満足と 慈悲の心で 安心だ 死を恐れずに 一人で歩く<再42>

○ワン爺さんの独り言<42>
・・・
一人の楽しみを
知ったのならば、
どんなことにも
堪えられる。


42.第1 蛇の章 3.犀角経 8.

○毎田周一先生訳

この世のどこへ行っても物を傷めず
あるだけのもので満足し
どんな危険にも堪へて恐れることなく
犀の角のようにただ一人歩いてゆこう


○中村元先生訳

四方のどこでも赴き、害心あることなく、
何でも得たもので満足し、
諸々の苦痛に堪えて、恐れることなく、
犀の角のようにただ独り歩め。


○正田大観先生訳

また、四方(東西南北)に障碍[さわり]なき者と成り、
いかなるものにても〔足ることを知り〕満足している者として、
諸々の危難を打ち負かす驚愕なき者として、
犀の角のように、独り、歩むもの。


○パーリ語原文

チャートゥッディソー  アッパティゴー   チャ   ホーティ
Cātuddiso         appaṭigho      ca     hoti,
四方に          無障害の者と   また   なる

サントゥッサマーノー   イタリータレーナ
santussamāno        itarītarena,
満足した者         いかなる物にも

パリッサヤーナン  サヒター    アチャンビー
parissayānaṃ     sahitā     achambhī,
危難に        堪える者    恐れのない

エーコー  チャレー   カッガウィサーナカッポー
eko      care      khaggavisāṇakappo.
一人で    行く      犀の角のように


○一口メモ
この偈はまだ、犀の角経の八番目です。この経は41の偈で成りたっています。どの一つの偈だけで独立した意味を持っていて、それぞれ真理を示しています。そられはすべて前人未踏の真理(涅槃)への道を単独で切り開いた独覚仏としてのブッダの御姿を如実に示したものです。「ブッダを見るものはダンマを見る。ダンマを見るものはブッダを見る。」といわれるように、犀の角経を通してブッダの御姿を見る人は、真理を学ぶことになります。

このように書きますのは、犀の角経を初めて読まれる方は、この経の流れや行く方がよく分からないと思います。はじめは、それでよいのです。一つ一つの偈からブッダと真理を学べばよいのです。後で2回、3回とこの経を繰り返して読むとき、また新な意味をつかむことができると思います。

42番の偈の一行目の「四方のどこに行っても」は、40番、41番では「仲間の中にいれば」ということでしたから、仲間の外に出て行って、どこに行ってもということになります。その場所のどんな人々にも害意を持たず、すなわち慈悲の心を持つということです。これは仏教の真髄です。

二行目は、「何でも得たもので満足し」、これも仏教の大切な教えです。

三行目「諸々の苦痛に堪えて、」は、仲間の外に出たら、どんな状況にあるか分かりません。安心して寝る場所がないかもしれません。寒い木の下で寝なければならないかもしれません。食べるものがないかもしれません。それらの苦痛に耐えてということです。

三行目「恐れることなく」は、「死ぬことを恐れず」ということです。寝る場所が安全でなく、食べものがなければ、死ぬ危険があるのです。もし死を恐れるならば、仲間の中にいなければなりません。何者にも依存せず、独立、自由を求めるならば、死を恐れないということが必要なのです。犀の角のように一人で行くことは、ブッダの覚悟です。真理を知る者の自然な態度なのです。

少し、悲壮観を強調した書き方をしましたが、実は、どんな場所でも、どんな時でも、慈悲の心のある人、どんなものにも満足できる人には、困難はないのです。それが自然の法則ですから、心配する必要がないのです。そのことも理解する必要あります。


○前回のこの偈の解説

満足と 慈悲の心で 安心だ 死を恐れずに 一人で歩く<42>
http://76263383.at.webry.info/201305/article_12.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

生きとし生けるものは幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごことが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎ゴータミー精舎では、通常は毎日朝晩、自主瞑想会を行っています。朝5時から7時まで、および夜7時から9時まで。但し、木曜日夜7時から9時までの自主瞑想会は休みます。また変更のある場合はこの「お知らせ」で、あらかじめ報告します。詳細はワンギーサの携帯番号090-2311-9317に御連絡下さい。


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この記事へのコメント

kempsford
2016年02月23日 03:38
おはようございます。
「恐怖なんて、所詮妄想なのです。お釈迦様は、それを証明するため、お一人のみで墓場で過ごされたのです。そこで音がしても、それは単に鳥が枝を折っただけだったのです」。これはスマナサーラ長老がアビダンマ講義で紹介されたことです。ホントかな?と、ちょっと引っかかっていたのですが、その経典を見つけました。中部経典No.4怖駭経です。まさにachambhīです。そこを目指します。ご指導ありがとうございました。
こころざし
2016年02月23日 09:54
私事ですが、今の職場を4月で退職します。上司と共に二人で辞めるのですが一気に二人では職場が持ちませんので、まず上司が3月に入ってすぐ有給消化に入ります。その上司が今月に入り猛烈に厳しくなり、戸惑いました。それまでやってした仕事の姿勢を律し、そつなく出来るように努めました。幸いこちらで学ばせて頂いていますので、サティに徹して余計な妄想をしないように努め、乗り切れました。
最近になりその上司より「3月はあなた一人になるので、困らず乗り切れるように最強で厳しくしました」と言われました。愛情を感じる機会でした。そして本文の「どんな場所でも、どんな時でも、慈悲の心のある人、どんなものにも満足できる人には、困難はないのです」を自分なりに実体験する機会となりました。有難い事と思います。
その学びを生かして、もっと精進したいです。
ワンギーサ長老・皆様の今日も素晴らしい一日となりますように。
エル
2016年02月23日 11:49
以前はこの詩を読んで悲壮な気分になっていました。しかし今は、優れた修行者は慈悲の人であり、それにふさわしい結果を得る上、そもそも「恐れ」の感情が生起しないのだということが分かります。
てくてく
2016年02月23日 16:10
こんばんわ。
てくてくと申します。
書き込み失礼いたします。
行き過ぎを恐れず自由に書きますことお許しください。

appaṭighoを辞書で調べると、障礙なき、無碍、無障害の、無対のという訳が載っていました。
前の語に『四方に』ということばが使われているので、あえて、『無対の』という訳語で考えることにしました。
『四方に 無対のもの と なる』これは、どういうことかと考えました。
人は、前を見たら、前しか見れないかもしれない。表を見たら、表しか見れないかもしれない。そのようにものを見るとき、人は、前と後ろ、表と裏があるものになると思いました。
修行者は、前を見ながら、後ろも見るようにものを見る。表を見ながら、裏も見るようにものを見る。そのようにものを見る修行者は前も後ろも、表も裏もないものになると思いました。
修行者は、ものごとを二つに分けて見ないから、無対の者になるんだと思いました。

itarītarenaを辞書で調べると、彼此の、いかなる、あらゆるという訳がありました。
その中の『彼此の』という単語には、「おおよそ」という意味もありました。
『おおよそ 満足した者』
修行者は、『おおよそ満足した者』となるのだと思いました。

achambhīを辞書で調べると、『驚愕なく』とありました。
人にとっての驚愕はなんだろう?と考えました。
それは、「真実」だと思いました。
人は、本当のことを言われると驚愕する(ぎくっとしてあわてる)と思います。
でも、修行者は、真実に驚愕することなく、危険に打ち勝つものなのだと思いました。
シンプルなネズミ
2016年02月23日 18:37
この間信号のない場所で車にひかれそうになりましたが助かりました。大きなことは言えませんが、私の悪運の強さは当たり前すぎてなんとも思わなくなっている所があります。ぼーっとしないようにしたいと思います。

慈悲の瞑想をしっかりやれば目の前がミルキーウェイに変わるんですよ。
空気の質が変わっているというか、ピアノがターンルルルララーッと道路に浸透していくと災難が私をよけてしまうという感じですね。
もちろんなんでそうなるのかは説明が付かないものでしょうね。
ものすごい俗物根性でやろうとするパターンだと目も当てられないですが、善に生きたいという意志があるなら是非やればいいと思います。

幸せでありますように。