業は尽き 業は生まれず 阿羅漢は 寂滅するのみ 幸せであれ<再235>

○ワン爺さんの独り言<235>
・・・
阿羅漢はどんな方だろう。
天皇陛下の立ち振る舞いは
穏やかで静かで高貴だが、
多分それ以上の方だろう。


第2 小さな章 1.宝経 14.

○日本テーラワーダ協会訳
14.
「古き[業]は尽き、新しき[業]は生ぜず」。
再び生まるることに未練はない。
種子[業]が尽きた。貪欲を根絶やしにした。
彼の賢者たちは、灯明の如く寂滅す。
此は僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。
此の真実により、幸いがあらんことを。


○中村元先生訳
235
古い(業)はすでに尽き、新しい(業)はもはや生じない。
その心は未来に執著することなく、
種子をほろぼし、それが生長する事を欲しない
それらの賢者は、灯火のように滅びる。
このすぐれた宝が(つどい)のうちに存する。
この真理によって幸せであれ。


○正田大観先生訳
238.(235) 
古きもの(過去の業)が滅尽し、新たな発生が存在せず、
未来の生存にたいし心が離貪した者たち――
彼らは、〔再生の〕種子が滅尽した者たちであり、欲〔の思い〕が成長なき者たちであり、
慧者たちは、あたかも、この灯明のように、消え行く(涅槃に到達する)。
これもまた、僧団における、妙なる宝である。
この真理によって、安穏有れ。(15)


○パーリ語原文
235.
キーナン    プラーナン     ナワ      ナッティ    サンバワン
Khīṇaṃ     purāṇaṃ      navaṃ      n’atthi      sambhavaṃ,
尽きた     古い(業)      新しい(業)  ない       発生し

ウィラッタチッター アーヤティケー    バワスミン
virattacittā āyatike         bhavasmiṃ
離貪した心 未来の        生存に対して

テー    キーナビージャー   アウィルーィチャンダー
te      khīṇabījā         avirūḷhichandā
あの    種子が尽きた      成長を欲しない      

ニッバンティ   ディーラー    ヤターヤン    パディーポー
nibbanti      dhīrā        yathāyaṃ     padīpo,――
滅尽する     賢者たちは    このように     灯火

イダン ピ    サンゲー       ラタナン    パニータン
idam pi      Saṅghe        ratanaṃ     paṇītaṃ,
これ も      サンガにおける   宝       勝れた

エーテーナ   サッチェーナ    スワッティ    ホートゥ
etena       saccena       suvatthi      hotu.
この       真実によって    幸せで      あれ


○一口メモ
宝経の第一偈で、仏陀は「皆さまが 幸せであり ますように 私の話し よく聞きなさい」と述べました。
http://76263383.at.webry.info/201309/article_30.html

その宝経における仏陀のお話は今回が最後です。(宝経にはまだ三偈ありますが、それは神々の王である帝釈天述べたものです。)

これまで仏陀はサンガについては預流果に達した弟子たちについて述べてきましたが、最後に阿羅漢に達した弟子たちについて語ります。

ここからは、既に紹介したスマナサーラ長老の「宝経法話」から引用させて頂きます。

「阿羅漢のこころの中は、一般の人に理解できる語ることは難しい。それでも、この偈では何とか理解できるようにと説明しているようです。

阿羅漢に達した時点でいままで背負ってきた無量の過去の業はすべてなくなります。善業も悪業すべて消えてしまう。輪廻転生して苦しみを再現するために必要な、業というエネルギーが消えてしまったのです。貪瞋痴が根絶されたので、阿羅漢の聖者が身体・言葉・考えるという三種類の行為をして生きていても、その行為は業にならない。ただ行為だけで終わります。

来世はどうなるか、という悩みは一切ない。輪廻に対して、まったく執着がない。阿羅漢は皆に説法したり冥想指導したり弟子を育てたり、仏教を次の世代にも伝えるために必要なことをなさったりする。ふつうの人はこのように献身的に努力すると、優れた徳を積むことになります。しかし阿羅漢の場合は、行為をしてもその行為に業としての果報をもたらす力がない。

例えば、世界一おいしい果物があるとします。しかし、その果物の中に種がないならば、できるのはせいぜい、おいしく食べることだけです。阿羅漢の聖者の努力によって我々一般人はこの上のない幸福に達することができますが、阿羅漢の聖者にはただの行為で疲れるだけでしょう。見返りはありません。阿羅漢の聖者達は渇愛を根絶したので、輪廻の苦しみから炎のように消えてしまう。

涅槃とは何か知識で理解することは不可能ですから、輪廻の立場で語っています。『消えた炎は東西南北のどこに行ったのか』という問いは成り立たない。阿羅漢は輪廻転生という無限の苦しみから、炎おように消えるのです。」(以上引用終わり)


○前回のこの偈の解説

業は尽き 業は生まれず 阿羅漢は 寂滅するのみ 幸せであれ<235>
http://76263383.at.webry.info/201310/article_13.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

生きとし生けるものは幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごことが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


○アラナ精舎雨安居日記 
2016.8.12.(金) 第24日目
 今日は7月にもお布施して下さった方が、大阪市の梅田に有るホテル阪急インターナショナルにあるレストランで食事のお布施をして下さった。その後、大阪の繁華街を車で案内をしてもらいアラナ精舎に帰った。
 私は彼に以前「すべての悩みは、独り芝居だ。」という話しをしたようだ。彼は今回「確かにその通りだ。」と思うと言っていた。その意味は、あまり具体的には書けないが、多くの悩みは、自分が一人で困ったことが起きたと自分で勝手に思いこんでいて、それに対して、自分が勝手に困った、困ったと悩んでいるという意味だ。しかし、他人は彼に対して何も思っていないということだ。どうだろうか。そういうことはないだろうか。
 数日前に、三十二身分の観察について書いたが、実はこのことに通じることがあると思う。これを始めに種明かしをしてしまうと、不浄観の瞑想の意味が薄れるので、具体的に書くのは控えることにする。不浄観をする中で、このことに気づいてほしいと思う。
 今日のアラナ精舎には、男女一人ずつ二人の修行者が来た。現在四人の修行者が泊まり込んでいる。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎私ワンギーサは、7月20日から10月15日まで、大阪府岸和田市のアラナ精舎で雨安居をしています。カテナ法要まではこちらに滞在することになります。それ以後についてはどこで生活するか分かりません。宜しくお願い致します。

◎このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーを一日一回クリックして下さい。そうすると、仏教ブログのランキングが上昇します。ランキングが上昇すると閲覧者が増えると思われるからです。御支援をお願い致します。


この記事へのコメント

kempsford
2016年08月13日 04:25
おはようございます。
「唯作心:結果を未来に引かない・ただ作用のみ」。アビダンマを学び始めたとき、まったく「???」の状態でした。でも、宝経を学び、「貪瞋痴が根絶されたので、阿羅漢の聖者が身体・言葉・考えるという三種類の行為をして生きていても、その行為は業にならない。ただ行為だけで終わる」ことを知りました。私も、「輪廻転生という無限の苦しみから、炎のように消える」境地を目指します。ご指導ありがとうございました。
こころざし
2016年08月13日 21:04
日常を見ると、自分含めその人のエゴが働きながら接している・・を感じます。ですがそのエゴがない、となると吃驚と言いますか、凄く次元の違いを感じる様な、そんな印象を持つと思います。
現在ポテンシャルを貯める様な生き方しか出来ていませんが、阿羅漢の境地に少しでも近づいて、業を作らない生き方が出来るようになりたいです。
ワンギーサ長老・皆様にとって、素適な夜となりますように。
たか坊
2016年09月07日 15:36
今回も明るく楽しく学べたコトを、嬉しく思います♪