/article_7.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

生きとし生けるものは幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごことが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2016年02月18日 03:52
おはようございます。
Patibaddha-citta。これがキーワードだと思います。「結ばれた/執着した」-「心」。中村先生訳の「心がほだされる」だけでは理解できませんでした。でも毎田先生と正田先生の訳に加えて、ワンギーサ先生がパーリ語を示してくださり、さらに「心が拘束されて、心が自由ではなくなる」と解説して下さったので、やっと理解することができました。慣れている世俗とは真逆なので、注意が必要ですね。ご指導ありがとうございました。
こころざし
2016年02月18日 06:12
おはようございます。
職場で、自分が目をかけた人は過剰に守り・自分になびかない人は困っても放っておく・・、との光景を見る事があります。その人の血縁者となると尚更です。
ですが、その過剰に守られる人は大体自己慢が上がり、心的に成長するのと逆の道を歩むように感じました。守ってしまう人も同様です。
上記は一つの俗世間例だと思いますが、本文の「修行者の立場に立って友達や仲間に同情する危険性について述べています」を拝見して、思う所がありました。
冥想合宿で沈黙行を守り、そして本当に修行する人は日常に戻るまで、会が終わっても(わっと話しだすのではなく)そのまま沈黙行が続く・・と伺った事があります。その意味が分かったように思いました。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
エル
2016年02月18日 11:57
 友人からショッキングな出来事を告白され、その話に積極的に数時間つきあったことがあります。自分が唯一の告白相手に選ばれたのだという喜びと、相手への同情が理由だったと思います。
長話をして見えてきたのは、友人は自分自身にも非があったため、事件を秘密にしたいと考えており、その結果自分のつらさや正当性を訴える相手がおらず、自分の出した結論(私には身勝手な結論に思われました)を私と共有したいのだという状況でした。
 一生懸命話を聞きましたが、その結果私の方が事件ショックに悶々としてしまい、学校の卒業試験の直前の時期だったにもかかわらず、勉強に手がつかなくなって試験の結果もよくありませんでした。友人の方は自説を全く変更する気もない様子で(多分私の話はあまり聞いていません)、美味しいお店に連れて行った私を「やさしい」「頼りになる」と評していました。
 この手の「やさしい」人は、自分にも他人にも役に立たないなとこの一件でつくづく思いました。今関心があることは、動揺しやすく判断力に乏しい今の自分が俗世間でどうすればいいのかという問題です。弱っている相手に依存させるのも、苦しんでいる相手が重いからと拒絶するのも良くないと思います。ひとまず、常識的な予定・バランスを考えて長話・長居は避けようかなと思います。
北の国から
2016年02月18日 20:11
 いつも三宝に頼っている私に、今日の一口メモが「無量の慈悲の言葉」として身に沁みました。
 こころの弱さが少しでも早くなくなっていくように、精進してまいります。
生きとし生けるものが幸せでありますように
たか坊
2016年05月08日 02:10
今回も
明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪