「大事な話」――極些細なことにこそ本当に大事なことが含まれている

ワン爺さんの独り言(2017.1.24.)
「大事(一大事)」に関連して、もう一つSRKWブッダの「大事な話」を紹介します。「大事な話とは、大事な話のことですが、大事なことは誰しもが認める大変な事件や、誰しもが驚く大袈裟な出来事に含まれているのではなく、極些細なことにこそ本当に大事なことが含まれているということです。」
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou015_sub.htm

(以下引用)
【大事な話】
大事な話とは、大事な話のことですが、大事なことは誰しもが認める大変な事件や、誰しもが驚く大袈裟な出来事に含まれているのではなく、極些細なことにこそ本当に大事なことが含まれているということです。

[喩え話]
おもちゃ屋さんで見かけることがある風景です。

子供さん) あっ見つけたっ。 このおもちゃ買ってぇ!
親御さん) {チラリと見て} だめだめ。
子供さん) どうしてぇ? 
親御さん) この前、似たのを買ったでしょ。 それにこれ高いじゃないの(千円)
子供さん) でも、あれとは違うんだよ。 だから、欲しい。 欲しいっ。
親御さん) だ~めだめ。
子供さん) いやだ~。 みんなこれ持っているもん。 僕だけ持ってないの..。
親御さん) だめだめ。 さぁ。 行きますよ!
子供さん) いやだ~。 どうして~。
親御さん) さぁ。 さっさと行きますよ!
子供さん) え~~ん。 {その場で、泣き崩れる}
親御さん) {つかつかと立ち去る そして遠くから手招きして} 早くっ! 

[大事]
第一の大事: 子供が、心から求める本当に欲しいものが手に入らない事実。

第二の大事: 他の子供が親におもちゃを買ってもらい、満面の笑みで横を過ぎ去る姿を目にすること。 それを見て、辛い思いをすること。 自分の親が、わずかなお金で手に入るおもちゃでさえ買ってくれる気が本当は無かったのだということを子供が知ってしまうこと。 当然の期待が裏切られ、親への信頼と信頼にもとづく安心を喪失してしまうこと。

本当の大事: 辛い経験があるために、次の機会が来ても子供がもうおもちゃ屋さんに行こうとしなくなること。 子供が本当に大好きなものを、子供自身が敢えて望まなくなってしまうこと。 子供であれば誰でも本来的に楽しい場所である筈なのに、自らの意思でおもちゃ屋さんへ行こうとしなくなること。 親がどんなに誘っても、行こうとしなくなること。 親を信じられなくなってしまうこと。 そして、ついには悲しい顔をして「おもちゃなんかいらない」 「おもちゃ屋なんかがあるからいけないんだ」 「僕は一人で遊ぶからいい」 「もう、誰とも遊ばないからいい」などと言うようになること。 このようにして、子供が、おもちゃよりも大切な友達との関わりを自らの意思で無くしてしまうこと。 それが本当の大事です。 孤独な子供など、つくってはならないのです。

【人類の大事】
人類が、ブッダが説く理法を信じることが出来なくなってしまうこと。 人類が、覚りの境地が確かに存在するということを信じることが出来なくなってしまうこと。 人類が、自らが覚りの境地に至った人(ブッダ)になれるのだということを信じられなくなってしまうこと。 人類が、本当は手に入れたい筈の、しかも本来手に入れることが出来る筈の覚りの境地(安穏の境地)を自ら生じた疑惑ゆえに望まなくなってしまったとき、それが人類の大事です。
(以上引用)

ワン爺より一言。「極些細なこと」が「人類の大事」につながっているとなると「極些細なこと」とは言えなくなりますね。


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この記事へのコメント

Satya
2017年01月24日 17:39
解脱は自分の生身の心身に関することではありますが、心身の外側の事象に関わってはいないということではないですよね。

世間での関わり合いにおける自他のマインドの有り様を軽視せずに、自他の言動の微妙なところまで注意を向けることの持続が大切だということではないでしょうか。

よき因縁は普段の日常のなかでの些細なことを疎かにしない注意深さがあってのことで、それがないと悪しき因縁があってという方向性に進んでしまいがちになるのではと思います。

また、誰とも関係をもたず、マインドの一点集中だけ頑張ったとしても、解脱は難しい。

ブッダの覚りはインタービーイングの理解であり、世間解であるということです。