貪欲と 怒りはここから 好き嫌い ここから来るよ 恐怖はここから<再271>

○ワン爺さんの独り言<271>
・・・
よろこびも
かなしみも
ここより現れ、
ここより消える。


第2 小さな章 5.スーチローマ夜叉経 2.

○中村元先生訳
271
貪欲と嫌悪とは自身から生ずる。
好きと嫌いと身の毛もよだつこととは、自身から生ずる。
諸々の妄想は、自身から生じて心を投げうつ、
──あたかもこどもらが鳥を投げて棄てるように。


○正田大観先生訳
274.(271) 
〔世尊は答えた〕
「貪りと、怒りとは、因縁として〔まさに〕これ〔自身〕から〔生じます〕(自己自身から生起した)。
諸々の不満〔の思い〕は、諸々の歓楽〔の思い〕は、身の毛のよだつことは、〔まさに〕これ〔自身〕から生じます。
諸々の思考は、〔まさに〕これ〔自身〕から現起して、〔善き〕意を〔投げ捨てます〕
――少年たちが、〔足を縛った〕烏を〔遊び目的で〕投げ捨てるように。(2)


○パーリ語原文
271.
ローゴ   チャ   ドーソー     チャ     イトーニダーナー
‘‘Rāgo    ca     doso       ca      itonidānā,
貪欲は   と    怒りは      と      この因縁(から生じる)

アラティー     ラティー     ローマハンソー    イトージョー
aratī        ratī        lomahaṃso       itojā,
嫌い        好き       身の毛のよだつこと これより生じる

イトー     サムッターヤ   マノー ウィタッカー
ito       samuṭṭhāya     mano vitakkā
これより    生じて       心   思考

クマーラカー     ダンカ ミウォッサジャンティ
kumārakā       dhaṅkam iv’ossajanti.
少年たちは     カラスを ように・投げ飛ばす


○一口メモ
皆さん、昨日のスーチローマ夜叉の質問に対して、どのような答えを出したでしょうか?

今の私は仏教を学んでいますから、仏教的な答えを考えるのですが、仏教を学んでいない人々はどのように考えるでしょうか? たぶんこのような問題は考えたことはないと思います。仏教で五欲と言えば、感覚的欲望で、見たい、聞きたい、匂いたい、味わいたい、触れたいというものです。しかし、世間での五欲は財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲を言います。これらはどこから生じるのか考えることはないと思います。これらは考えるまでもなく、あるのが当たり前だと思ってしまうでしょう。

また、世間ではこれらの五欲を満たすことが幸せだと考えていますが、仏教ではスッタニパータ第1章の「ダニヤ経」でも述べられていたように、欲望が苦しみの原因であると言っているのです。苦しみをなくすためには、原因をなくさなければなりません。ですから、欲望はどこから生じるかを考えるのは重要なことなのです。

同様に、怒りはどこから生じるかを考えることは重要なのです。何故なら、スッタニパータ第1章の始めの「蛇経」の始めで述べられたように、怒りは毒なのです。毒は生命にとって危険なものです。その危険を取り除くためには、怒りが何処から生じるかを知らなければなりません。

嫌いと好きも感覚から生じます。感覚が不快なとき嫌いが現れ、快の時好きが現れます。欲と怒りも感覚から生じるのです。不快な時、心に怒りが現れます。快の時、欲が現れるのです。感覚はどこから現れるのでしょうか?

身の毛のよだつこと(恐怖)はどこから現れるのでしょうか?無知からです。生命の弱く、危険なものに取り囲まれています。生命は知っている者に対しては安心できますが、知らないものに対しては安心できません。安心できないと怖いのです。つまり恐怖は無知から生じるのです。無知はどこから現れるのでしょうか?快でも不快でもないという、無関心という感覚です。実は欲や怒りも無知の現れですから、欲や怒りからも恐怖が生じるのです。例えば、不必要なものでも、大切に思っているものがなくなるのは怖いのです。

最後の質問は「妄想はどこから生じて、心を混乱させるのですか?」でした。中村先生は「妄想」と訳されたものを正田先生は「思考」と訳されています。ほとんどの思考は妄想ですから、どちらでもよいのです。思考にせよ妄想にせよ、それは感覚から生じます。感覚から生じた妄想が、心を投げ捨てるが直訳ですが、それは心を混乱させることです。心が混乱すれば生命は幸せではないのです。

これらすべては感覚から生じるのです。感覚はどこから現れるのでしょうか?世尊のお答えは「これから生じる」です。中村先生は「自身から生じる」、正田先生の訳は「これ〔自身〕から〔生じます〕」としています。言葉で表すと「これ」としか言いようのないものだからです。例えば、世尊が自分の身体を指して、「これ」と言った時、一番分かるのです。中村先生は「これ」と表現したならば、何を言っているか分からなくなると思って、「自身」と訳されたのだと思いますが、「自身」というものはないのですから、自身とは言えないのです。私はないというように。少し難しいかもしれませんが、自分の身体をたたいて、「これ、これ」と言ってみて下さい。そこから欲や怒りや好き嫌いや恐怖が生じるのです。


○前回のこの偈の解説

貪欲と 怒りはここから 好き嫌い ここから来るよ 恐怖はここから<271>
http://76263383.at.webry.info/201311/article_16.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

生きとし生けるものは幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごことが叶えられますように
生きとし生けるものにも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


○アラナ精舎雨安居日記 
2016.9.19.(月) 第62日目 敬老の日
台風16号が近づいているためか、どんよりとしたはっきりとしない天気だった。夜になって雨が降り出した。
お昼の食事のお布施はアラナ精舎で手の込んだお料理をよく娘さんを連れて来られる方が一人で作ってくれた。彼女は英語の分かる方なので、クサラダンマ長老に英語で短い説法をして頂いた。内容はダンマパダの118番「人がもし善いことをしたならば、それを繰り返せ。善いことを心がけよ。善いことつみ重なるのは楽しみである。」であった。私も70%くらいは理解できたと思う。
夕方の読経は彼女ともう一人の修行者と木岡さんと四人で行った。
読経のあと、夜宿泊する方が来るという。誰だろうと思っていたら、私のよく知っている方だった。東京からマーヤーデーヴィー精舎の瞑想合宿に参加して、その帰りにこちらに寄られたのだという。久しぶりに会ったので、近況や瞑想のこと、特に妄想や眠気のことや禅定などについて色々話をした。

 善いことは すればするほど 功徳ある 法の話しも 功徳になるはず


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎私ワンギーサは、7月20日から10月15日まで、大阪府岸和田市のアラナ精舎で雨安居をしています。カテナ法要まではこちらに滞在することになります。それ以後についてはどこで生活するか分かりません。宜しくお願い致します。

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この記事へのコメント

kempsford
2016年09月20日 04:22
おはようございます。
「世尊のお答えは『これから生じる』です」。「ito:ここより・これより」。そこには、「自分」はなく、まるで無機質な物体のようです。パティパダーDec/2011には、冥想についてこう説かれています。「『ここに』膨らみがある。『ここに』縮みがある。『ここに』痛みがあるという風に実況していくのです。…妄想は、必ず、「私」がやっています」。実況中継を、もっと、真剣にやらねばなりません。ご指導ありがとうございました。
こころざし
2016年09月20日 06:14
おはようございます。
自分の体のこれから感覚から生じる事、その感覚がなければ生じないと思いますと、とても興味深く感じます。感覚から無知で思考を回し、煩悩に溢れる状態になる自分は、まさに智慧のなさを実感致します。ここ、から現れる感覚を制御出来る様にしたいです。
ワンギーサ長老・皆様の、今日も素晴らしい一日となりますように。
たか坊
2016年11月23日 00:49
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪