仲間など 親しい人との 別れ避け 一人で暮らし 一人で歩く<再41>

○ワン爺さんの独り言<41>
・・・
仲間と居れば
楽しいかもしれませんが、
一人でいる時の
心の落ち着きを感じてみよう。


41.第1 蛇の章 3.犀角経 7.

○毎田周一先生訳
仲間と一緒に居れば遊びまた楽しみ
子供等にも大きな愛著を感じる
いとしい者と別れるつらさはあるにしても
犀の角のようにただ一人あるいてゆこう


○中村元先生訳
仲間の中におれば、遊戯と歓楽(カンラク)とがある。
また子らに対する情愛は甚だ大である。
愛しき者と別れることを厭(イト)いながらも、
犀の角のようにただ独り歩め。


○正田大観先生訳
道友の中にいれば、遊興と喜悦が有る。
また、子たちのうちにあれば、広大なる愛情が有る。
愛しき者との別離を忌避する者は、
犀の角のように、独り、歩むもの。


○パーリ語原文

キッダー   ラティー   ホーティ   サハーヤマッジェー
Khiḍḍā     ratī      hoti       sahāyamajjhe,
遊戯     楽      ある       仲間の中にいれば

プッテース    チャ    ウィプラン   ホーティ  ペーマン
puttesu      ca     vipulaṃ     hoti      pemaṃ;
子の中にでは  また    広大な     ある     愛情が

ピヤウィッパヨーガン      ウィッジグッチャマーノー
Piyavippayogaṃ          vijigucchamāno,
愛しい者との別離を       回避する者は

エーコー  チャレー    カッガウィサーナカッポー
eko      care       khaggavisāṇakappo.
一人で    行く      犀の角のように


○一口メモ
生命は苦を避けて生きています。しかし、人間はそれだけでは満足しないで、楽しみを求めて生きているのです。いろいろな娯楽や芸術もこの楽しみの対象です。楽しみを求めている間は、楽しみはまだないのですから、本当は楽しくない、あるいは苦しいのですが、将来楽しくなるのだという期待で、苦を我慢して忘れているのです。しかし、楽しみが得られても、心はすぐに満足をしなくなります。それは苦しみです。それが心の性質です。

いつでも、楽しみが得られるとは限りません。楽しみが得られないことの方が多いのです。そのことは冷静に自分の経験を調べてみればわかるはずです。楽が得られないと苦しみを感じるのです。そのときの苦は、楽しみを求めた故の苦しみなのです。

子供に対しては、仲間以上の楽しみがあるのでしょう。どんなに暗い雰囲気のところでも、赤ちゃんが一人いればば明るくなります。スナラサーラ長老は子育てほど、楽しく、面白いものがないといいます。しかし、子育てがストレスになっているお母さんもいます。楽しみを求めていると必ず、その反対の苦を忘れてはいけません。楽は苦があってなりたっているのです。

知恵のある人々は、楽と苦の成り立ち、本質を見極めているのです。ですから、それらから超越する態度が自然に現れるのです。つまり、知恵ある人はバカなことはできないのです。一人で生活し、一人で歩くことになるのです。しかし、まだそれほど知恵がない人々は、仲間と知恵を学ぶことが必要でしょう。


○前回のこの偈の解説

仲間など 親しい人との 別れ避け 一人で暮らし 一人で歩く<41>
http://76263383.at.webry.info/201305/article_11.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

生きとし生けるものは幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごことが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2016年02月22日 03:51
おはようございます。
「楽」とは、今ある「苦」を別の「苦」に置き換えただけ。スマナサーラ長老は、その教えの証拠として、マッサージの例をあげられます。肩や腰が痛い。それを癒そうとしてマッサージをする。でも、それは、単に元あった痛みを別の痛みに置き換えただけ、と。それを知りながらも、私は未だに愚かです。この愚かさは、「死」に対する真剣さが不足しているからでしょう。このままではいけません。ご指導ありがとうございました。
こころざし
2016年02月22日 06:03
おはようございます。
以前「楽」を求めてさ迷っていた頃、僕の心はかなり安定していませんでした。そんな僕を見下す人は多くても、友人と呼んで下さる方は少なかったと思います。
大切な事を教えて頂いて、そのような無知から成長する機会を頂いています。もっと精進して、本質を見極め・それらから超越する域までいきたいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
てくてく
2016年02月22日 16:59
こんばんわ。
てくてくと申します。
書き込み失礼いたします。
誤りを恐れずに書きますことお許しください。

今日は、Piyavippayogaṃ vijigucchamāno,
ということばに目が止まりました。
中村元先生の訳では、『愛しき者と別れることを厭いながらも』とあります。辞書には、『愛しきものとの別れを厭いつつ』という訳もありました。
これらの中のことばでも特に『厭いながらも』や『厭いつつ』という表現は、とても微妙で、この表現の中には何かあるぞと思いました。
人は、人との関係において、お互いに仲間と認める中には、戯れや楽しみが有るのだと思います。子供等において、お互いに子であると認める中にあっては、広大な愛が有るのだと思います。
一方で、人は、そうではない人との関係においてはどうなのでしょう。
人は、人との関係の中で、この人、あの人、この子、あの子という隔てが生じる危険がある。その危険を修行者は見て、過去に会った人も、これから会う人も、いま会っている人も、どの人との関係にあっても隔てが生じないようにされたのだろうと思いました。
その関係を『厭いつつ』という微妙な表現で説かれたのだろうと思いました。
シンプルなネズミ
2016年02月22日 19:23
高校の時少しの間お世話になった道場の先生はすでに亡くなったのですが、先日その先生が夢の中に出てきまして、ずっと気になっていたその流派の基本の構えの詳細な意義について質問しました(笑)正直意外な夢を見たと思ったのですが、自分で想像する以上の影響を受けていたのかもしれません。
しかし自分を掘り下げてみれば、武における流派とは人間の本能的な行動をいかに洗練させる(効率化させる)かの違いに過ぎないのではないかという本音が出てくるような気がします。
もっとも、洗練させることに根本的な迷い(と体調不良)が20代前半で生じてすでに道場通いは中途半端に終わっているのですが…。
自分も含めたほとんどの人にとって、突発的に本気で向かってくる相手に対処できる方法は極めて限られているという厳然とした事実を想起することによって、自分の中に残っている色々な未練らしきものを消化していけるのではないかと思います。
私が心底なんの迷いもなく無抵抗主義を採用できる日もいつかくるかもしれませんね…。

本当の独立独歩とは生死も超えていくことなのでしょう。果てしなく難しくもあり憧れでもありますね。

幸せでありますように。
エル
2016年02月22日 20:58
 在家で、仲間や楽しみから離れるのは至難の業だと思います。人と人のつながりがあって、お互いに気を紛らわし、情報交換をして、世間的にはより良い選択をしていくのです。就職活動中なので、今特にそのような経験をします。以前に比べて、自分の状況を客観的にみられるようにはなってきたとは思いますので、強い欲や怒りに流されないように気をつけます。
 
SRKWブッダ
2016年02月23日 00:17
愛しき者と別れることを厭わない。これは、人でなしである。

愛しき者と別れることを厭う。これは、衆生に過ぎない。

愛しき者と別れることを厭うが、しかし、なおかつ犀の角のように独り歩む。これが修行者である。これが現実に不可能ならば、そもそも修行者など存在し得ない。しかしながら、これは立派な人には出来得ることであると説かれる。

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