感覚に 注意を向けて 行えば 見聞きしたことで 汚染されない<再250>

○ワン爺さんの独り言<250>
・・・
見れば欲しくなり、
聞けば楽しくなるけれど、
それで心が汚れることに
気づくべきなのだ。


第2 小さな章 2.生臭経 12.

○中村元先生訳
250
通路(六つの機官)をまもり、機官にうち勝って行動せよ。
理法のうちに安立し、まっすぐで柔和なことを楽しみ、
執著を去り、あらゆる苦しみを捨てた賢者は、
見聞きしたことに汚されない。」


○正田大観先生訳
253.(250) 
諸々の〔欲望の〕流れにたいし〔心が〕守られた者として、〔感官の〕機能(根)を征圧した者として、〔世を〕歩むのです。
法(正義)に依って立ち、正直と温厚を喜び、
執着を超え行き、一切の苦しみを捨棄した慧者は、
諸々の見られ聞かれたもの(執着の対象になった認識対象)に汚されません」〔と〕。(12)


○パーリ語原文
250.
ソーテース    グットー    ウィディティンドゥリヨー  チャレー
Sotesu       gutto      viditindriyo          care
流れにおいて   守り      感官を知って        行ずるがよい

ダンメー    ティトー    アッジャワマッダウェー  ラトー
dhamme    ṭhito      ajjavamaddave        rato
法において  安立し     率直・柔和を        楽しみ

サンガーティゴー     サッバドゥッカッパヒーノー
saṅgātigo         sabbadukkhappahīno
執着を超えて       一切の苦を捨て

ナ    リッパティ    ディッタステース   ディーロー
na     lippati       diṭṭhasutesu      dhīro.’’
ない   汚す       見聞きしたことに    賢者は


○一口メモ
昨日の偈の解説では詳しく述べませんでしたが、昨日の偈は戒禁取(カイゴンシュ)と疑(ギ)という煩悩があれば、生臭は浄化されないということを述べたものです。苦行や無意味な儀礼・儀式が戒禁取です。疑は、生臭の原因を理解してないこと、拡大して理解すれば因果法則を理解せず、それに対す疑いを持っていることです。

さて、それではどのような方法で生臭が浄化されるのでしょうか。カッサパ仏は今回の偈の一行目だけで、それを明確に説かれました。中村先生の訳で示せば、「通路(六つの機官)をまもり、機官にうち勝って行動せよ。」ということです。

通路(六つの機官)とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つ感覚器官のことです。そこから外部からの刺激が心に入ってくるのです。快い刺激が入ると欲が生まれます。それを欲しい、もっと欲しいと思います。不快な刺激が入ると、嫌だという怒りが生まれてくるのです。快でも不快でもない刺激が入ると無関心あるいは無知が生まれるのです。欲や怒りや無知は心の汚れです。

心が汚れないようにすること、生臭にならないようにするためには、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つ感覚器官に入ってくる外部刺激に気づき、心が欲や怒りや無知にならないように守ることが大切なのです。心に入る外部刺激に気づかないと自動的に心は欲怒り無知に汚れますが、この感覚器官に入ってくる外部刺激に気づくことができると、感覚の流れをストップできるのです。そうすれば心は汚れず、浄化されていくのです。実はこの気づきのこの練習がヴッパッサナー冥想なのです。

また、この感覚の流れから、自分がいるという想い(妄想)も生まれます。この想い(妄想)が自我です。心の流れから心を守ることによって自我がなくなってきます。私がいるという誤解は有身見と言います。はじめに述べました戒禁取、疑、そしてこの有身見という三つの煩悩がなくなった方を、悟りの四段階の始めの段階である預流果という悟りに至るのです。

この偈の「理法のうちに安立し」あるいは「法(正義)に依って立ち」は預流果に悟った方を意味しています。この法とは四聖諦のことです。

次の「まっすぐで柔和なことを楽しみ」あるいは「正直と温厚を喜び」は悟りの二番目の段階である一来果に悟った方を意味しています。一来果に悟った方は心を硬直した状態にする貪り・憎しみが極めて薄いからです。

そして、「執著を去り」あるいは「執着を超え行き」は不還果に悟られた方を意味しています。この方は貪り・憎しみの執着を超えているのです。

最後に、「あらゆる苦しみを捨てた」あるいは「一切の苦しみを捨棄した」は阿羅漢に悟られた方を意味しているのです。すべての苦しみを捨てた方はすべての煩悩を捨てた方なのです。

このようにしてカッサパ仏は、最高の清浄を得ている阿羅漢の境地を説くことで説法を終わられたのです。


○前回のこの偈の解説

感覚に 注意を向けて 行えば 見聞きしたことで 汚染されない<250>
http://76263383.at.webry.info/201310/article_25.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

生きとし生けるものは幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごことが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


○アラナ精舎雨安居日記
2016.8.24.(水) 第36日目
 今日は兵庫県芦屋から一人の女性がアラナ精舎に来られて、昼食のお布施をしてくれました。スマナサーラ長老のお布施の功徳の話しを聞いていたので、是非お布施したいと思っていたそうです。木岡さんにいろいろ手伝ってもらったそうですが、誰でもお布施は気楽にできると思います。ブッダとサンガへのお布施を行うと心が清らかになるとどなたも言われます。
 食後彼女ともいろいろな話しをしました。その中で一つ気になることがありましたので書いておきます。「アラナ精舎雨安居日記」の中で、私が唯識の勉強をしていると書いていますが、これは皆さんに唯識の勉強を奨めているわけではないということです。私は縁があって、この雨安居中に唯識の勉強をしようと思ったのです。大乗仏教の論書を知らずに大乗仏教を批判することはできないという思いとまたその中で、学べるものは学べばよいという思いがあったからです。私の雨安居日記ですから、私の生活について書いている訳で、私の生活を真似するように書いているわけではありません。唯識については、特別興味を持たれた方は別ですが、そんなものかなと思っておいて下さい。
テーラワーダ仏教を学び始めた方は、ダンマパダやスッタニパータ(小部経典)、その他、中部経典や長部経典、相応部や増支部の経典などを先に学んだ方がよいと思います。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎私ワンギーサは、7月20日から10月15日まで、大阪府岸和田市のアラナ精舎で雨安居をしています。カテナ法要まではこちらに滞在することになります。それ以後についてはどこで生活するか分かりません。宜しくお願い致します。

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この記事へのコメント

kempsford
2016年08月25日 04:22
おはようございます。
感覚の制御は実に厄介です。ヴィパッサナー冥想をすると、その感覚は、瞬間だけの現象だと観えてきます。従って、集中する、のも瞬間です。逆に、その瞬間に油断すると、すぐに妄想が割り込んできます。実況中継実践に当たって、「隙間なく」をスマナサーラ長老が強調されることに納得致します。また、第五章で仏陀が「よく気を付けなさい」と13回も繰り返されたことにも得心致します。ご指導ありがとうございました。
こころざし
2016年08月25日 07:23
おはようございます。
日常で・・になった状態を観察すると、六つ感覚器官から入った情報から認識・判断・区別して、そして・・と回転して行っているのが分かります。しかもそこで止めないと、特に不快の方で膨張していき、苦しかない様な状態を繰り返します。六つ感覚器官に入ったところで止める大切さを実感致します。
慈しみの実践をしながら、サティを実施していきたいです。
ワンギーサ長老・皆様の、今日も素晴らしい一日となりますように。
こころざし②
2016年08月25日 07:28
※唯識ですが、以前少し資料を見て、何かとっても分かりずらい印象を感じた経験があります。アビダンマは長老・藤本先生の本が(文章的に)分かり易かったからか、そこまで難解には思いませんでした(理解まで至れていませんが・・)
唯識に対し、ブッダの世界に独自の世界を入れて、の要素が何処まであるのかな、と思った記憶があります。
必要な事は是非学ばせて頂きたいです。
H.A
2016年08月25日 16:30
昨日は貴重なお時間の中、まとまりのない質問を色々といたしまして、失礼いたしました。お話しいただいたこと、糧になりました。本のご指南もいただき、感謝しております。ありがとうございました。
ブログを楽しみに、毎日学ばせていただきます。
まだまだ暑さ厳しき折、どうぞご自愛くださいませ。
たか坊
2016年10月22日 17:22
今回も明るく楽しく学べたコトを、嬉しく思います♪