欲望を 制することなく 悪をなす これが生臭 肉食でない<再243>

○ワン爺さんの独り言<243>
・・・
神々には
人間は臭いそうだ。
悪いことをする人間が
多いからだろう。


243.第2 小さな章 2.生臭経 5.

○中村元先生訳
243
この世において欲望を制することなく、
美味を貪り、不浄の(邪悪な)生活をまじえ、
虚無論をいだき、不正の行いをなし、頑迷な人々、
──これがなまぐさである。肉食することが(なまぐさい)のではない。


○正田大観先生訳
246.(243) 
彼ら、この〔世において〕、諸々の欲望〔の対象〕にたいし自制なき人たち、
諸々の味にたいし貪求ある者たち、不浄の状態と交わる者たち、
『〔何であれ〕存在しない』という見解(断見論)ある者たち、
不正なる者たち、捉えどころなき者(教え難き者)たち
――これが、生臭です。まさに、肉を食べることではありません。(5)


○パーリ語原文
243.
イエー   イダ     カーメース    アサンニャーター   ジャナー
Ye      idha     kāmesu      asaññatā         janā
誰でも   ここで   欲望に      抑制がない       人々

ラセース   ギッダー     アスチバーワマッスィター
rasesu      giddhā      asucibhāvamassitā
味において 貪り       不浄な存在と混ざり

ナッティカディッティー   ワイサマー     ドゥランナヤー
natthikadiṭṭhī         visamā        durannayā,
虚無的見解(を持ち)    不正で       導き難い

エサーマガンドー  ナ    ヒ     マンサボージャナン
esāmagandho,     na    hi      maṃsabhojanaṃ.
これが生臭      ない   決して   肉食


○一口メモ
昨日の偈では、戒(道徳)を守らないことが生臭である、肉食が生臭ではないと述べられました。今日の偈では、そのことをもう少し、心の内面に注目して、生臭とはどのような人であるのか述べています。

先ず、欲望に対して抑制のない人は生臭であるということです。更に具体的に、美味しいものを求めて貪っている人が生臭なのです。グルメブームに乗って、美味しい料理を求めて渡り歩いている人は生臭と言われてしまうようですね。

次は「不浄の(邪悪な)生活をまじえ」あるいは「不浄の状態と交わる者たち」と訳された意味は何でしょう。注釈書によりますと、「その味を貪るため、味を得るために、『種々の間違った生活(邪命)』と呼ばれる不浄な状態と混じりあっている。」と書かれています。お酒を飲むということも含まれているのかもしれません。昨日の偈では飲酒のことは書かれていませんが、ここで書かれているのかもしれません。

「虚無論をいだき、」或は「『〔何であれ〕存在しない』という見解(断見論)ある者たち、」は何かは具体的に書いた方が分かりやすいでしょう。十項目の邪見です。①布施はない、②献供はない、③祭祀はない、④善作・悪作の諸業の果報はない、⑤此世はない、⑥他世はない、⑦母はいない、⑧父はいない、⑨化生・有情いない、⑩沙門・阿羅漢はいない(『南伝』64巻、255頁)。これらはブッダが一番批判した邪見です。

「不正の行いをなし」あるいは「不正なる者たち」とは、昨日述べた不正な行いを為す者達を言っています。

「頑迷な人々、」あるいは「捉えどころなき者(教え難き者)たち」は、現世に執着し、こだわり、真理を悟り難いことです。頑固な人、教え難い人は確かにいて、そのような人の成長は困難です。(また逆に、素直な人は、育てやすく、すぐに成長します。慈経の始めに詳しく述べられていました。)

これらの人々が生臭であり、肉食をする人を生臭というのではないのです。


○前回のこの偈の解説

欲望を 制することなく 悪をなす これが生臭 肉食でない<243>
http://76263383.at.webry.info/201310/article_18.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

生きとし生けるものは幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごことが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


○アラナ精舎雨安居日記
2016.8.17.(水) 第29日目
今日は朝から曇っていて、雨がふるかなと思ったが、午後からはいつも以上に晴れ、いつも以上に暑かった。
僧房から外を見ると、昨日見たと同じようなアゲハ蝶が飛んでいた。昨日の夕方、本堂の庭の木に黒と黄色の縞模様のある羽を広げて動かずに止まっていたアゲハ蝶がいたのだ。蛾と蝶の違いは、羽を広げて止まるか、羽を閉じて止まるかだと本で読んだことがあるが、このアゲハ蝶は羽を広げて止まっている。死んでいるのかな。それとも日が沈む前なので、そこで眠るのかなとも思った。瞑想を止めて、本堂を引き上げる時もそのまま止まっていた。今日僧房から見たあのアゲハ蝶は昨日の蝶だったのだろうか。後で本堂で昨日の場所を確かめたが、そこにはあのアゲハ蝶はいなかった。
午後からは三人の女性の方が来られ、明日の朝食と昼食のお布施をしてくれると聞いていた。ありがたいことだ。夕方、二人の方が来られ、一人は夜遅く到着するそうだ。夕方の読経は4人で行った。
 以前この日記に唯識の勉強を始めていると書いたが、唯識でいう阿頼耶識は無明及び業の研究の結果ではないかと思うようになった。そうすると、辻褄が合うように思う。これだけ書いただけでは何だか分からないと思うが、この日記は私の備忘録でもあるので悪しからず。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎私ワンギーサは、7月20日から10月15日まで、大阪府岸和田市のアラナ精舎で雨安居をしています。カテナ法要まではこちらに滞在することになります。それ以後についてはどこで生活するか分かりません。宜しくお願い致します。

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この記事へのコメント

kempsford
2016年08月18日 04:28
おはようございます。
「断見論」については、前節で学んだ宝経の施本で、スマナサーラ長老がこう説かれています。「欲に溺れて道徳を無視して生きている人に、命は死で終わるものだと言えば、朗報になります」。これでは、いくら修業しても、決して救われることはありません。即ち、すべての人間を不幸にする見解であると言えます。邪見のなかでも、この見解が、特に厳しく戒められている理由がよく判ります。ご指導ありがとうございました。
こころざし
2016年08月18日 06:00
おはようございます。
人間は臭い・・を拝見し、本当にそうだよねと思いました。夏で汗をかいて自分が匂う・・みたいなニュアンスもありますが、特に固定概念の塊が強く、それにそってしか生きられない様な人に、臭み的なものを感じる事があります。
以前、無味無臭のような大切さを言われている方に接した事があります。我がないというニュアンスになると思います。
生臭にならないように戒めたいです。
ワンギーサ長老・皆様の、今日も素晴らしい一日となりますように。
たか坊
2016年09月15日 00:09
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪