殺生は 貪瞋痴なり 死後地獄 これが生臭 肉食ではない<再248>

○ワン爺さんの独り言<248>
・・・
貪る人間、
憎しみをもつ人間、
愚かな人間が生臭人間です。
生きものを殺す人間は
その代表です。


第2 小さな章 2.生臭経 10.

○中村元先生訳
248
これら(生けるものども)に対して貪り求め、敵対して殺し、
常に(害を)なすことにつとめる人々は、死んでからは暗黒に入り、
頭を逆さまにして地獄に落ちる、
──これがなまぐさである。肉食することが(なまぐさい)のではない。


○正田大観先生訳
251.(248) 
これら〔の命あるものたち〕にたいし、貪求ある者たち、〔行く手を〕遮る者たち、殺害する者たち
――彼ら、常に〔正しからざることに〕専念する、
〔迷える〕有情たちが、死してのち、闇に行き着き、頭を下に、地獄へと落ち行く
――これが、生臭です。まさに、肉を食べることではありません。(10)


○パーリ語原文
248.
エーテース    ギッダー     ウィルッダーティパーティノー
Etesu        giddhā      viruddhātipātino
これらに対して  貪り       妨害し、殺す人

ニッチュッユター   ペッチャ    タマン    ワジャンティ    イェー
nicc’uyyutā      pecca      tamaṃ     vajanti       ye,
常に・励む      死後       暗闇に    行く        彼らは

パタンティ    サッター    ニラヤン     アワンスィラー
patanti      sattā      nirayaṃ      avaṃsirā,――
落ちる      生き物は   地獄に      頭を下にして

エサーマガンドー    ナ     ヒ     マンサボージャナン
esāmagandho,      na     hi      maṃsabhojanaṃ.
これが生臭       ない    決して   肉食 


○一口メモ
今回で、生臭とはどのようなことかの説明が終わります。

その最後に今回も生きものを殺すことが生臭であることが述べられます。

一行目では、生臭とは、貪りと妨害すること殺すこと表現され、それは貪りと憎しみと愚かさであると述べられているのです。

二行目では、このように生臭の行為を常に励むものは、日の当たらない暗黒の世界に行くと言われます。

三行目で、すなわちそれは、死後に地獄に真っ逆さまに地獄に落ちるということです。

生臭人間は地獄に落ちることを覚悟しなければなりまません。

では、どのようにして、生臭を清めて、清浄な人間になるのかは、明日以降に述べられます。


○前回のこの偈の解説

殺生は 貪瞋痴なり 死後地獄 これが生臭 肉食ではない<248>
http://76263383.at.webry.info/201310/article_23.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

生きとし生けるものは幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごことが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


○アラナ精舎雨安居日記 
2016.8.22.(月) 第34日目
 唯識について、インターネット調べていたら、数学者の岡潔という人の唯識の考え方を知りました。彼は心を第一の心と第二の心と分けて考えています。第一の心はいわゆる自我の心、第二の心は無我の心と言ってよいと思います。詳しく知りたい方は、「岡潔と唯識」をネットで検索して、調べて下さい。
 ここでは、岡潔の心の分析方法、心を「知、情、意」で分ける考え方で、「真理を信じる」と「真理を確信する」ということについて考えます。
 仏教では「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)、「一切の形成されたものは苦しみである」(諸行皆苦)、「一切の物事は我ならざるもの」(諸法無我)は仏陀の言葉であり、真理であると教えています。これらをどのように体得するかが問題です。
 始めは、これらを知的に学ぶのです。いろいろな具体例で、無常(苦、無我)であるか調べます。理屈の上でも、無常(苦、無我)であることを理解します。頭の理解です。しかし、まだ情(感情的)には受け入れてない場合が多いのです。しかし、次は意(意思の力)で、無常(苦、無我)を納得しようとするのです。この作業がなければ、真理を情(感情)は受け入れることにはならないでしょう。しかし、感情には理屈は通用しないのです。感情は心の深い部分、潜在意識(阿頼耶識)と言ってもよい部分によって支配されているからです。感情的にも真理を受け入れた時、真理を確信したと言えるのでしょう。
 真理を感情的にも受け入れる過程は、先ず、真理を理解することを前提に、受け入れようとする意(意思)が必要ですが、それだけではなかなか困難です。潜在識が支配しているからです。ですから、功徳を積むことが必要であると言われるのです。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎私ワンギーサは、7月20日から10月15日まで、大阪府岸和田市のアラナ精舎で雨安居をしています。カテナ法要まではこちらに滞在することになります。それ以後についてはどこで生活するか分かりません。宜しくお願い致します。

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この記事へのコメント

kempsford
2016年08月23日 04:18
おはようございます。
「sira:頭 avam 下に→avamsira 頭を下にして」。怖いですね。「アビダンマを勉強すると、もう怖くて、悪いことなんてできないでしょ。それが仏教なのです。ブッダは、某宗教のように、『信じないと地獄に堕ちるぞ』と脅したりはしないのです(スマナサーラ長老講義)」。とはいうものの、仏陀が説かれる真理の凄みには、背筋が凍ります。ではどうすれば、清浄な人間になれるのか?心して学びます。よろしくお願いします
こころざし
2016年08月23日 07:08
殺生は毎日色々な所で様々な理由で行われています。その結果生まれる業は同じ・・ようにも思います。殺しても良い、は成り立たないと思いますので、戒めたいです。
長老の日記から、功徳を積むことが潜在意識に繋がる印象を感じました。先日庭に蛇がいてとても恐怖的なものがでましたが、潜在意識を思う機会でした。功徳も積んで参りたいです。
ワンギーサ長老・皆様の、今日も素晴らしい一日となりますように。
たか坊
2016年10月20日 15:00
今回も明るく楽しく学べたことを、嬉しく思います♪