この世には、世俗の中にありながら、ときとして<真理の言葉>を発する人が現れる。

ワン爺さんの独り言(2017.1.3.)
今日はSRKWブッダのHP「覚りの境地」の「善智識」の欄を紹介します。
善智識とは正法の核心です。解脱のメカニズムを明らかにするものです。これほどまでに解脱のメカニズムを明らかにしたブッダはSRKWブッダが初めてはないでしょうか。ではその内容を以下に引用します。

【善知識】
 この世には、世俗の中にありながら、ときとして<真理の言葉>を発する人が現れる。この<真理の言葉>は、それを聞いて、その意味するところを知る人が あるならば、かれをして不滅の安穏(=ニルヴァーナ)へといざない、導き、至らしめる働きを為す。世にも不思議な、稀有なる働きゆえに、この<真理の言 葉>を<善知識>と名づけ、同時にその言葉を発したかれ自身も善知識と呼ぶのである。

 善知識は、他の人に好まれる一言を与えようと思って計らう人ではない。なぜならば、善知識は、他の人に期せずして善なる道(=覚りの境地に通じる道)を 与えてしまう人のことであるからである。そして、この善知識が発する<真理の言葉>、すなわち<善知識>それ自体も決して特別な言葉では無く、ごく平易な言葉として語られるものであり、何気ない一言として発せられるのである。したがって、<善知識>は、たといそれがまさしく発せられて、誰かがそれをまさしく聞き及んだとしても、かれに直ちに感激を与えるような言葉では無い。しかしながら、<善知識>は、「それ(=真如,=覚りの境地,=覚者)」の実在をこころに知っている信仰篤き人々に、それがそうだと知られることになるのである。なぜならば、<善知識>は、かれらにこの世における最も美味なる味わいをも たらすからである。<善知識>は、それが発せられた局面に立ち会ったすべての人々を誰一人として悲しませることの無い言葉として特徴づけられ、誰ひとりとして後悔の念を生じることの無い完全な結末をもたらす。けだし、<善知識>こそ世における法(ダルマ)の現れに他ならないからである。

 ところで、善知識は覚りの境地に至ることを目指す人が自分自身で見いださなくてはならない。他の誰かが、「あの人がそうですよ」と指し示してくれる訳で はないからである。しかしながら、もし人が、心構え正しく、よく気をつけて、善なるものの真実を知ろうと熱望するならば、かれはついにその人(=善知識) を見いだすであろう。

 こころある人は、善知識はまさしくこのようにして見いだされるのであると領解せよ。

以上引用終わり。
昨日引用したサンユッタ・ニカーヤ(相応部)の二つの言葉は、善智識の善き人々(善友)と「法の句(真理の言葉)」について、ゴータマ・ブッダが述べられたものであります。また、一昨日引用した法華経第二品の「諸仏世尊はただ一大事因縁によってのみ世に出現したまう」はこのことを述べたものなのです。


~~~~~~お知らせ~~~~~~

◎私のメールアドレスを次のように変更いたしました。
vangiisagm@gmail.com
以前のメールアドレスは2017年1月31日までは使用できますが、それ以後は使用できなくなりますから、変更して下さいますようお願いいたします。


この記事へのコメント

正月三日ぼうーず
2017年01月03日 08:17
元長老はSRKWブッダが「解脱のメカニズム」を詳細に明かしたのが歴史上最初ではないか、と書かれています。その考えに水をさすようですが、こういう説明はパオ派のМさんが、アビダンマ講座で詳細に語っていました。だから、たぶん、SRKWブッダの「善知識」の説明のルーツは、アビダンマにあると思います。Мさんは、アビダンマはサーリプッタ長老の孫弟子たちがその原型を作ったと仰ってました。教団の中でも、智慧第一とされる長老の学派だからこそ、ブッダの教えを学問的に、精緻なものにできたという話は、納得ができるのですが

さて、私はSRKWブッダの著作集を拝読し『観』の中に公案を見つけました。その中には、間違いなくこのブッダのオリジナルな教えと呼べるものがあると思います。元長老には、ぜひ、公案についてとりあげて、ともに考えていただけたらと思ってます。

匿名
2017年01月03日 11:14
元ワンギーサ長老がなぜ還俗に至ったかというお話はまだ途中ですが、SRKWブッダさんを「ブッダ」と認めて信奉している様子を感じてしまうと、「ワンギーサ」「ワン爺さん」を名乗るのはどうなのかという疑問が生じます。
比丘であったときからそうだったのかと思うと、色々な考えが浮かんできます。
ちなみに自分には、SRKWブッダさんの著作を、はっきりとこうである、と評価できる能力が今のところありません。
とにかく説明の最後まで拝読してみたいと思います。