愚かな行為(罪を憎んで人を憎んではならない)

ワン爺さんの独り言(2017.1.31.)
未だ覚りの境地に至っていない私たちは愚かな行為をしているものだが、何が愚かな行為なのかよく知って、そのような行為をしないように注意すべきです。また、人(自分自身を含む)の愚かな行為を見た時は、罪を憎んで人を憎んではならないのです。では「愚かな行為」について学びましょう。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou028.htm

(以下引用)
【愚かな行為】
未だ覚りの境地に至っていないとしても、世にこころの根底から愚かな人などは誰一人としていない。 しかしながら、そうとは知らずに愚かな行為をすることはあり得ることである。

以下に列記することは、愚かな行為と呼ばれる。

■ 分別がないから(つまり頭が良くないから)愚かな行為をするのではない。 やさしくないから愚かな行為をするのである。

■ 善悪のけじめがつかないから愚かな行為をするのではない。 後悔の念が残るならば、それは愚かな行為であると知らねばならぬ。

■ 嫌な相手が愚かな人なのではない。 他人を嫌うあなたこそが愚かなのである。

■ ものに疎いから愚かな人なのではない。 知っていて、それでいて敢えて知らないふりをする者こそが愚かなのである。

■ 傲慢であること、意地悪であること、ケチなこと、我儘であることなどのありとあらゆる世の中で嫌われることをする人が、それゆえに愚かな人なのではない。 それを知っているのに(思いやりをもって)何ら指摘してあげないあなたこそが愚かなのである。

■ (ことに臨んで)無力な人が愚かな人なのではない。 その人のために容易に為し得ることを、(何かが心に引っかかって)敢えて為そうとしない者こそが無力な者である。 そして、それは愚かなことなのである。

このように、この世に愚かな行為はあっても愚かな人などと呼ぶべき人は誰一人としていない。 なぜならば、人々(衆生)は自分ならざるもの、すなわち名称と形態(nama-rupa)に突き動かされている存在であり、それゆえに善かれと思って結果的に愚かな行為を犯してしまうのであるからである。 したがって、主観的にも、客観的にも、愚かな行為は確かにあるが、愚かな人などと呼ぶべき人は誰一人として存在しないのだと知るべきである。

ところで、世間に現れるあらゆる種類の愚かな行為は、すべて因縁によって起こることである。 それゆえに、覚りの境地を目指す人は、罪を憎んで人を憎んではならない。 自らの心を制し、怒りを静めて、他の人が愚かな行為を犯す姿を見ても、よりいっそうの思いやりのこころを起こすべきである。 そしてまた、覚りの境地を目指す人は、(自分自身の行為を含めた)あらゆる行為を非難してはならない。 非難をも賞賛をも超えて、行為の本質を見極めよ。 そうすることによって、ついに人は「愚かさ」の真実を知り究め、ついに愚さから脱却することができるのである。
(以上引用)

ワン爺の解説。
上の文章の終わりの方に、「覚りの境地を目指す人は、(自分自身の行為を含めた)あらゆる行為を非難してはならない。 非難をも賞賛をも超えて、行為の本質を見極めよ。」と述べられています。「行為の本質」を見極めるために、SRKWブッダは「理法」の欄に「行為」という解説を記載しています。少し長い文章ですが、是非読んでみて下さい。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou027.htm


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発心以前において

ワン爺さんの独り言(2017.1.30.)
昨日は「発心」について学びました。SRKWブッダの「理法」の欄には、「発心以前において」という文章がありました。今日はそれを学んでおきましょう。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou048.htm

(以下引用)
【発心以前において】
未だ覚りの境地に至っていない人が、もし(正しい)発心以前に、本来発心後に行うべき(第二の)気をつけることの実践法として為すべき慈悲観、平等観あるいは基本的公案に取り組むことは、意味のない行為である。 しかしながら、それはある意味では大いに意味のある行為であるのだと言えるのである。

ここで、ある意味で意味が無いというのは、それが恋に恋するようなものであるからである。 また、ある意味では大いに意味のある行為であるというのは、それらに取り組む過程において、まさにそのことによって(真実の)発心を起こすことが期待され得るからである。

何事においても、知る人はそれに親しむ。 親しむ人はそれを好む。 好む人はそれを楽しむ。 そして、そのような楽しみの中において、遂にはそれにまつわるすべてを体得するに至るからである。 ゆえに、この意味においてのみ、この限りにおいてのみ、本来それ以後に為すべきことをそれ以前において行為することは否定されないのである。

しかしながら、恋に恋する人が本当の恋を知り難いように、覚りの境地に至る道を、覚りの境地に至るための修行の道としてその意味を見い出そうとする人は、覚りの境地に至る道から遠ざかってしまうことになりかねない。 道を歩むものはとくに留意すべきことである。

それでもなおかつ、発心以前において慈悲観、平等観に取り組もうとするのであるならば、次の心構えを持つべきである。

□ 時間の無駄を気にしないで取り組む
□ 順逆の念を離れて取り組む
□ 聞く耳をもつ
□ 決して自分を卑下しない
□ 決して人をけしかけない
(以上引用)

ワン爺の解説
□ 時間の無駄を気にしないで取り組む
何が無駄か、無駄でないか分からないのですからね。気楽に、楽しく取り組めはよいのではないでしょうか。
□ 順逆の念を離れて取り組む
「順」は従うこと、「逆」は逆らうことですが、そのような想いを離れること。
□ 聞く耳をもつ
上と同じようなことと思いますが、素直な心で聞くことでしょう。
□ 決して自分を卑下しない
自分も他人も本当はやさしい心を持っているのですから、卑下する必要はありません。
□ 決して人をけしかけない
どんな人も自由な心をもっているのですから、その心を尊重すべきなのです。


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「発心(ほっしん)」について学びましょう

ワン爺さんの独り言(2017.1.29.)
今日は昨日予告した通り、「発心(ほっしん)」について学びましょう。例によってSRKWブッダのHPの「理法」欄から引用します。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou026.htm

(以下引用)
【発心】
覚りの境地に至ることを本当に願い求めるようになる真実のきっかけを、発心と名づける。

発心は、何かを学んだことで生じるものではなく、誰かに教え諭された結果生じるものでもない。 それは、けしかけられて生じるものでもなく、覚りの境地に至ることを願うことではなく、覚りの境地に至ろうと(何か壮絶なる)決意をすることでもなく、(ブッダを含めた)誰かに憧れた結果生じるものでもない。 発心は、外的要因とは関係がないものであり、かと言って内的要因に後押しされたものでもない。 それは、自らの因縁によって生じた覚りに向かおうとする本当の気持ちに他ならない。

すなわち、発心とは、そのことをきっかけにしてそれ以前に覚りの境地を目指して行ってきた種々さまざまな行為について、その根本的な勘違いに気づくその心のことである。 しかも、気づくとは言っても、発心はいわゆる気づきではない。 なぜならば、発心は気づいたその瞬間に何らかの心理的理解を生じるものではなく、その人が覚りの境地に至った後に過去のできごとを振り返って「あれこそが発心であった」と後づけで理解するものであるからである。

人が発心することは稀有なることである。 しかしながら、発心は確かにあることで決して虚妄なるものではない。

通常、発心はその人にとっての(第一の)善知識によってもたらされる。 つまり、人は、善知識、すなわち化身(世に出現する一瞬の化身仏)の放つ「法の句」(=善知識と名づく)を聞いて、真実に覚りを目指す心を起こすからである。

具体的には、次のことが起こる。 因縁によって遭遇する(第一の)善知識は、善き人々との語らいを縁として最初の発心を起こす。 その発心は内的なものであって本人に意識されないものであるが、実に気高く、美しく、輝かしいものである。 そして、その(第一の)善知識が発した最初の発心を眼のあたりにして、こころある人はその気高さに心打たれ、自分の道の歩みあやまち(勘違い)に気づかされるのである。 そうして、いわば二次的・連鎖的についに発心を起こすに至る。

これが発心の全貌である。 したがって、発心は自力で生じるものではなく、他力で生じるものでもなく、自力でも他力でもないもので生じるものでもなく、自力と他力との両方で生じるものでもないと知られるのである。

[補足説明]
世間において、「魔がさしたのだ」と言われることがある。 この言い方を借りるならば、発心とは「仏がさした」ということである。

[補足説明(2)]
菩薩とは、発心した人のことである。

[補足説明(3)]
発心は聡明で冷静な精神状態においてのみ起こることではなく、散乱した精神状態においてさえ現れるものである。 酒を飲み、酔っぱらった精神状態においてさえ発心を起こす人があるからである。

[補足説明(4)]
一度発心を起こした人は、それ以後は真の意味で気をつけるようになる。 そして、そのよう気をつけている人が、(第二の)善知識に逢い、本当の「法の句(仏智)」を聞いてそれを正しく理解したならば、かれは直ちに覚りの境地へと至る。 このとき、かれがそれを正しく理解できるかどうかは、一大事因縁によっていることである。 そして、一大事因縁によって正しく覚りの境地に至った覚者は、その後(第三の)正しく気をつける行為のみを為すことになる。 これを<諸仏の誓願>と名づけ、この誓願に生きる人が覚れる人(ブッダあるいは阿羅漢)に他ならない。
(以上引用)

ワン爺の一言。「補足説明」にある「「仏がさした」という言葉は面白いですね。
一大事因縁については、2017年1月22日のブログ記事(次のアドレス)に説明があります。
http://76263383.at.webry.info/201701/article_22.html
<諸仏の誓願>については次のアドレスを参照して下さい。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou045_sub.htm


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ひけらかさない

ワン爺さんの独り言(2017.1.28.)
「やさしさ」について考えていくと、「我が身にひき較べて」そして「おもいやり」につながっていきます。
今日は「ひけらかす心」があるとどうなるのか調べてみましょう。SRKWブッダの「ひけらかさない」の説明を読んで見ましょう。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou020_sub.htm

(以下引用)
【ひけらかさない】
人に見せびらかす心、ひけらかす心があるとき、他の人に寂しさや切なさや悲しみを心ならずも与えてしまうものです。

[譬え話: みーちゃんとまーちゃん]
みーちゃん) 見て見てェ。 新しいゲームソフト買ったんだ~! きゃびきゃび。
まーちゃん) え~っ。 いいなぁ。
みーちゃん) {まーちゃんのことなど眼中に無くゲームに夢中} えいっ。 やっ。 きゃぴきゃぴっ。

まーちゃんは決心する。 そして心の中でつぶやく。

 {よ~し。 あのゲーム、私も買うんだ~。}
 {今はお金がないけど、もうすぐお正月だからお年玉で買うんだ~}

さて、お正月になって首尾良くお年玉を手に入れた「まーちゃん」は、早速おもちゃ屋さんへ行く。

まーちゃん) え~~っと あのゲームソフトは~?? {と探す}
 
しかし、そのゲームソフト売り場には売り切れの文字が...

まーちゃん) そっか。 お正月だからみんなお年玉もらったんだ~。 だから売り切れか~。
まーちゃん) ん~~~。 仕方がない。 また来週見に来よう。

そして来週になって

まーちゃん) え~~っと あのゲームソフトは~?? {と探す}
 
しかし、そのゲームソフト売り場にはまだ売り切れの文字がそのままに...

まーちゃん) ん~~~。 仕方がない。 また来週見に来よう。

そして、さらに一週間が経って...

まーちゃん) え~~っと あのゲームソフトは~?? {と探す}

今回は、お目当てのものがある!!

まーちゃん) やった~!!! これでみーちゃんと遊べるぞ~!!!

まーちゃんは、ゲームソフトを購入してみーちゃんの家にさっそく遊びに行く。

まーちゃん) 見て見て。 あたしもあのゲームソフト買ったんだ~。 遊ぼう。 遊ぼう。
みーちゃん) え~~っ?! あたし、あのゲームはもう遊び飽きちゃったんだよね~。 だいぶ前に買ったし~。

まーちゃん) え~~っ。 そうなのォ~。

まーちゃんは心の中で思う。

 {え~~ん。 たくさん、待って待って待って やっと買ったのに~。}

みーちゃん) 見て見て。 あたしさ~。 別のゲームソフト新しく買ったんだよね~。
まーちゃん) え~~っ!

まーちゃんは心のなかで泣きしゃぐる。

 {え~~ん。 みーちゃんと一緒に遊ぼうと思って、たくさん、待って待って待ってやっと買ったのに~。}
 {新しいゲームソフト買いたいけど、もうお金ないし....}
 {え~~ん。 え~~ん。 じゃあ あたしどうすれば良かったの~}
 {また、たくさん待たないといけないの~。 え~~~ん。 え~~~ん。}

まーちゃん) じゃ..あ。 みーちゃん。 ま..た..ね..。 {と寂しく帰る}

誰が悪いのでしょう?:
みーちゃんが見せびらかしたのが悪いのでしょうか? 確かにそう見えるのですが..。

では まーちゃんをどう慰めれば良いのでしょうか?:

泣きしゃぐるまーちゃんを見かねて、お父さんが言う。
お父さん)  まーちゃん? みーちゃんが見せびらかしたからいけないのかな~?
まーちゃん) うん。 そう。 きっとそうよ。 え~~ん。
お父さん)  でもね。 まーちゃんがみーちゃんの立場だったらまーちゃんも見せびらかしたんじゃないか?
まーちゃん) だってェ。 もし、そうだったら、あたしだって見せびらかしたいもん。
お父さん)  でも、そうすると、今のまーちゃんみたいに誰かお友達が悲しい思いをするんだよ。
まーちゃん) えっ? {一瞬、泣きやんで} そう..だよね?!
お父さん)  だから。 見せびらかしちゃいけないんだよ。
まーちゃん) {しばらく考え込むが..} わかった。 あたし、新しいもの買ってもお友達に見せびらかすの止めることにする!
お父さん)  そうか。 わかったか。 そうするんだよ。
まーちゃん) うん。 わかった。 きっと、そうする。 あたし、きっと、そうする。

しばらくして...

お父さん)  まーちゃん? みーちゃんが悪かったと思う?
まーちゃん) ううん。 思わない。 あたしだってきっと見せびらかしただろうから。 でも、あたし あたしは見せびらかすの止めにする。
お父さん)  そうか。 ... そうか。 そうするんだよ。
まーちゃん) うん! きっとそうする。 あたし、きっとそうする!

[補足説明]
このような悲しみの本質とは、それが買えないことでは無くて、買えるはずなのに(売り切れで)買えないことであり、買えたときには時すでに遅しということであり、友達と仲良く遊びたいという本当の目的が遂げられないことにあります。 そして、一度このようなことがあると、次も同じような悲しい結果になるのではないかと恐れて素直な行動がとれなくなることにあるのです。

[補足説明(2)]
覚りの境地に至った人は、世の中にはこのような悲しみがあることを如実に知って、自らの境地をこれ見よがしにみせびらかしたり、ひけらかしたりすることはありません。

[補足説明(3)]
まーちゃんが、”あたし、きっとそうする!”と言ったときのその決心を「発心」と名づけます。
(以上引用)

ワン爺の一言。私たちは心ならずも、してしまうことが多くあります。また、そのことににも気づかず、さらに、そのことが本当に悲しい結果になることも知らないのです。
明日は「補足説明(3)にありました「発心」について学んでみようと思います。


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我が身にひき較べて

ワン爺さんの独り言(2017.1.27.)
今回も「やさしさ」について考えてみましょう。「真実のやさしさ」を「我が身にひき較べて」という観点から説明されたSRKWブッダの文章を読んで見ましょう。結論は自分がどのような人間になりたいのか問うているのです。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou020.htm

(以下引用)
【我が身にひき較べて】
真実のやさしさを知る人は、人々(衆生)の苦を正しく思いやることができます。 真実のやさしさを知る人は、いかなる人をも我が身にひき較べて思うゆえに、それを達成するのです。 真実のやさしさを知る人は、平等心を正しく知る人であるゆえに、それを達成するのです。

[老い]
誰であれ、老いを防ぎ止めることはできません。 人類が作為して得たあらゆる知見を残らず集めても、老いを防ぎ止めることはできないのです。 老いを恐れる人も、老いに無頓着の人も、誰であれ人はいずれ老いて醜くなってしまいます。 もし、老いが醜く感じられないのであれば、老いという言葉(名称:nama)が現れることもなく、老いることを苦だと思うことも無いでしょう。 しかしながら、老いは確かに人の目に醜く映るものであり、嫌悪を呼び起こすものなのです。

一方で、人は他の人が老衰したのを見ると、自分もいずれそのようになる身でありながらそのことを棚に上げ、面倒に思い、恥じ、嫌だななどと思うのです。 自分自身も、いずれは老いる身であり、老いを防ぎ逃れる方法はまったく無いにもかかわらず、その他ならぬ自分が他の老いた人を見て面倒に思い、恥じ、嫌だななどと思うのです。

真実のやさしさを求める人は、先ずこの事実から目をそらしてはならないでしょう。 人類が作為した、あらゆる知見、(哲学的)見解、知識、見識、その他すべてのものを総動員しても、老いた人を見て醜く感じ、嫌悪を呼び起こすという厳然たる事実が無くなることはないでしょう。 このことは、如何なる思い込みによっても無くなることはないでしょう。 このことは、いかなる努力によっても無くなることはないでしょう。 そしてまた、このことは無視することもできないでしょう。 なぜならば、人は誰でもいつかは老いるということを誤魔化しようもなく知っているからです。 老いが、いつかは自分の身に降りかかってくるのだという避けることの出来ない事実を、誤魔化しようもなく知っているからです。

ところで、覚りの境地に至った人はこのような偏った思いが無いゆえに、どのように老いた人を見ても面倒に思うことが無く、恥じることが無く、嫌だなと思うこともありません。 覚りの境地に至った人は、平等心を正しく知るゆえに、どのように老いた人を見ても面倒に思うことが無く、恥じることが無く、嫌だなと思うことも無いのです。 覚りの境地に至った人は、他の人をして正しく我が身にひき較べて思うがゆえに、どのように老いた人を見ても面倒に思うことが無く、恥じることが無く、嫌だなと思うことも無いのです。 そして、覚りの境地に至った人は、一切の努力無しにこれらの嫌悪感から解放されています。 我が身にひき較べて思うことは、究極においてこのような効能をもたらすのです。

[生まれ、病]
誰だって、好きこのんで辛い境遇に生まれたいと思う人はいないでしょう。 好きこのんで、病気になりたいと思う人はいないでしょう。 しかしながら、人はどうしようもなく生まれつき、どうしようもなく病気になります。 それゆえに、これらのこと、すなわち生まれ(身分)や病は、老いと同様にそれを正しく我が身にひき較べることが可能なものです。 したがって、これらは老いと同様に、覚りの境地に至ることによって正しく乗り越えることができるものなのです。

[補足説明]
釈尊の仏伝に、四門出遊という言い伝えがあります。 釈尊は、老人を見て何を考えたのでしょうか? 釈尊は、なぜ出家までして何かを極めようと思ったのでしょうか? 釈尊は、我が身にひき較べて、次のように考えたに違いありません。 

「老人は醜く見える。 しかし、誰でもいつかは老人になるのだ。 それは、自分も免れないことなのだ。」
「ところが、私は、老人を彼が老人であるということだけで嫌っている。」
「だとすれば、他の人が老人を嫌うのも無理からぬことだろう。」
「そうであるゆえに、私が老人になったとき、他の人は私が老人であるということだけで嫌うに違いない。」
「しかしながら、私は自分が老人になっても、老人であるということだけで人に嫌われたくは無いものだ。」
「しかし、それを防ぐことはできないであろう。」
「我が身にひき較べて考えれば、今の私と同じように、他の人も老いた私を見て醜いと感じるであろうから。」
「ならば、せめて私自身は老人を嫌わずに居られないものだろうか。」
「なぜなら、私は、老人を老人というだけで無条件に嫌う自分でありたくは無いからだ。」
「我が身にひき較べて、そのような自分ではありたく無いからだ。」
「老人を無条件に嫌うということは、結局は将来の自分自身を無条件に嫌うことと変わりないのだから。」
「我が身にひき較べて、私は、誰かが老人であるということだけで彼を無条件に嫌ったりしない人でありたい。」
「しかし、ただこのまま城で過ごしていても、そのような自分になることは恐らく無いであろう。」
「やさしい人になるためには、(例えば)出家して道を究めなければならないであろう。」
「なりたい自分になるためには、(例えば)出家して道を究めなければならないであろう。」
「なりたい自分になるために、私は(いつかは)出家しなければならないであろう。」
「人のためではなく、自分自身のために、私は(いつかは)出家しなければならないであろう。」

四門出遊の言い伝えで大事なことは、それによって釈尊が出家するに至ったという歴史的事実ではなく、釈尊がこのときに正しく我が身にひき較べることを得て、おぼろげながらも自分がどのような人でありたいかという究極の姿を垣間見たであろうということなのです。 すなわち、すぐれた人になろうとするのではなく、(そのような)やさしい人になろうと決心したであろうことが大事なことなのです。
(以上引用)

ワン爺から一言。「我が身にひき較べて」という言葉を聞いて、すぐ思い出されるのはダンマパダ129番と130番の偈です。
〇すべての者は暴力におびえ、すべての者は死を恐れる。
己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。(129)
〇すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。
己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。(130)
この二つの偈の説明は、次のアドレスのブログ記事で述べました。興味ある方は御読みください。
http://76263383.at.webry.info/201002/article_8.html


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「真実のやさしさの起源(ルーツ)」

ワン爺さんの独り言(2017.1.26.)
昨日は信じるべきものは「人は実はやさしい」ということを学びました。ではその「やさしさの起源」すなわち「やさしさはどこから来るのか?」を学びましょう。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou019.htm

(以下引用)
【やさしさの起源】
やさしさはどこから来るのでしょうか? 人々は、「それは、きっと生まれてからこれまでに得た経験や人として持って生まれた人情に由来するのであろう」と漠然と考えているかも知れません。 しかしながら、真実のやさしさは、人が個人的な経験によって獲得したものでは無いのであると知られます。 また、真実のやさしさは、人類が長い年月を重ねて熟成させてきた文化、すなわち人情(感激)や人情のエッセンス(感動)から出てくるものでも無いのであると知られるのです。 真実のやさしさの起源(ルーツ)は、それらよりもさらに深いこころの場所と言うべきところにあって、各自の因縁によって突如として表層に突き上げてくるものであるからです。

人々は、やさしさが顕わになるときには、それと同時に胸を震わせる深い感動を生起するものだと思い込んでいるかも知れません。 しかしながら、真実のやさしさはそのような動揺した意識の中で現れるのでは無く、まったく揺らぐことのない研ぎ澄まされた意識の中で顕わになるのです。 実際に、覚りに向かいつつある観の終着点において人がその<特殊な感動>にひたっている間、心は完全に冷静であり、平静であり、まったく揺らぎがないことを知るのです。

真実のやさしさがもたらすこの<特殊な感動>は、それが「生まれて初めて味わった感動である」ということが本人に知見されるため、それがそうなのだと主観的に判別できるのです。

なお、人類が作為した世間的な「感激」や「感動」には、次のような共通点があると言ってよいでしょう。

① 繰り返し味わうと、飽きがきて感動(感激)しなくなる
② どれもこれも突き詰めれば似たような「感激」であり「感動」であることに気づく

一方、真実のやさしさがもたらす<特殊な感動>には、①、②のようなことが無いのです。 それによっても、それが真実のやさしさによってもたらされた特殊な感動であることを知ることができるでしょう。

[補足説明]
それが生まれて初めて味わった感動であるということを指して、金剛般若経では『応無所住而生其心』、すなわち「住する所無くして、しかも其の心を生ずべし」と述べています。 ここで、住する所が無いとは、いかなるものにも寄りかかることが無くしてという意味であり、平たく言えば生まれる前から内在している何かであるというべき「それ」という意味です。
(以上引用)


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人が信じるべきことは「人は実はやさしい」ということです。

ワン爺さんの独り言(2017.1.25.)
少し話題が変わりますが、私が最近一番感動した文章は、今日引用する「信」です。これはすごいことが書いてあります。このように書かれた文章は古今東西一度もなかったのではないでしょうか。私は「信」をこのような考えたことは一度もなかったのです。私はこの文章は一人でも多くの人に読んでもらいたいと思っています。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou016.htm

(以下引用)
【信】
人が一切の疑惑を超えてこころに信じるべきことは、次のことであると言ってよいでしょう。

○人は実はやさしい

たといある人がどんなに冷たく、意地悪に見えたとしても、かれは実はやさしいのだということを信じるべきであると真実を知る人は語るのです。 なんとなれば、人(=衆生)は誰しも、自分ならざるもの(名称と形態(nama-rupa))に突き動かされている存在であり、本来の自分(本性)を出せないばかりか、善かれと思って愚かな選択をしてしまうのであるからです。 そして、誰であろうとも、同じ状況におかれたならば、かれと同じ行動を(善かれと思って)選択してしまうに違いないと言えるのです。 したがって、ある人がどんなに冷たく、意地悪に見えたとしても、決してその人の本質がそのようであるのでは無く、もしその人の立場に立たされたならば、自分も(善かれと思って)その人と同じ行動を選択してしまうであろうということに思いを馳せなければならないのです。

すなわち、

 □ この世には誰一人として冷たい人などいない
 □ この世には誰一人として意地悪な人などいない

のである。 すべての人が実はそのようであると根底において人を信じることが、<信>の本質であると言ってよいでしょう。 そして、それと同時に、自分自身も真実のやさしさを理解できる存在であるということを、自ら信じることが<信>の(もう一つの)本質であると言ってよいのです。 つまり、人を信じることと自らを信じることとは同時に確立すべきことであり、どちらか一方だけ立てるという訳にはいかないのです。 なぜならば、外的な信と内的な信は、実は本来一つの信の二つの側面であるのだと知られるからです。 そして、まさしくそのように<信>を理解できたときが真実の信を掴んだ瞬間であり、かれは同時に平等心の何たるかを掴んだのであると認めてよいでしょう。

世間においてどんなに楽しそうに見える人でも、かれのこころの奥深くには悲哀があり、苦が同時進行しているのだと知らねばなりません。 ある人が、いかにも傲慢で、いかにも自分勝手で、人の気も知らずに本人だけが楽しんでいるように見えたとしても、まさしくそのように見える人であったとしても、かれ自身こころの根底では苦しんでいるのだと知らなければならないのです。 たとい、本人に悲しみや苦しみの自覚が無くとも、やはりかれはこころの根底では苦しんでいるのだと知らねばなりません。 かれは根元的無知(無明)ゆえに、その末路において必ず苦に追い込まれてしまうことになるからです。 つまり、かれは、他の人から羨ましがられるような人ではなく、他の人がむしろ思いやってあげるべき人なのだと言えるのです。 いかにも傲慢に見える数多の振る舞いもかれの本意では無く、かれは自分ならざる衝動に突き動かされているのだと見なくてはなりません。 そして、こころある人は、そのような人をこそ他の誰よりもこころに信じて、真実に思いやって、慈しみ、味方になってあげるべきであると言えるのです。

たとえ、ある人が自分のことを嫌っているとしか思えなくても、実際にはその人はあなたのことを狙い打ちして嫌っているわけではありません。 その証拠に、かれはあなただけでなく、特定の条件が整ってさえいれば誰をも嫌う人であるからです。 逆に、そのような特定の条件が整うことさえなければ、かれは誰とでも仲良く付き合うことでしょう。 もし、かれがあなたと同じ部署でなかったならば...、年齢がもっと離れていれば...、同性でなかったならば...、あるいは異性でなかったならば...、同じ目標を掲げていなかったならば...、あなたがかれに嫌われることはおそらく無いでしょう。 同時に、もしそうであれば、あなたもその人を嫌うことは無いでしょう。 それとは逆に、今現在はとても親しくしている人であっても、もしその人があなたと同じ部署であったならば...、年齢が近かったならば...、同性であったならば...、あるいは異性であったならば...、同じ目標を掲げていたとしたら...、あなたがかれに嫌われないとも限らないのです。 あるいは、あなたがかれを嫌わないとも限らないのです。 つまり、あなたが現実に嫌っているかれが座っているその(心理上の)ポジションに、別の誰かが座るならば、今度はその別の人をあなたは嫌うに違いありません。 このように、好き嫌いなどの感情は、自分ならざる事由で生起している形式論理的な世界に過ぎず、特定の誰かとあなたというユニークな人間関係において恒常的に顕れるものでは無いと知られるのです。 それゆえに、このことわりを理解する人は、他の誰かと接するときには予めその人を嫌うべきでは無いし、好きになれないとしても、根底においてはその人のまことを信じるべきであると言えるのです。

人がこのあり得べき<信>を自ら確立したとき、上記のことがまさしくそうなのだと知ることになるでしょう。 そしてそのとき、人は好き嫌いなどの感情を超えた、人間関係における本当の安心を知ることになるでしょう。
(以上引用)

ワン爺から一言。「信」と言えば信仰で、神を信じるとか、仏を信じるというように考えるのが普通ですが、このように「人は実はやさしい」ということを信じるは聞いたことがありませんでした。この文章は結構難しいのです。よく読むと分からないところがたくさんあると思います。特に始めのほうに書かれている「人(=衆生)は誰しも、自分ならざるもの(名称と形態(nama-rupa))に突き動かされている存在であり」などは理解できない方も多いと思います。この説明は1月14日のブログ記事を是非お読みなって頂きたいと思います。
http://76263383.at.webry.info/201701/article_14.html


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「大事な話」――極些細なことにこそ本当に大事なことが含まれている

ワン爺さんの独り言(2017.1.24.)
「大事(一大事)」に関連して、もう一つSRKWブッダの「大事な話」を紹介します。「大事な話とは、大事な話のことですが、大事なことは誰しもが認める大変な事件や、誰しもが驚く大袈裟な出来事に含まれているのではなく、極些細なことにこそ本当に大事なことが含まれているということです。」
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou015_sub.htm

(以下引用)
【大事な話】
大事な話とは、大事な話のことですが、大事なことは誰しもが認める大変な事件や、誰しもが驚く大袈裟な出来事に含まれているのではなく、極些細なことにこそ本当に大事なことが含まれているということです。

[喩え話]
おもちゃ屋さんで見かけることがある風景です。

子供さん) あっ見つけたっ。 このおもちゃ買ってぇ!
親御さん) {チラリと見て} だめだめ。
子供さん) どうしてぇ? 
親御さん) この前、似たのを買ったでしょ。 それにこれ高いじゃないの(千円)
子供さん) でも、あれとは違うんだよ。 だから、欲しい。 欲しいっ。
親御さん) だ~めだめ。
子供さん) いやだ~。 みんなこれ持っているもん。 僕だけ持ってないの..。
親御さん) だめだめ。 さぁ。 行きますよ!
子供さん) いやだ~。 どうして~。
親御さん) さぁ。 さっさと行きますよ!
子供さん) え~~ん。 {その場で、泣き崩れる}
親御さん) {つかつかと立ち去る そして遠くから手招きして} 早くっ! 

[大事]
第一の大事: 子供が、心から求める本当に欲しいものが手に入らない事実。

第二の大事: 他の子供が親におもちゃを買ってもらい、満面の笑みで横を過ぎ去る姿を目にすること。 それを見て、辛い思いをすること。 自分の親が、わずかなお金で手に入るおもちゃでさえ買ってくれる気が本当は無かったのだということを子供が知ってしまうこと。 当然の期待が裏切られ、親への信頼と信頼にもとづく安心を喪失してしまうこと。

本当の大事: 辛い経験があるために、次の機会が来ても子供がもうおもちゃ屋さんに行こうとしなくなること。 子供が本当に大好きなものを、子供自身が敢えて望まなくなってしまうこと。 子供であれば誰でも本来的に楽しい場所である筈なのに、自らの意思でおもちゃ屋さんへ行こうとしなくなること。 親がどんなに誘っても、行こうとしなくなること。 親を信じられなくなってしまうこと。 そして、ついには悲しい顔をして「おもちゃなんかいらない」 「おもちゃ屋なんかがあるからいけないんだ」 「僕は一人で遊ぶからいい」 「もう、誰とも遊ばないからいい」などと言うようになること。 このようにして、子供が、おもちゃよりも大切な友達との関わりを自らの意思で無くしてしまうこと。 それが本当の大事です。 孤独な子供など、つくってはならないのです。

【人類の大事】
人類が、ブッダが説く理法を信じることが出来なくなってしまうこと。 人類が、覚りの境地が確かに存在するということを信じることが出来なくなってしまうこと。 人類が、自らが覚りの境地に至った人(ブッダ)になれるのだということを信じられなくなってしまうこと。 人類が、本当は手に入れたい筈の、しかも本来手に入れることが出来る筈の覚りの境地(安穏の境地)を自ら生じた疑惑ゆえに望まなくなってしまったとき、それが人類の大事です。
(以上引用)

ワン爺より一言。「極些細なこと」が「人類の大事」につながっているとなると「極些細なこと」とは言えなくなりますね。


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「法華経では」一大事因縁はどのように語られているのか?

ワン爺さんの独り言(2017.1.23.)
「一大事因縁」の理解を深めるために、法華経では一大事因縁がどのように語られているのか?SRKWブッダのHP「覚りの境地」から引用します。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou002_sub.htm

(以下引用)
【法華経では】
法華経(妙法蓮華経)では、方便品第二において一大事因縁について次のように述べています。
*** 和訳経典から引用
{前を略}
 仏は舎利弗に告げられた。この様な微妙な教えは、諸仏・如来がこれを説くこと、優曇華(ウドゥンバラ)の花が三千年に一度花ひらく様なものである。舎利弗よ、仏の説く処を信ぜよ。仏の言葉に偽りはないからである。舎利弗よ、諸々の仏の自由自在な説法の意味は、理解する事が難しい。それは何故かというと、 私は無数の方便と、様々な因縁と喩えと言葉とをもって教えを説くのであるが、この教えは、思量し分別したのでは、理解する事は出来ないのであって、ただ仏だけがよくこれを知っているにすぎないからである。それはまた何故かというと、諸々の仏陀・世尊は、ただ一大事因縁によってのみ出現されるからである。それでは舎利弗よ、諸々の仏陀・世尊はただ一大事因縁によってのみ世に出現されるというが、それはどういうことなのか。諸々の仏陀・世尊は、生ける者達に仏の知見を開かせ、清浄なものとする為にこの世に出現されるのである。生ける者達に仏の知見を示そうとしてこの世に出現されるのである。生ける者達に仏の知見を悟らせようとしてこの世に出現されるのである。生ける者達を仏の知見の道に入らせようとしてこの世に出現されるので ある。舎利弗よ、諸仏がただ一大事因縁によってのみこの世に出現されるという事は、こういうことなのである。

 仏はさらに舎利弗に言われた。諸々の仏陀、如来は、ただ菩薩だけを教化される。すべての行為は常にただ一つのことのためである。ただ仏の知見を生ける者達に示し悟らせるためである。
舎利弗よ、如来はただ、一なる仏の立場(一仏乗)だけで、生ける者達に教えを説かれる。第二の立場、第三の立場などはないのだ。舎利弗よ、一切十方の諸仏の 教えもまたこのようである。舎利弗よ、過去の諸仏も、無量無数の方便と種々の因縁と喩えと言葉によって、生ける者達の為に教えを説かれている。これらの教えも皆、唯一の仏の立場によって説かれたのである。この諸々の生ける者達は、諸々の仏から教えを聞いて、結局、皆、一切種智を得た。舎利弗よ、未来にこの 世に出現されるであろう諸仏もまた、無量無数の方便と種々の因縁と喩えと言葉によって、生ける者達の為に教えを説かれるであろう。これらの教えも皆、唯一 の仏の立場によって説かれるであろう。この諸々の生ける者達も、諸々の仏から教えを聞いて、結局、皆、一切種智を得るであろう。舎利弗よ、この諸々の仏は、ただ菩薩だけを教化される。仏の知見を生ける者達に示し、仏の知見によって生ける者達を悟らせようとし、生ける者達を仏の知見の道に入れようと思うからである。
{後略}
*** 引用おわり

[補足説明]
上記に言う諸仏世尊とは、この世に現れ出た覚れる人(如来)のことではなく、善知識の言葉として世に現れ出た「法の句」を指しています。すなわち、善知識が「法の句」を発した瞬間は善知識は無我(諸仏に憑かれた状態)であり、一瞬のブッダ(化身仏)となっているのです。


ワン爺からの一言。今回の「捕捉説明」に書かれていることは、読み過ごすことがあるかもしれませんが、重要なことです。諸仏世尊=仏陀・世尊はゴータマ・ブッダや過去七仏或は過去二十八仏に限定して考えるべきではなく、法の句を発する化身仏と考えることが指摘されているのです。つまり解脱をめざす修行者には因縁によって、諸仏世尊(善智識)が現れることを教えているのです。


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「一大事因縁」はなぜそんなに重要なのか?

ワン爺さんの独り言(2017.1.22.)
「一大事因縁」はSRKWブッダの「理法(精選)」の一番に書かれている項目だったのですが、私はあえてこの項目をとばした。それが気になっていたのです。昨日「大事(一大事)」について学びましたので、仏教の核心である「一大事因縁」について学ぶ機会が出来ました。ではそれを引用します。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou002.htm

(以下引用)
【一大事因縁】
人をまさしく覚りの境地に至らしめる因縁を、〈一大事因縁〉と名づける。 人は、一大事因縁によってのみ覚りの境地に至るからである。 すなわち、人はこの因縁によって智慧を得て解脱し、ブッダとなるのである。

一大事因縁は、具体的には次のように世に出現する。

● この因縁のある人が、一大事が世に現出する様を如実に見るとき一大事因縁は現れる。

● この因縁のある人が、完全に後味のよい行為についてこころに理解し尽くしていて、ことに臨んで自らそのような行為を為そうと決心するとき一大事因縁は現れる。

● この因縁のある人が、自分を含めていかなる誰をも悲しませまいとするとき一大事因縁は現れる。

ところで、一大事因縁は如何なる手段をこうじてもそれを人為的に引き起こすことはできないものである。 一大事因縁はまさに因縁にもとづいて起こることであるゆえに、それを故意に呼び起こすことなど決してできないからである。 それだけでなく、一大事因縁はいつ、誰に、どのような形で起こるのかさえも予測できないものである。

やすらぎを求めるこころある人は、自らの縁によって一大事に臨んで、まさしく一大事因縁に立ち会う人であれ。


[補足説明]
一大事因縁という表現は、法華経(方便品第二)に特有なものであるが、同じ意味のことが言葉(語彙)を変えて他のいろいろな根本経典、大乗経典、そしてそれらの漢訳経典および和訳経典にも記されている。 例えば、釈尊の原始経典では一大事因縁について次のように記している。

● ひとびとは因縁があって善い領域(天)におもむくのである。 ひとびとは因縁があって悪い領域(地獄など)におもむくのである。 ひとびとは因縁があって完き安らぎ(ニルヴァーナ)に入るのである。 このように、これらのことは因縁にもとづいているのである。(ウダーナヴァルガ)

[補足説明(2)]
因縁は、宿命や運命とは違うものである。 これらを混同してはならない。 因縁は、人のこころの本当のあり方によって自分自身に確かに顕れ出るものであり、すべて自らの根本のところに依拠した現象に他ならない。 一方、宿命や運命は自分ならざるものに依拠した現象である。
(以上引用)

ワン爺より一言。「補足説明」にあるように、一大事因縁という表現は、法華経(方便品第二)に特有なものであるので、この表現のある法華経(方便品第二)の該当部分を明日掲載しようと思います。

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徳目を実践する時「大事(一大事)」

ワン爺さんの独り言(2017.1.21.)
徳目を実践しようと思っても、いつも実践できるわけではないのです。その時でなければ実践できません。その時を「大事」といわれるのです。そして、「その時」の一番大事な時が「一大事」です。一大事とは解脱の時です。
では「大事(一大事)」に学びましょう。例によってSRKWブッダのHPから引用します。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou015.htm

(以下引用)
【大事(一大事)】
<大事(一大事)>とは、そのことによってすべてが集約され、すべてが明らかになる局面のことです。

「何は無くてもこれだけは...」というその「それ」が大事なことであると知られます。 そして、大事なことが何であるかをはっきりと自覚した人は、僅かなもので多くのこと知り、僅かなもので多くのことを得て、僅かなもので種々さまざまな局面に正しく対応できるようになるのです。

ところで、大事な局面とはいざというときのことです。 すなわち、いざというときに自分の何たるかが分かり、いざというときに人の何たるかが分かるからです。 たとい普段は互いに言い争い、反目し、嫌っていたとしても、ことに臨んで、

 ○ いざというときに、乏しき中から少しでも多くを与えようとする人こそが富める人であると知られる

 ○ いざというときに、謂われのない非難を甘んじて受けて耐え難きを堪え忍ぶ人こそが賢い人であると知られる

 ○ いざというときに、人知れず事を為してしかも自分を誇らない人こそが誠の人であると知られる

 ○ いざというときに、思いつきでなく熟慮し、言いたいことを軽々しく言わずに言葉少なく真実を語り、敢えて出しゃばらない人こそが心強い人であると知られる

 ● いざというときにやさしい人こそが、<真実にやさしい人>であると知られる

のであるからです。

このように、いざというときにすべてが決まり、いざというときにすべてが明らかになるのです。

さて、およそひととして生まれた人が、一生の中で為すべき最も大事なことを<一大事>と名づけます。 なぜならば、もし人が<一大事>を得るならば一切が明らかとなり、一切の苦悩から解放されると知られるからです。 もし人生に生きる目的というべきそれを(言語表現として)認めるならば、人は自分の一生の中で遭遇するであろう多くの大事の中にあって、唯この一つのことを知るために生きているのだといっても過言ではないでしょう。 ところで、<一大事>を発見するのは自分自身ですが、それを「それ」だと教えてくれるのは善知識(=善き言葉,=善き行為)と名づけられるその人です。

それゆえに、明知の人は、よく気をつけて世間を遍歴する人であれかし。

[追記]
他の人が、あなたのことを大事に思ってくれているかどうかは最後まで分からないことであり、また実のところ、それをどうこうできるものでもないでしょう。 しかしながら、あなたが他の人のことを大事に思うことは、それはつねにできることであると知られ、少なくともそのことについて突き詰めることは誰しもが出来ることであると言ってよいでしょう。 決してけしかけるわけではありませんが、ここに人があって、もしこのことを知ってそれが本当に大事なことだと心から思うならば、かれは実に為すべきことを自ら見いだしたのであり、そのひととしての思いのあり得べき帰趨たる(ひとつの)<一大事>について深く理解したのであると言っても過言ではないでしょう。
(以上引用)

ワン爺の説明は不要かもしれませんが、前回述べた「四つの徳目と四つの性格タイプ」から言えば、上記の「いざというとき」の四つの例は上から、感覚型の人にはできにくいことであり、次は思考型の人にはできにくいことであり、三番目は感情型の人にはできにくいことであり、四番目は直感型の人にはできにくいことであると思います。
そして、最後の黒丸の例は、それが出来る方は覚った方なのでしょう。


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四つの徳目と四つの性格タイプ

ワン爺さんの独り言(2017.1.20.)
昨日掲載した「徳目」の[補足説明]には次のように述べられています。
「ここに徳目を4つ挙げるのは、人々(衆生)の性格が大きく4つのタイプ(類型)に分類されるからである。 すなわち、「思考型」「感情型」「感覚型」「直観型」の4つの性格タイプである。このことについて学問的な興味がある人は、ユング心理学の「タイプ論」を参照するとよいであろう。」

そこで、ユング心理学の「タイプ論」を参考に、四つの性格タイプと四つの徳目がどのように対応するのか調べてみよう思います。ただし、性格はいろいろな要因で形成されており単純ではありません。いくつかの類型に分けて、それに当てはめようとする試みは的外れになる場合が多々あります。ユング心理学のタイプ論においても、上記の4つの心理機能による分類の他に、一般的態度(内向、外向)という分類を組み合わせて、性格を8タイプに分類しています。さらに詳しく言えば、4つの心理機能の中間型を考えていますので、単純ではありません。
とはいえ、典型的な性格分類と徳目との関係を理解しておくことは修行に役に立つと思います。

以上を前提に、「思考型」「感情型」「感覚型」「直観型」の4つの性格タイプはどのようなものは調べてみましょう。

SRKWブッダは次のように述べています。「人には、大きく四つのタイプがあると言われる。 直観、感覚、感情、思考である。 たとえば、燕と聞いて、新幹線などを思い浮かべる人は直観である。 黒白模様でふわふわした肌触りだとか言う人は感覚。 好きな鳥だとか嫌いだとか言う人は感情。 スズメ目、ツバメ科の鳥などと分類する人は思考。」

また、HP「ユング心理学の世界へようこそ」の「ユングのタイプ論」には次のように書いてありました。
http://www.j-phyco.com/category1/entry43.html
(以下引用)
◆思考
物事を論理的に捉える心の機能です。
いますよね、何でもかんでもとにかく“理屈”で考えようとする人!
特に、男性に多いような気がしますが…?
このタイプの人と口論になると、正直、
ちょっと面倒くさいですよね…(苦笑)
◆感情
「好き・嫌い」「快・不快」で物事を判断するのが、「感情」という機能。
食べ物、人、仕事、服…
気づけば何でもこの基準で物事を判断している人は、
感情型のタイプです。
ちなみに、この「感情」の機能は「思考」と正反対の機能。
「感情」が優位に機能する人は、「思考」のコントロールが苦手ですし、
逆に、「思考」が優位な人は感情のコントロールが苦手なようです。
◆感覚
物ごとを「見たまま」「そのまま」「あるがままに」感じ取る機能です。
そこに「好き」だとか「嫌い」だとかいったような、
“感情”をはさむことはあまりありません。
とにかく、「それがどうなっているのか」を緻密に把握する。
化学の実験には欠かせない要素ですね。
◆直観
いわゆる「思いつき」や「ひらめき」といったもの。
ユングのタイプ論によれば、「感覚」と正反対の機能と考えられます。
「直観」が優位に機能する人は、
「感覚」を頼りにして緻密に進める仕事は向いていませんし、
逆に「感覚」が優位な人は
物ごとの「本質」を捉える力が欠けていると言えるでしょう。
(以上引用)

次に昨日掲載した「四つの徳目」を再掲しますので、それぞれどの性格の人が目標にすべき徳目であるか考えて下さい。最後にSRKWブッダにお伺いした正解を記載します。

誠実: 自らは世俗的に生きていて、世間の生活においては何事においても情緒が常に安定している人。好意をもって人と接する人であり、見かけの優しさに長けている人であるが、他の人が心の奥に秘めている悲しみを理解することが不得手で我が身可愛さに他の人に憎悪を抱きやすい。このような人に欠落している徳目が誠実である。

堪え忍び: 自らは友好的に生きていて、世間の仕組みや成り立ちに詳しく目先が利いて、予め知り得た事柄に対しては何事においても冷静に対応できる人。余裕をもって人と接する人であり、見かけの頼もしさに長けている人であるが、他の人が心の奥に秘めている寂しさを理解することが不得手で自らの考えに愛着を抱きやすい。 このような人に欠落している徳目が堪え忍びである。

施与: 自らは享楽的に生きていて、世間の出来事に敏感で事件とその顛末に詳しく弁が冴えて、深く理解した事柄に対しては何事においても平静に対応できる人。孤高に生きて疑惑を抱えつつ人と接する人であり、見かけの面白さに長けている人であるが、他の人が心の奥に秘めている空しさを理解することが不得手で他人を見下しやすい。このような人に欠落している徳目が施与である。

自制: 自らは運命的に生きていて、世間の流れに敏感で将来の展望にすぐれていて、自分の気持ちと合致している限りにおいては何事においても嬉々として対応できる人。楽しく人と接する人であり、見かけの美しさに長けている人であるが、他の人が心の奥に秘めている怯えを理解するのが不得手で 自らの心を高ぶらせやすい。 このような人に欠落している徳目が自制である。

正解:誠実は感情型の人の目標とすべき徳目。堪え忍びは思考型の人の目標とすべき徳目。施与は感覚型の人の目標とすべき徳目。自制は直感型の目標とすべき徳目。


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称讃さるべき4つの徳目

ワン爺さんの独り言(2017.1.19.)
昨日学んだ人々(衆生=私たち)の愚かな実状を改善し、望むならば解脱するために必要な徳目があります。それらは「誠実」「堪え忍び」「施与」「自制」であります。それらをSRKWブッダの「徳目」についての説明で学んでみましょう。http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou014.htm


以下引用です。
【徳目】
およそ世の中には、称讃さるべき4つの徳目がある。その4つとは、「誠実」「堪え忍び」「施与」「自制」である。

誠実: 自らは世俗的に生きていて、世間の生活においては何事においても情緒が常に安定している人。好意をもって人と接する人であり、見かけの優しさに長けている人であるが、他の人が心の奥に秘めている悲しみを理解することが不得手で我が身可愛さに他の人に憎悪を抱きやすい。このような人に欠落している徳目が誠実である。

堪え忍び: 自らは友好的に生きていて、世間の仕組みや成り立ちに詳しく目先が利いて、予め知り得た事柄に対しては何事においても冷静に対応できる人。余裕をもって人と接する人であり、見かけの頼もしさに長けている人であるが、他の人が心の奥に秘めている寂しさを理解することが不得手で自らの考えに愛着を抱きやすい。 このような人に欠落している徳目が堪え忍びである。

施与: 自らは享楽的に生きていて、世間の出来事に敏感で事件とその顛末に詳しく弁が冴えて、深く理解した事柄に対しては何事においても平静に対応できる人。孤高に生きて疑惑を抱えつつ人と接する人であり、見かけの面白さに長けている人であるが、他の人が心の奥に秘めている空しさを理解することが不得手で他人を見下しやすい。このような人に欠落している徳目が施与である。

自制: 自らは運命的に生きていて、世間の流れに敏感で将来の展望にすぐれていて、自分の気持ちと合致している限りにおいては何事においても嬉々として対応できる人。楽しく人と接する人であり、見かけの美しさに長けている人であるが、他の人が心の奥に秘めている怯えを理解するのが不得手で 自らの心を高ぶらせやすい。 このような人に欠落している徳目が自制である。

総じて、徳とは人が心の奥深くにもっているところの、覚りの境地に向かう素直な心の発露を喚起する基本的心理要素のことである。それは、通常は抑圧されていて意識化されることが無いものであるが、縁に応じて不意に意識化されてしまう。すなわち、自らの意に反して起こる不快感や嫌悪感などがそれである。つまり、未だ覚りの境地に至っていない人々(=衆生)においては、徳目はいわば顛倒した心理機構として作用している。それゆえに、人々(衆生)はそうとは知らずに徳をおろそかにしてしまう愚を犯すことになる。

徳行を為すことは難しい。しかし、徳行に篤いことは人に確かな安楽をもたらす利益(りやく)があるのは確かである。

[補足説明]
ここに徳目を4つ挙げるのは、人々(衆生)の性格が大きく4つのタイプ(類型)に分類されるからである。 すなわち、「思考型」「感情型」「感覚型」「直観型」の4つの性格タイプである。このことについて学問的な興味がある人は、ユング心理学の「タイプ論」を参照するとよいであろう。

[補足説明(2)]
ある人にとって、4つのうちのどの徳目が欠落しているかについて直接に、あるいは間接にずばり指摘してくれる人がいる。かれこそが<善知識>に他ならない。もし人が、善知識が発するその言葉を聞いて、自分が人生を密度としては半分も生きていないということに気づくならば、かれ(彼女)は今何を為すべき かについて思い至るに違いない。

以上引用です。
「補足説明」に述べられている「人々(衆生)の性格が大きく4つのタイプ(類型)」については、明日ユング心理学の「タイプ論」を参考にして、解説してみようと思います。

「補足説明(2)」で指摘されていることは、徳目を実践する一番大切な意義なのです。解脱をめざす修行者にとって忘れてはならないことなのです。


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覚ったブッダには「人々(衆生)」がどのように見えているのか?

ワン爺さんの独り言(2017.1.18.)
昨日の法華経の引用は、和訳してあるとはいえ、少し難しかったですね。それは私たち(衆生)のありさまを自覚できていないからだと思います。そこで今回は、私たち(衆生)は覚ったブッダにはどのように見えているのかを学んでみましょう。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou012.htm

以下引用です。
【人々(衆生)】
この世は、すべてが顛倒した(=さかさまになった)世界であるのだと(知る人には)知られます。 未だ覚りの境地に至っていない人にとってにわかには信じられないことでしょうが、この世は本当にすべてが顛倒した世界であるのです。 そして、この世はすべてが顛倒した世界であるにもかかわらず、人々(=衆生)にとってはそれをその通りには認識できないゆえに、善かれと思って(実は)誤った選択肢を自ら選び取ってしまうのであると言ってよいでしょう。 すなわち、人々(衆生)は好ましいものだと思って厭うべきものを選び取り、愛すべきものだと思って憎らしいものを選び取り、安楽に至る道だと思って自ら苦の道を選択しているのだと(知る人には)知られるからです。 人々は、出世間(後悔することのない究極の立場)から見ればまったく愚かな選択をしている訳ですが、人々(衆生)それぞれがそれぞれの局面においてそれをそのように選択したときには、それがまさしく最良の選択肢であると実感せざるを得なかったのであると言って差し支えありません。 それは、例えば錯覚のように錯誤することが(生来的に)避けられないものであり、したがって人々が(善かれと思って)誤った選択をしてしまうことは本当に無理からぬことだと言ってよいのです。

[衆生の姿]
衆生は、さしたる根拠も無いのに誰かれとなく毛嫌いします。 それだけにとどまらず、衆生は自分のことを本当に思いやってやさしくしてくれる人に対してさえ誤った嫌悪や恨みを抱いてしまう存在なのだと(知る人には)知られるのです。 その様は、例えば知らないうちに目に見えないような細かい棘が無数に刺さった人が、その痛みを和らげようと思ってやさしくさすってくれている人をその痛みゆえに誤解してなじるようなものです。 あるいは、背中に大火傷を負った人が、傷口に軟膏をやさしく塗って手当してくれている人を激痛ゆえに逆恨みするようなものなのです。 衆生は、相手の気持ちを正しく推し量ることができないだけでなく、自分自身の本当の姿を知ることができないゆえに、このような誤った態度をそうとは知らずにとってしまうのだと言ってよいでしょう。

また、衆生は自らに生じた苦を、苦を以て捨てようとさえします。 じっとしていればやがて治まるものを、闇雲に動いて苦を大きく深いものにしてしまいます。 あるいは、苦の原因を抜本的に取り除くことができずに一時的に気をそらすだけの行為でお茶を濁してしまい、知らぬ間に苦を増大させてしまうこともあるでしょう。 その悲惨な様子をそばで見ていて、思いやりをもってそのまちがいを指摘してくれる人がいたとしても、「そんなことは信じられない」とか、「そんな馬鹿な」とか、「それは不合理だ」とか、「他のどうでもよいことについてあるとかないとか」言って、苦から救ってくれる(可能性のある)人を自ら遠避けてしまいます。 悲惨なことであるけれども、衆生にはそのようにしか思えないゆえのことであると知られるのです。 その様は、例えば錯覚に陥っている人には直線が曲がって見え、あるいは同じ長さが違う長さに見え、または同じ色が違う色に見えるようなものであり、それと同様に、衆生の認識は無条件に顕れる錯覚に翻弄された状態にあって、自らの間違いを理性的に回避することは出来ないのだと言ってよいでしょう。

そしてまた、衆生に対して「まるで好むようになぜ苦を選択したのであるか?」と事後に問い正したとしても、その理由についてかれ自身が心ならずも虚言をはいてしまうことでしょう。 衆生は、(それを善かれと思って)苦を選択した自らの根底の衝動の真の理由を知らないからです。 それはたとえば、催眠誘導法によって後催眠効果の暗示を受けた被験者が、後催眠効果によって実行した自らの行動に勝手な理由を後付けする様子に似ています。 被験者は、自ら為した不合理な行動が催眠誘導の後催眠効果によって生じたものであるとは夢にも思わないからです。 衆生が、心ならずも起こす苦に向かって走る衝動の本質も、実はそのようなものであると言ってよいでしょう。 すなわち、衆生は、(実は自分ならざるものであると知られる)名称と形態(nama-rupa)に突き動かされた存在であり、その結果、善かれと思って苦に至る道を選択してしまうからです。 いずれの場合でも、勿論本人は大まじめであり、その真摯な態度は尊敬に値するものと言ってよいでしょうが、心ならずも苦に至る道を選択してしまうという結果自体はまったく愚かであるとしか言いようがありません。 そして、衆生はそれらのさまざまな結果として自ら後悔する事態に追い込まれてしまいます。 これが、衆生の真実の姿であり、苦の発生メカニズムに他なりません。 そして、先に述べたように、このことはこの世がすべてにおいて顛倒した世界であることから生じた根元的なことであるゆえに、衆生がそれを抜け出すことは容易ではありません。

こころある人は、これが人々(衆生)のありさまであるのだとこころに理解すべきです。

以上引用です。


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智慧は「諸仏の誓願」に由来する

ワン爺さんの独り言(2017.1.17.)
今回は智慧は「諸仏の誓願」に由来するということの根拠になる「法華経-方便品第二」のその部分を紹介しましょう。http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou045_sub.htm
そのことは「智慧は、人をして一気に覚りの境地に至らしめるものである。」ということを理解しておかなければ分かりません。

以下引用です。
【諸仏の誓願】
法華経-方便品第二では、諸仏の誓願について次のように記しています。
*** 和訳経典から引用
{前を略}
舎利弗よ、正に知れ。 私は昔、誓願を立て、一切の生ける者達を、私と等しく、異なるところがない様にしようとした。 私の昔の願いは、今既に満足し、一切の生ける者達を教化して、皆、仏の道に入らしめた。 もし私が生ける者達に遇えば、悉く教えるのに仏道をもってする。 無智な者は錯乱し、迷い惑うて教えを受けない。 私はこれらの生ける者達が、未だかつて善の本を修めた事がないのを知っている。 堅く五欲に執着して、無智と生存意欲の故に悩みを生じ、諸々の欲の因縁によって三種の悪しき世界に堕ち六種の世界を輪廻して、つぶさに諸々の苦の毒を受け、受胎する微小な形は、世を重ねる毎に増長し、徳うすく福少ない人間として多くの苦しみに迫られ、邪見の深い林に入り、あるとか、ないとか言いあらそい、この諸々の見解に頼って六十二種も備えている。 深く虚妄の教えに執着して、堅く受持して捨てず、我執がふかく、自ら誇り、偽善であり、心は不実である。 千万億劫においても仏の名を聞こうとしない。また正しい教えを聞かず、この様な人は救いようがない。 この故に、舎利弗よ、私は方便を設けて、諸々の苦しみをなくす道を説き、永遠の平安を示す。 私は永遠の平安を説くが、これは真の悟りではない。 存在するものは、本来、常に自ら寂滅する性質のものだからである。 仏の子は道を修行し終れば、来世に仏となるであろう。 私には方便力があって、三つの立場の教えを教え示した。 しかし一切の諸々の世尊は皆、一なる立場の道を説かれる。 今、この諸々の大衆は皆、正に疑惑を除け。諸仏の言葉は異なるところがなく、ただ一つであって第二の立場はない。 過去無数劫に悟りをひらいた仏は無量であり、百千万億種であって数える事は出来ない。 これらの諸々の世尊も、種々の因縁と喩えと、無数の方便力によって存在の様相を説かれた。 この諸々の世尊らも皆、一なる立場の教えを説いて無量の生ける者達を教化して仏の道に入らしめられた。 また、諸々の大聖主は、一切の世間の、天人・人間・様々な生類の心に深く欲している事を知って、さらに、異なった方便によって第一義(悟りの世界)を説き明かされた。
{中略}
もし教えを聞く者があれば、一人として仏にならぬ者はないであろう。 諸仏の立てた誓願は、自分が実行した仏道を、普く生ける者達に、同じ様にこの道を得させたいというのである。
{後略}
*** 引用おわり

以上引用です。これは仏教の核心部分の根拠になる所ですが、法華経に親しんでない方にはあまり納得できないかもしれません。しかし、修行が進めば「そうだったのか」と納得すると思います。


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智慧とはどういうものか?

ワン爺さんの独り言(2017.1.15.)
今回は、智慧とは何か?についてSRKWブッダの「理法」の欄から引用してみましょう。仏教修行者は長年の疑問や思い込みが覆されると思います。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou011.htm

以下引用です。
【智慧】
「それ」を正しく理解するならば、直ちに覚りの境地に至るその知見を<智慧>と名づける。 この摩訶不思議なる働きこそが智慧の本質でありすべてである。 したがって、人をして覚りの境地に至らしめることの無いあらゆる知見、(哲学的)見解、知識、見識などは智慧ではないと知らねばならない。

智慧は、人をして一気に覚りの境地に至らしめるものである。 したがって、人をして段階的な精神的境界へも導くものであると世人が見なし信じているものは智慧ではない。 すべからく、覚りは頓悟であって漸悟ではないと知られるからである。

智慧の余韻は、完全な後味のよさを有している。 敢えて説明すれば、智慧を用いるときにはそれを用いる前も喜ばしく、用いている最中も喜ばしく、用いた後も喜ばしいという確かな認識が起こる。 また、智慧は、それを用いた本人にとっても喜ばしく、相手にとっても喜ばしく、それを目撃した人々(ギャラリー)にとっても喜ばしく、またその顛末を聞き及んだ現在の人々、および未来の人々にとっても喜ばしいものとなる。

智慧が顕わになったとき、人は生まれて初めての〈特殊な感動〉を味わう。 この特殊な感動は、世間で知られる種々さまざまな感動とは明らかに違っている。 具体的には、絵画、音楽、文学、映画、芸能、食事、飲料、香料、マッサージなどの接触、ダンスやスポーツのハイ、祭りなどの一体感などから得られる感動や情動とは違うのでそれと分かるのである。 また、この特殊な感動は、それを知る人がふと想い起こしたとき、褪せることなく何度でも繰り返し味わうことが出来るものであり、その味わいは時を経ても損なわれることがない。 それゆえに、これを〈特殊な感動〉と呼ぶのである。

智慧は、それが現出した苦の状況(シチュエーション)における唯一の完全な解決法である。 したがって、智慧よりすぐれた答えはあり得ない。 すなわち、智慧は、その状況についての一意で、一義で、最勝で、完璧で、完全なただ一つの答えである。 したがって、そうでないもの、すなわち繰り返される性質のものや使い廻しできるものは智慧ではないと知られるのである。

智慧は、対象についてのあらゆる思惟・考研の埒外にある。 したがって、何をどのように分析したり、綜合したり、統合したり、実践したり、理論づけしたりしても智慧を得ることはできない。 智慧は、科学的にも、哲学的にも、法学的にも、神学的にも導き出すことはできないものである。 すなわち、智慧は生まれてこの方、見たり、聞いたり、考えたり、想像したり、経験したり、議論したり、あるいは思い込んだりしたあらゆることがらの総体を超えている。

智慧は、あらゆる分別を超越した所から出てくるものであり、それゆえに無分別智とも名づけられる。 言い換えるならば、智慧を出すために、何かを勉強したり、話し合ったり、考えたり、経験したり、想像したり、見聞を広めたりする必要は何も無い。 なぜならば、智慧はそのようなこととは無関係に突如として人の身に顕現するものであるからである。 すなわち、智慧は人類が作為したものでは無く、人類のあらゆる経験要素を超越し、さらに集合的要素さえも超越したものであり、いわばそれらとは無関係に存在する”何か”である。

智慧は、もしそれを一つでも得れば完備(コンプリート)なる無限の智慧すべてを得ることができる。 それは、例えば赤色という色をたった一つでも知ったならば、それと同時に無数の赤色をすべて知ったことになることに似ている。 すなわち、赤色という色をすでに知った人は、(生まれて初めて見る)別の赤色を見てもそれが赤色であると正しく認識できるようになるからである。 完備なる智慧を得ることも現象論的にはそれと同じであると言って差し支えない。 すなわち、ある人がもしもたった一つでも智慧を得たならば、かれは他の状況(シチュエーション)において生まれて初めて思い浮かんだ他の知見(智慧)が、まさしく智慧であることがはっきりと分かるようになるからである。 このように、ひとたび智慧が顕現するとき、完備された智慧のすべてを漏らさず理解できるようになるゆえに、智慧を<無漏智>とも呼びならわす。 また、智慧は完備されていて何一つ付け加えるべきものが無く、逆に何一つ取り外すべきものも無いという意味で、<不増不減>とも言われる。

智慧が顕わになったとき、智慧を生じたという正しい認識(=智)が起こる。 この認識の一つは、すでに上で述べた智慧の味わい(金剛般若経に言う「応無所住而生其心」)のことであるが、それとは別にはっきりとした認識を生じるのである。 それは、自らの身に間違いなく智慧を生じたのだという直なる認識である。 人は智慧を生じたとき、智慧を生じたという疑う余地のない確信を得るのである。 それは例えば、大人には自分が間違いなく大人であるというはっきりとした直なる認識と疑う余地のない確信があるようなものである。 大人は、自分がもう子供じみたいかなる行為も出来なくなっているという事実の認識がある。 智慧を生じたという認識・確信も同様なものである。 それは、他の誰かに認定してもらう必要もないものであり、かれにとってそれは自明のこととして認知されるものである。

[補足説明]
智慧は働きであり、その根元は法華経に言う「諸仏の誓願」に他ならない。 このことを詳しく知りたい人は、法華経・方便品第二を参照するとよいであろう。
→ 諸仏の誓願(法華経 方便品第二から引用)
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou045_sub.htm

以上引用です。「補足説明」は、智慧は「諸仏の誓願」から現れるのであるということであります。明日は「法華経・方便品第二」のその部分を学んでみましょう。


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解脱とは何か?

ワン爺さんの独り言
SRKWブッダの「心に障害を為す要因」である「名称と形態(nama-rupa:名色)」の解説を掲載したので、仏教の目的である「解脱」の解説を掲載できるようになりました。それを掲載します。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou007.htm

以下引用です。
【解脱】
解脱とは、煩悩苦(本能にもとづく心の動揺という苦)から脱れることを指す言葉である。 平易な表現をとるならば、解脱とはいろいろな形でこの身に現れるあらゆる種類の煩いからこころが永遠に解放されることに他ならない。 解脱は、この世の最上のことがらである。 なお、本節で言う”解脱”とは智慧の解脱のことを指している。

ところで、煩いとは何であろうか。 すでに解脱した覚者にとって、煩いには大きく二つの要因があることが知られるのである。 その一つは名称(nama)作用にもとづく煩いであり、もう一つは形態(rupa)作用にもとづく煩いである。

名称作用にもとづく煩いは、個人的要因(個人的無意識を源とする)によって生起する煩いであり、その原因を理性的に認識するなどして知的に克服できるかあるいは軽減することができる性質のものである。 一方、形態作用にもとづく煩いは、集合的要因(集合的無意識を源とする)によって生起する煩いであり、その本当の原因は特定することができず、それを知的に(意識的に,意思によって)克服することはできない性質のものである。

また、名称作用にもとづく煩いは、先ず対象の認知があってその後に恐れや嫌悪などの煩わしい感情が生起する性質を持っている。 一方、形態作用にもとづく煩いは、対象を認知すると同時に恐れや嫌悪などの煩わしい情動が待ったなしに認識される性質のものである。 すなわち、形態作用にもとづく煩いとは、やや強引に例えるならばいわば「錯覚」のようなものであり、それはあらゆる経験要素を排し、知識や見識とは関係なく、無条件に認識される根本的錯誤である。 このため、形態作用にもとづく煩いを、意思や哲学的見解などの解脱以外の方法によって克服することは不可能である。

さて、解脱したならば、上記で述べた二種類の煩いから脱れることができる。 なぜ煩いから脱れることができるのかというそのメカニズムそのものは説明できない。 ただ、具体的には次のようなことが体現されることになるのは本当である。

○ 事前の予想無しに突然起こった衝撃音や衝撃的映像に対して、まったく動揺しなくなる。 まるで、それが起こることを予め知っていたかのように、それどころかそれを予め知っていた以上に平静に、当たり前のようにそれらの現象を動揺無く受け止めている自分を発見することになる。(一切智) そして、このとき実際に何が起こったのかについて具体的に知りたくなった場合には、現象が起きた直後に対象物に意識を向けることでそれを正しく識別できる。(後得智)

○ 人間不信と自己嫌悪がともに無くなった自分自身を発見する。 世の中にいるすべての人々について、誰一人として嫌いな人がいないと実感され、人間関係についての煩いが消滅する。 つまり、如何様なる誰を見ても、その人に嫌うべき相を発見することができなくなるのである。

○ 目の前で何があろうとも、他の人に対して怒ること、争うこと、疑うことが無くなる。 世界中の人々が、家族や親族になったような気持ちに安住するのである。

○ いわゆる欲望の燃え盛ることが無くなる。 生理的欲求は残るが、それはいずれも一時的なものであり、特定の対象を執拗に繰り返し求めるような貪りとしての欲求(=欲望)が無くなった自分自身を発見するのである。

○ 迷妄と妄執がともに無くなる。 何に対しても、意識的にせよ無意識的にせよ、あれこれと勝手な想いをめぐらすことが無くなった自分自身を発見することになる。 世の中のあらゆる対象物や様々な現象は、一意の「相」として認識される。 具体的な例として人の表情について述べるならば、如何なる人においても喜怒哀楽の表情は見えずその人の人相のみが認識されるのである。 すなわち、相手が今現在どのような感情状態や情動状態にいるかを認識するのでは無く、相手がどのような境涯(境遇)にあるのかが認識されることになる。

このように、解脱は円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)をもたらすものである。 もろもろの如来は、その安らけく境地を知って、人々に解脱することを勧めるのである。

以上引用です。


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「心に障害を為す要因」である「名称と形態(nama-rupa:名色)」

ワン爺さんの独り言(2017.1.14.)
今回は先日触れたSRKWブッダのいう「名称と形態(nama-rupa:名色)」について学んでみようと思います。始めにその解説を引用します。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou006.htm

以下引用です。
【名称と形態(nama-rupa:名色)】
名称と形態(nama-rupa:名色)とは、ユング心理学(分析心理学)に代表される深層心理学の言葉を(説明理論として)借りれば「個人的無意識」と「集合的無意識」の作用のことだと言って大過ないでしょう。 このような言葉が出てくるのは、覚りの境地に至った人が分析的に人の心を大きく3つの階層に分けて考えた結果です。 すなわち、人々(衆生)が自分自身だと思っている自我意識やペルソナの作用が表層意識としての自我(自我コンプレックス)であり、その下層に位置する自我の他の可能性であるシャドウや抑圧されたコンプレックス人格などを含む個人的無意識にあたるのが「名称(nama)」です。 さらに、それらの下の層に位置して元型(アーキタイプ)群およびグレートマザーという形で人類全体を貫いて共通に存在する集合的無意識にあたるのが「形態(rupa)」です。

これらについて、原始仏典の別の表現(テーリーガーター:尼僧の告白)では名称を「刀」、形態を「串」のようだと形容しています。 確かに、名称作用は自我を脅かしてこころを動揺させる刀のようなものであり、ユング心理学に言うシャドウやコンプレックス人格が自我に及ぼす作用そのままです。 一方、形態作用は人類の歴史的経験のエッセンスというべきものであって、そのように凝縮されたイメージの潜在形成力が全人類を貫くように投影されていて、個々人が有する縁に応じて適宜各自の自我意識に深い影響を与える集合的こころ(として認知される心的作用)のことですから、串という形容は実にまとを得ています。

なお、名称と形態を現代の言葉で平易に表現するならば、次のように言ってよいでしょう。

 名称作用: 一切を認識したときに同時に生じるある種の心的余韻作用
 形態作用: 一切を認識したときに同時に生じる心的変換・増幅作用(心的アレルギー作用)

ここで、心的余韻作用とは、肯定的には例えば思い出の味やなつかしい心地よさなどとして現れる認識ですが、否定的には嫌な思い出にもとづく不快な感情や嫌悪、トラウマによる自己制御の困難などとして現れます。 一方、心的変換・増幅作用とは、肯定的には例えば極微量の出し汁の作用による味噌汁の旨みの認識や芸術的映画や音楽を鑑賞したときに生じる胸震わせる感動などとして現れるこころ細やかな快の認識ですが、否定的には理由もなくわきあがる怒りや恐怖、焦燥感などのいわば心的アレルギー作用として現れます。

やや強引に譬えるならば、心的余韻作用とは幻の如きものであり、心的変換・増幅作用とは錯覚の如きものであると言ってよいでしょう。 そして、この名称と形態(nama-rupa)こそが、我ありという認識の根元(=我執)を為しているものなのですが、これらは実は自性ならざるものであると知られるのです。

名称と形態(nama-rupa)を、こころを覆う障害としてとらえた般若心経では、それらをケイ(網頭らに圭)・ゲ(礙)と呼び、ケイが引っ掛かり、ゲがさまたげるものであるとしています。 不快な心的余韻作用は、対象に関するまさに「心の引っ掛かり」であるし、心的アレルギー作用は目前の行動に対してまさにこころをさまたげるもの(心奥の障害)と言えるでしょう。 それは、たとえば特定の食べ物アレルギーのある人が、目の前に出された食事の中にアレルゲン(その人におけるアレルギーの原因物質)が含まれているのではないかと疑い、食べる前から恐れおののくようなものです。 アレルゲンが含まれているかどうかは実際に食べてみなければ分からないことであるし、食べてアレルギー症状が現れたときには時すでに遅く、アレルギーの苦しみを生じることがもう避けられません。 このため、アレルギー体質の人は、目の前に出された食事を、何も考えずに摂ることが出来なくなってしまうことでしょう。 あたりまえのことが、あたりまえに出来なく無くなってしまうことでしょう。 これが、こころのさまたげです。 それと同様に、人々(衆生)にはケイ(網頭らに圭)・ゲ(礙)と名付くべき心的障害がつねにつきまとっているのであり、そのために素直なこころ(=真如)を働かせることが出来なくなっているのだと考えなければなりません。 そして、それゆえに人々(衆生)は、あたりまえのこころをあたりまえに表出できなくなっており、しかも自分自身ではそのことに気づいてさえいないのです。 この知り難きこころの障害の根元こそが、名称と形態(nama-rupa:名色)に他なりません。

ところで、名称と形態(nama-rupa)を滅尽することが即ち解脱であり、その結果顕れるのが覚りの境地(=ニルヴァーナ)です。 このため、人は解脱するとその瞬間からまったく内外界の影響を受けない禅定の境地に入ることになります。 なぜならば、それまで名称と形態(nama-rupa)にもとづいて起こっていた外界および内界との関わりによる「心的余韻作用」と「心的変換・増幅作用」が根こそぎ消滅するからです。 すなわち、(本当の)禅定とは、一旦揺れ動いたこころが元どおりに復帰する過程では無く、一切に関して何が起ころうとも最初からまったく動じない境地を指して言う言葉です。

なお、釈尊の原始経典の一節では、名称と形態(nama-rupa)によって生じるそれぞれの心的作用が表象作用と感受作用であると認め、解脱の境地を次のように記しています。

○ 身体を壊り、表象作用と感受作用とを静めて、識別作用を滅ぼすことができたならば、苦しみが終滅すると説かれる。(ウダーナヴァルガ)


[補足説明]
唯識でいう「末那識(まなしき)」は名称(nama)作用を呼び起こす根元であり、「阿頼耶識(あらやしき)」は形態(rupa)作用を呼び起こす根元であると考えてよいでしょう。 これらの二つの識を超えた真実の識として、唯識では「阿摩羅識(あまらしき)」を立て、それに至り住することが解脱であるとしています。

[補足説明(2)]
いわゆる煩悩の正体を指して「客塵」と言うのは、集合的無意識宛に他の人々から日々送られてくる人類共通の業(カルマ)の様子を示しています。 このどこからともなくやって来て塵のように降り積もる業が、人類共通の精神的遺産として受け継がれたものの総体が、すなわち形態(rupa)であるからです。

以上引用です。
〇ワン爺のコメント
お読みになって頂ければ、分かると思いますが、多くに方は難しいと思います。始めはこの説明文章の用語を理解することから始める必要がるかもしれません。しかし、何度か読んで行けばだんだん分かっていくと思います。そうすれば、心の構造のイメージができて、なぜ心が自由でないのか、素直になれないのかが理解できると思います。心のこだわりがどのように取れて、解脱するのか教えるのが仏教であることが分かると思います。

最後に、昨日のブログ記事のてくてくさんのコメントにありました「「『問うことによって』rihou【194】」は
SRKWブッダのHP「覚りの境地」の理法194です。参考のためにアドレスを掲載します。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou194.htm


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物覚えの悪い周利槃特(チューラ・パンタカ)は尊敬されるべき人であった

ワン爺さんの独り言(2017.1.12.)
昨日掲載した「尊敬されるべき人」に関連して「周利槃特(チューラ・パンタカ)の覚り」について述べられています。非常に興味ある内容なので、今回はそれを紹介しましょう。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou005_sub.htm

以下引用。
【周利槃特(チューラ・パンタカ)の覚り】

覚りに至るためには、果たして書物や人づてなどで見聞きした知識や見識、あるいは分別、様々な人生経験などが必要なのでしょうか? 私は、それらは別に必要ないと考えます。

[チューラ・パンタカ(周利槃特)の覚りの話]
チューラ・パンタカは、物覚えの悪い人で、釈尊から教えてもらった覚りに役立つ詩をただ一つさえなかなか覚えきれず、詩の2行目を覚えた頃には最初の一行を忘れていたというほどであったと伝えられています。 しかしながら、チューラ・パンタカは釈尊から勧められて始めた「草履拭き」の作務をこなしていく中で、見事に覚りに至ったということです。

[チューラ・パンタカは何を覚ったのか]
チューラ・パンタカの覚りは、釈尊の覚り、すなわちブッダとしての覚りと基本的には同じものであったろうと私は思います。 すなわち、それはニルヴァーナの顕現であり、四苦八苦の滅尽であった筈です。 すなわち、人々(衆生)は釈尊から得たものと同じものをチューラ・パンタカからも得、釈尊が衆生から手に入れたものと同じものをチューラ・パンタカも同様に手に入れたであろうと考えられます。

** 推測 **
チューラ・パンタカの覚りの経緯についての詳細は割愛しますが、要するに短い文章をも記憶することができないようないわば知能の薄い人々でも、慈悲喜捨のこころがあれば覚りを開くことができるという話です。 以下は、その顛末を私が推測したものです。

---------------
* 途中までの話は一気に割愛 *

釈尊) チューラ・パンタカよ。 そなたはこの布を使って、人々の履き物を磨くことを作務とするが良い。
チューラ・パンタカ) わ・か・り・ま・し・た

チューラ・パンタカは、その日から釈尊に来訪者があるとそれらの人々の履き物を誠意をもって磨く毎日であった。

チューラ・パンタカ) ふ・し・ぎ・だ。 このぬのは、はきもののよごれをただくっつけるだ。 そ・し・て.. このぬのはあらえばまたきれいになるだ。

 そのような日々が続いたある日..

来訪者) 釈尊よ。 私は、このことについて質問があるのです。 是非、教えを頂きたいのです。

 来訪者は、何かにとりつかれたように、釈尊に法を質問する。 釈尊は、これに応える。

釈尊) ....と私は説くのである。
来訪者) ありがとうございます。 あなたは、倒れる者を起こすように.... 

 来訪者は、釈尊の教えを受けて、安心し、穏やかになり、満面の笑みでその場を退席する。

来訪者) 私の履き物はどこへ? あった。 おお。 綺麗に磨いてある。 これは一体?  

 その横で、チューラ・パンタカが他の人々の履き物を一心に磨いている。

来訪者) チューラ・パンタカさん。 あなたが、私の履き物も磨いてくれたのですか?
チューラ・パンタカ) は・い。   そ・う・で・す・だ。

来訪者) ありがとう チューラ・パンタカさん。 {来訪者は満面の笑み}
チューラ・パンタカ) い・い・え。 ど・う・い・た・し・ま・し・て。 {パンタカも満面の笑み}

チューラ・パンタカ) こ・の・ひ・と・も.. ほかのひとたちとおなじように、くるときはすごいかおでやってきたけれど。 かえるときには え・が・おだっただ。  おしゃかさまはすげえだ。 おらも、おしゃかさまのようになりてえだ。

 そのような日々がさらに続いたある日

来訪者) 釈尊よ。 私は、このことについて質問があるのです。 是非、教えを頂きたいのです。

 来訪者は、何かにとりつかれたように、釈尊に法を質問する。 釈尊は、これに応える。

釈尊) ....と私は説くのである。
来訪者) ありがとうございます。 あなたは、倒れる者を起こすように.... 

 来訪者は、釈尊の教えを受けて、安心し、穏やかになり、満面の笑みでその場を退席する。

来訪者) 私の履き物はどこへ? ああ、あった。 おおっ。 綺麗に磨いてある。 これは一体?  

 この日も、その横でチューラ・パンタカが他の人々の履き物を一心に磨いている。

来訪者) チューラ・パンタカさん。 あなたが、私の履き物も磨いてくれたのですか?
チューラ・パンタカ) は・い。   そ・う・で・す・だ。

来訪者) ありがとう チューラ・パンタカさん。 {来訪者は満面の笑み}
チューラ・パンタカ) い・い・え。 ど・う・い・た・し・ま・し・て。 {パンタカも満面の笑み}

チューラ・パンタカ) きょうのこのひとも... ほかのひとたちとおなじように、くるときはすごくくるしいかおできたけれど。 かえるときには え・が・おだっただ。 おしゃかさまは、やっぱりすげえだ。 おらも、おしゃかさまのようになりてえだ。

チューラ・パンタカ) おらは。 どうなりてえだ? おしゃかさまのようになりてえだ? で・も..。 おらは、あたまがわるいだ。 だったら、おらは? おらはどうするだ? なにができるだ? いや、おらはどうなりてえだ? そ・う・だ..。 おらは、おしゃかさまのように、ひとびとにえがおをあげてえだ。 そして おらも、みんなのえがおがほしいだ。

チューラ・パンタカ) だども。 それだったら... それだったら、おらはいつもみんなからえがおをもらってるだ。 そうだ おらは、ほしいものをもうもらっているだ。 だったら、おらはこれでええだ。 みんなから、えがおをもらえればそれでええだ。

この瞬間に、チューラ・パンタカは覚りを開いたに違いありません。

チューラ・パンタカが気づいたことは、次のようなことであったろうと思います。

① 布は不思議だ。 布は履き物の汚れを一方的に吸い取るように見える。 そして、布は汚れても洗えばまた綺麗になって、また履き物を磨ける。 一方、お釈迦様も、人々(衆生)の疑問や悪や汚れに常に晒されていてその汚れを一方的に吸い取るように見えるけれども、釈尊は汚されることなくいつも(心は)綺麗である。 そして、飽きることなく法を説かれる。 つまり、それは布に似ている。

② 釈尊への来訪者は、来るときには苦の状態であるが、理法を聞いて帰るときには満面の笑顔で帰っていく。 ところで、自分(チューラ・パンタカ)に対しても、人々はいつでも,誰でも満面の笑顔をくれる。 〔やあ、この前は有り難う。 履き物が綺麗で気持ちよかったよ と〕 このように、最初は履き物を磨いてくれたお礼に笑顔をくれたけれど、今では道ですれ違っただけでも自分に対して無条件に笑顔をくれる。  だったら、自分も釈尊も同じことをしているではないか と。 自分は、最もほしかったものをすでに手に入れているではないか と。

[補足説明]
チューラ・パンタカの話が、ただこれだけのことであるならば、それはある種の哲学的見解に過ぎないでしょう。 しかし、実際には、恐らくチューラ・パンタカはその瞬間にニルヴァーナの境地に至ったに違いありません。 その瞬間に、貪嗔痴が滅尽したに違いありません。 その瞬間に、まどかなる安穏を手に入れたに違いありません。

[補足説明(2)]
釈尊とチューラ・パンタカ、二人に共通しているのは「誰に対してもやさしい」と言うことであり、「誰とも敵対していない」と言うことです。 それを心的に行為しているのが釈尊であり、物理的に行為しているのがチューラ・パンタカであると言えるでしょう。

以上引用。


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尊敬されるべき人

ワン爺さんの独り言(2017.1.12.)
今回はテーマを変えて「尊敬されるべき人」に関する「理法」をSRKWブッダのHP「覚りの境地」から紹介しましょう。http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou005.htm


以下引用。
【尊敬されるべき人】
尊敬されるべき人とは、智慧ある人のことを言います。 すなわち、覚りの境地に至った人あるいは善知識である人のことです。 では、何故これらの人々は尊敬されるべき人と呼ばれるのでしょうか。

これらの人々は、図らずも慈悲喜捨を体現している人であるがゆえに「尊敬されるべき人」と呼ばれます。 これらの人々は、真実にやさしい人であるがゆえに、誰からも「尊敬されるべき人」と呼ばれることになります。 これらの人々は、本人がどのように思っていようが実は苦しんでいるのだと感じた相手に対して、彼らを最高の形で救うための答えを今何としてでも探し出してあげたいと無条件に考え、最高の答えを模索しようとこころから努力するやさしい人々です。 それは、友に対しても、その他の味方に対しても、誰に対しても、敵に対してさえ区別無くやさしく振る舞う人々です。 彼は、誰とも敵対するということが無い人です。 彼は、人と争う心を(少なくとも心の根底において)微塵も持たない人です。 そのような人であるがゆえに、誰もが(自らの利害、損得を越えて)彼を「尊敬されるべき人」と呼ぶに至るのです。

[特徴]
尊敬されるべき人には、いろいろなタイプの人がいます。 勿論、健常者もいるでしょう。 しかしながら、そうで無い人もいることでしょう。 病気で健康を害している人。 事故などで怪我を負った人。 後天的に、あるいは生まれながらにして身体障害者である人。 やや知能が低い人。 その他、あらゆる見かけの人々が尊敬されるべき人であり得ます。 身体や頭脳の障害は、尊敬されるべき人を損なうものではありません。 なぜならば、尊敬されるべき人の特徴とは「心に障害が無いこと」であるからです。

[心に障害を為す要因]
意識(我:自我)の下にあって、心に障害を為す要因には大きく二つの種類があります。 一つは引っかかり(ケイ)を生じる「個人的無意識」すなわち原始経典に言う「名称:nama」にもとづく障害であり、もう一つは障害(ゲ)を生じる「集合的無意識」すなわち原始経典に言う「形態:rupa」にもとづく障害です。 尊敬されるべき人のこころである真実なる素直なこころ、すなわち智慧、すなわち法(ダルマ)は、それらのさらに奥底からそれらの心的障害を超えて突きあがってくるものです。 このようなことから、例えば般若心経では、尊敬されるべき人の境地(覚りの境地)を指して心無ケイゲの境地、すなわち心に引っかかり(ケイ:網頭らに圭)とさまたげ(ゲ:礙)が無い境地であると述べているのです。 つまり、尊敬されるべき人とは、名称と形態(nama-rupa)にもとづく心の障害が無い人、あるいはその障害が少ない人のことを指して言う言葉です。
以上引用です。

〇ワン爺のコメント
上の文章を読んで、尊敬されるべき人は、智慧ある人、真実にやさしい人、そのような人は心に障害が無いのが特徴のようです。
さらに、「心に障害を為す要因」について述べられていることは少し難しいです。テーラワーダ仏教で勉強した事柄と少し異なることが書いてあります。その違いを明確にしておかないと、これから以後このブログで紹介する内容が理解できない、または混乱する、あるいは反発することになると思います。
心に障害を為す要因は「名称:nama」と「形態:rupa」としています。
テーラワーダ仏教では「名称:nama」は精神(心)と考え、「形態:rupa」は物質(身体)と考えています。しかし、SRKWブッダは「名称:nama」は「個人的無意識」と考え、「形態:rupa」は「集合的無意識」と考えているようです。
この違いについては、後日さらに検討しますが、どちらが正しいかと考えるのでなく、そのように考えているのだと理解してSRKWブッダの説明を学んだ方が役に立つと思います。

以下ウキペディアによる言葉の説明。
個人的無意識(こじんてきむいしき)とは、個々の人間に固有な無意識であり、集合的無意識の対語である。個人の人生の過程と関連した不快な記憶や情動、感情を混乱させる幼児期の外傷体験や原始的な本能を抑圧する領域である。個人の自我を種々の不快な記憶や苦痛な刺激となる欲求から防衛する機能を持っている。

集合的無意識(しゅうごうてきむいしき、)は、カール・グスタフ・ユングが提唱した分析心理学における中心概念であり、人間の無意識の深層に存在する、個人の経験を越えた先天的な構造領域である。普遍的無意識(ふへんてきむいしき)とも呼ぶ。個人的無意識の対語としてあり、ユングはジークムント・フロイトの精神分析では説明の付かない深層心理の力動を説明するため、この無意識領域を提唱した。


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禅定と智慧を別だと考えてはならない。禅定と智慧は一体であって二つではない。

ワン爺さんの独り言(2017.1.11.)
昨日予告した通り、今日はSRKWブッダのHP「覚りの境地」の「理法」の中の「観」の記事
(アドレス:http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou004.htm
その後半の「捕捉説明」と「捕捉説明(2)」対する私のコメントを述べます。

[補足説明]
覚りの前提として、観の完成が不要な人も存在している。 彼らは、生まれながらにして観が完成している人であり、善知識と呼ばれる。

コメント:このような方がおられるのかもしれないが、多くの人はそうではないでしょう。ですから、このことはあまり考えなくてもよいのではないかと思います。ただし、自分は観を完成できないと悩んでいる方のなかに、
観の完成者がおられるのかもしれません。そのための捕捉説明かもしれません。

[補足説明(2)]
止・観は両方が相補的に同時にあるのが本当の姿であるというのは、例えば電磁波が電界と磁界の片方だけで存在せず、両方が相補的(相依関係)であることによって初めて物理的に実在するということに似ている。(マックスウェル の電磁方程式) そして、電磁波はこの相補性ゆえに伝播するための媒質を無理に必要とせず、自分自身の相補性だけで真空中を伝わって行くことができるのである。(いわゆるエーテルは不要) 止・観が相補的であるということも、これに似ている。 つまり、止・観は片方だけで自立的に存在できない境地であり、もし存在するときには両方が相補的に同時に存在するものであるからである。 すなわち、正しい止(シャマタ)があるときにのみ正しい観(ヴィパッサナー)があり、正しい観が確立したときにのみ正しい止すなわち坐禅(不動の境地)が顕れるのである。 このことについて、釈尊の原始経典および慧能の六祖壇教ではそれぞれ次のように記している。
○ 明らかな智慧の無い人には精神の安定統一がない。 精神の安定統一していない人には明らかな智慧が無い。 精神の安定統一と明らかな智慧とが{同時に}そなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。 {そのような}修行僧が人のいない空家に入って心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみがおこる。 個人存在を構成している諸要素の生起と消滅を正しく理解するのに従って、その不死のことわりを知り得た人々にとっての喜びと悦楽なるものを、かれは体得する。(ダンマパダ)
○ ── 善知識よ、われわれの法門は禅定と智慧の両方が根本である。 ゆめゆめ誤って禅定と智慧を別だと考えてはならない。 禅定と智慧は一体であって二つではない。 すなわち、禅定は智慧の主体であり、智慧は禅定の作用に他ならない。 智慧が発露するときこころは禅定の状態であり、禅定の状態は智慧によって顕現するからである。 善知識よ、これが禅定と智慧が同等なものであるという意味である。 覚りの境地を目指す人は、禅定によって智慧が生まれるとか、あるいは智慧を身につけることによって禅定が達成できるとか言って、禅定と智慧を互いに別だとあらかじめ考えてはならない。 そのような考え方をするものは、本来一つのものを二つに分けて考える愚を犯しているのである。 (そのような見解にとらわれている限り、)いくら口では善いことを言っていても心は善くないことになって、禅定と智慧が離れてしまうのである。 こころでも口でも等しく善を想い善を語り、内と外とが一つであってこそ、禅定と智慧は一体となるのである。 自らのこころで覚って仏道を行ずるのであり、そのときにはそのようなことについて論争すること自体が無くなるのである。 禅定と智慧とがどちらが後だ先だと論ずるのは、そもそも自分を見失ったもののことだと知らなければならない。 ── (六祖壇教)
注記) { }内は当サイトの起草者が付与。

コメント:[補足説明(2)]は「止・観は両方が相補的に同時にあるのが本当の姿である」ことは禅定と智慧が別物ではなく、一つのもの(現象)の二つの側面であることを述べているのです。
その意味をSRKWブッダは電磁波が電界と磁界のたとえで説明しています。私はこれを素粒子の二つ性質で喩えられるのではないかと思います。すなわち、素粒子は粒子という性質と波動という性質を持っていることが知られています。しかし、素粒子は粒子として観察すると粒子として観察され、波動として観察すると波動であると観察されるそうです。
 テーラワーダ仏教の一部では、定(サマタ)と観(ヴィパッサナー)を別のものと考えているように思います。そのため、瞑想修行をはじめにサマタ瞑想を行い、その後ヴィパッサナー瞑想を行うとか、始めからヴィパッサナー瞑想を行うなどの考え方があります。確かに瞑想実践において、どちらかの面に着目すると、もう一方の面に気づけないということがあるかもしれませんが、実際には両側面の働きによって瞑想が成り立つのではないでしょうか。

 [補足説明(2)]の最後に、ダンマパダと六祖壇教からの引用文が述べられています。
ダンマパダは372偈、373偈、374偈からの引用です。参考までに私のブログのこの偈の解説記事のアドレスを掲載します。まだあまり禅定と智慧の関係が明らかにされていません。
372 修行者の 智慧と定とは 両足だ 両足あれば 涅槃に行ける
372 http://76263383.at.webry.info/201301/article_33.html
373 冥想で 自分の心 よく見ると 人の知らない 楽しみがある
373 http://76263383.at.webry.info/201302/article_1.html
374 生命の 構成要素の 生滅を 触知したなら 涅槃の境地だ
374 http://76263383.at.webry.info/201302/article_2.html

「六祖壇教」で述べられている禅定と智慧の関係はまさにそのものズバリです。「ゆめゆめ誤って禅定と智慧を別だと考えてはならない。 禅定と智慧は一体であって二つではない。 すなわち、禅定は智慧の主体であり、智慧は禅定の作用に他ならない。 智慧が発露するときこころは禅定の状態であり、禅定の状態は智慧によって顕現するからである。」は忘れてはならない言葉です。


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「SRKWブッダのいう「観」について」の私のコメント

ワン爺さんの独り言(2017.1.10.)
今日は昨日掲載した「SRKWブッダのいう観について」の私のコメントを書いてみようと思います。しかし、私はまだ観を完成したわけではありませんので、正解というわけではありません。ですから、軽い気持ちでお読みください。

「【観】
観は、言ってみれば思索を超えた思索であり、人をして覚りの境地に向かおうとするこころを培うのに役立つものである。 なんとなれば、観がまさしく完成しつつあるときに、過去に出会った一大事因縁を想起することを得たならば自ら解脱に至ると期待されるからである。」

コメント:観の定義が書かれていると思います。「思索を超えた思索」とは、先ず「思索」は広辞苑で調べてみると、「物事のすじみちを立てて深く考え進むこと。」とあります。ここでは「思索を超えた思索」とありますから、思索そのものではないのです。私の考えでは、物事のすじみちを思考のみではなく、感情、感覚、直観などを使って深く探究すること」ではないかと思います。更に、ここで大切なことは、観の目的が「過去に出会った一大事因縁を想起することにあるのです。それで解脱が期待されるからです。

「[観の環境と姿勢]
観は、目を普通に開けて行えばよい。 すなわち、目をつぶったり、あるいは半眼にしたり、どこかの一点を見据えたりする必要はない。 またこのとき、特に部屋を暗くする必要は無く、文字が読めるような通常の明るさで問題ない。 観は、できれば静かな場所で行うのが良いが、周囲の音や声が特に気にならないのであれば無理に静寂な場所を探す必要はないものである。 また観に際して、呼吸を意識的に整えようとしたり、座り方にこだわったり、背筋を無理に真っ直ぐに伸ばしたりする必要もない。 つまり、観は楽な姿勢をとって行えばよいのである。」

コメント:観は瞑想や坐禅ではないということですね。思索が出来る環境と姿勢であればよいのですね。思索が出来る環境と姿勢であれば、思索を超えた思索ができるのでしょう。

「[観の対象]
観は、衆生(苦にあえぐ人々)を観じることである。 このとき、架空設定した衆生の姿を観じるのである。 ここに、観において衆生を架空設定するのは、最も悲惨な境遇にいる純粋な衆生の姿を観じるためである。 すなわち、純粋な衆生は余りにも悲惨な境遇にあって、かつ余りにも無知であるために、自分自身が悲惨な境遇にいることさえ認識してはいない。 つまり、純粋な衆生は自分を救って欲しいなどとは夢にも思っていないのである。 そのような衆生を、如何にして救うかについて観じるのが観の本質である。」

コメント:観は瞑想とは異なるのであるから当然ではありますが、多くの瞑想の対象は自分、自分の心を観察というものでありますが、それとは異なり、「衆生(苦にあえぐ人々)を観じることである。 このとき、架空設定した衆生の姿を観じるのである。」となっています。これは次の「慈悲観」及び「平等観」の中で述べられるように、慈悲心と平等心を得るためであろうと思います。

[慈悲観]
観において、あなたが慈悲に生きることを決心するならば、ついには慈悲心(清浄心:発菩提心)を得ることができるであろう。 この決心は、他ならぬ自らがブッダになろうと決意することによって確立される覚りに向かう発心である。 すなわち、慈悲観とは、衆生の真実のすがたを目の当たりにして、決して逃げることなく真正面から対峙し、この上もなく悲惨な衆生の苦を如何にして取り除くかについて思索を越えた思索をすることを意味している。 この観によって、ブッダの魂が培われる。
[平等観]
衆生を対象とした観において、平等を極めるならばついには平等心(本来清浄心:完成された発菩提心)を得ることができるであろう。 この観の終着点において、「衆生」と「ブッダ」は互いに平等の地位と尊厳とを確立するに至る。 この観において、衆生は完璧に死ぬことで完全に生かされ、ブッダは完璧に生きる(真に目覚めている)ことで分別を超えた喜捨の本当の意味を理解するに至るのである。 このとき、衆生はブッダに全面的にすがりつき、一方ブッダは衆生を全身・全霊で受け止めると同時に、甘んじて苦を受け止めている完成された衆生(へつらわない衆生と名づく)をこころから尊敬することとなる。 ここに至って、観を行っている人は、ブッダの立場も衆生の立場もどちらの立場も究極においては対等で変わりが無いことに気づき、自らの立場としてどちらを選択してもよいとさえ思うのである。 すなわち、どちらの立場も、究極では優劣を付けられない平等なレベルでのこころの充実と尊厳が安立していることに気づくのである。 これを、完成された平等観と名づく。 この完成された平等観を知ることが覚りに向けた観の主たる目的であり、そのようにして自ら得たこころこそが完成された発菩提心(ほとんど菩提心そのものと言ってもよい)に他ならない。 なお、この観を行う人はあくまでもブッダの立場に立って観ずるべきである。 決して誤って衆生の立場に立ってはならない。 この観によって、ブッダの行為のもといが培われるのである。

コメント:観の二本柱は「慈悲観」と「平等観」であると思います。苦にあえぐ衆生の真実のすがたを目の当たりして、逃げることなく悲惨な衆生の苦を取り除こうと思索を超えた思索をするとき慈悲観が現れ、平等を究めるならば平等観が現れるのだと思います。

[特殊な感動]
正しく為し遂げられた観の終着点において、人は「生まれて初めて味わう特殊な感動」を知ることになる。 その特殊な感動は、生まれて初めて味わったものであるというはっきりとした認識(智)を自ら生じるのである。 その特殊な感動は、世間的ないかなる感動とも違っていることをはっきりと理解することであろう。 そして、この特殊な感動を知ることが、実は観の本当の目的であったのだと知るのである。

コメント:人々は欲望が叶えられると喜びを感じます。それらはすべて世間的な感動です。しかし、ここで述べられている「特殊な感動」それらとは違っているようです。そしてこの「特殊な感動」のよって心が変わって解脱すのか、解脱したから「特殊な感動」が現れるのか分かりませんが、解脱と深くかかわりのある感動であることは確かなようです。

「観」の項には[補足説明]と「[補足説明(2)]がありますが、それについては明日述べます。


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SRKWブッダのいう「観」について

ワン爺さんの独り言(2017.1.9.)
今回はSRKWブッダのいう「観」について、学んでみようと思います。しかし、これは彼が述べる教えのなかで一番難しいものの一つだと私は思いました。それはテーラワーダ仏教のヴィパッサナーをイメージして学んだからだと思います。ですから、観はヴィパッサナー瞑想とは別物と考えて学んだ方がよいでしょう。

では「覚りの境地」の「理法」の中の「「観」の項を引用します。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou004.htm

以下引用です。
【観】
観は、言ってみれば思索を超えた思索であり、人をして覚りの境地に向かおうとするこころを培うのに役立つものである。 なんとなれば、観がまさしく完成しつつあるときに、過去に出会った一大事因縁を想起することを得たならば自ら解脱に至ると期待されるからである。

しかし、観は覚りの修行法そのものではない。 つまり、観を完成するだけで覚りの境地に至ることは無いと知らねばならないのである。 しかしながら、分かり難いかも知れないが、正しい観によって培われた徳豊かな心はいわば覚りの前提であることは間違いないことである。

なお、世間においては、観を止(シャマタ)および観(ヴィパッサナー)の二つに分けて別々に論じることも聞き及んでいるが、実際には止・観はその両方が相補的に存在するのが本当の姿(実相)である。 → 補足説明(2)を参照。 したがって、本稿では止・観を個別に論じることは行わず、併せて観と表現する。 また、観はいわゆる瞑想(メディテーション)や気づき(サティ)とは無関係である。

[観の環境と姿勢]
観は、目を普通に開けて行えばよい。 すなわち、目をつぶったり、あるいは半眼にしたり、どこかの一点を見据えたりする必要はない。 またこのとき、特に部屋を暗くする必要は無く、文字が読めるような通常の明るさで問題ない。 観は、できれば静かな場所で行うのが良いが、周囲の音や声が特に気にならないのであれば無理に静寂な場所を探す必要はないものである。 また観に際して、呼吸を意識的に整えようとしたり、座り方にこだわったり、背筋を無理に真っ直ぐに伸ばしたりする必要もない。 つまり、観は楽な姿勢をとって行えばよいのである。

[観の対象]
観は、衆生(苦にあえぐ人々)を観じることである。 このとき、架空設定した衆生の姿を観じるのである。 ここに、観において衆生を架空設定するのは、最も悲惨な境遇にいる純粋な衆生の姿を観じるためである。 すなわち、純粋な衆生は余りにも悲惨な境遇にあって、かつ余りにも無知であるために、自分自身が悲惨な境遇にいることさえ認識してはいない。 つまり、純粋な衆生は自分を救って欲しいなどとは夢にも思っていないのである。 そのような衆生を、如何にして救うかについて観じるのが観の本質である。

[慈悲観]
観において、あなたが慈悲に生きることを決心するならば、ついには慈悲心(清浄心:発菩提心)を得ることができるであろう。 この決心は、他ならぬ自らがブッダになろうと決意することによって確立される覚りに向かう発心である。 すなわち、慈悲観とは、衆生の真実のすがたを目の当たりにして、決して逃げることなく真正面から対峙し、この上もなく悲惨な衆生の苦を如何にして取り除くかについて思索を越えた思索をすることを意味している。 この観によって、ブッダの魂が培われる。

[平等観]
衆生を対象とした観において、平等を極めるならばついには平等心(本来清浄心:完成された発菩提心)を得ることができるであろう。 この観の終着点において、「衆生」と「ブッダ」は互いに平等の地位と尊厳とを確立するに至る。 この観において、衆生は完璧に死ぬことで完全に生かされ、ブッダは完璧に生きる(真に目覚めている)ことで分別を超えた喜捨の本当の意味を理解するに至るのである。 このとき、衆生はブッダに全面的にすがりつき、一方ブッダは衆生を全身・全霊で受け止めると同時に、甘んじて苦を受け止めている完成された衆生(へつらわない衆生と名づく)をこころから尊敬することとなる。 ここに至って、観を行っている人は、ブッダの立場も衆生の立場もどちらの立場も究極においては対等で変わりが無いことに気づき、自らの立場としてどちらを選択してもよいとさえ思うのである。 すなわち、どちらの立場も、究極では優劣を付けられない平等なレベルでのこころの充実と尊厳が安立していることに気づくのである。 これを、完成された平等観と名づく。 この完成された平等観を知ることが覚りに向けた観の主たる目的であり、そのようにして自ら得たこころこそが完成された発菩提心(ほとんど菩提心そのものと言ってもよい)に他ならない。 なお、この観を行う人はあくまでもブッダの立場に立って観ずるべきである。 決して誤って衆生の立場に立ってはならない。 この観によって、ブッダの行為のもといが培われるのである。

[特殊な感動]
正しく為し遂げられた観の終着点において、人は「生まれて初めて味わう特殊な感動」を知ることになる。 その特殊な感動は、生まれて初めて味わったものであるというはっきりとした認識(智)を自ら生じるのである。 その特殊な感動は、世間的ないかなる感動とも違っていることをはっきりと理解することであろう。 そして、この特殊な感動を知ることが、実は観の本当の目的であったのだと知るのである。

[補足説明]
覚りの前提として、観の完成が不要な人も存在している。 彼らは、生まれながらにして観が完成している人であり、善知識と呼ばれる。

[補足説明(2)]
止・観は両方が相補的に同時にあるのが本当の姿であるというのは、例えば電磁波が電界と磁界の片方だけで存在せず、両方が相補的(相依関係)であることによって初めて物理的に実在するということに似ている。(マックスウェル の電磁方程式) そして、電磁波はこの相補性ゆえに伝播するための媒質を無理に必要とせず、自分自身の相補性だけで真空中を伝わって行くことができるのである。(いわゆるエーテルは不要) 止・観が相補的であるということも、これに似ている。 つまり、止・観は片方だけで自立的に存在できない境地であり、もし存在するときには両方が相補的に同時に存在するものであるからである。 すなわち、正しい止(シャマタ)があるときにのみ正しい観(ヴィパッサナー)があり、正しい観が確立したときにのみ正しい止すなわち坐禅(不動の境地)が顕れるのである。 このことについて、釈尊の原始経典および慧能の六祖壇教ではそれぞれ次のように記している。

○ 明らかな智慧の無い人には精神の安定統一がない。 精神の安定統一していない人には明らかな智慧が無い。 精神の安定統一と明らかな智慧とが{同時に}そなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。 {そのような}修行僧が人のいない空家に入って心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を超えた楽しみがおこる。 個人存在を構成している諸要素の生起と消滅を正しく理解するのに従って、その不死のことわりを知り得た人々にとっての喜びと悦楽なるものを、かれは体得する。(ダンマパダ)

○ ── 善知識よ、われわれの法門は禅定と智慧の両方が根本である。 ゆめゆめ誤って禅定と智慧を別だと考えてはならない。 禅定と智慧は一体であって二つではない。 すなわち、禅定は智慧の主体であり、智慧は禅定の作用に他ならない。 智慧が発露するときこころは禅定の状態であり、禅定の状態は智慧によって顕現するからである。 善知識よ、これが禅定と智慧が同等なものであるという意味である。 覚りの境地を目指す人は、禅定によって智慧が生まれるとか、あるいは智慧を身につけることによって禅定が達成できるとか言って、禅定と智慧を互いに別だとあらかじめ考えてはならない。 そのような考え方をするものは、本来一つのものを二つに分けて考える愚を犯しているのである。 (そのような見解にとらわれている限り、)いくら口では善いことを言っていても心は善くないことになって、禅定と智慧が離れてしまうのである。 こころでも口でも等しく善を想い善を語り、内と外とが一つであってこそ、禅定と智慧は一体となるのである。 自らのこころで覚って仏道を行ずるのであり、そのときにはそのようなことについて論争すること自体が無くなるのである。 禅定と智慧とがどちらが後だ先だと論ずるのは、そもそも自分を見失ったもののことだと知らなければならない。 ── (六祖壇教)

注記) { }内は当サイトの起草者が付与。

以上引用です。


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「円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)」を旬に譬える

ワン爺さんの独り言(2017.1.8.)
前回、「円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)とはいかなるものか?」のSRKWブッダの説明を掲載しましたが、
今回は更にそれを「旬」で譬えた話を紹介します。

以下引用。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou003_sub.htm
【ニルヴァーナの境地について譬えるならば】
ニルヴァーナの境地を言葉で説明することは、本来的に困難です。 それは、味や旨みを超えた最高の味わいについて、それを言葉で説明するような困難です。

[最高の味]
おとうと: ねえ兄貴。 魚は究極、何が最高に旨いの?
兄貴:  魚ぁ。 そりゃあ おめえ 何たって「旬」が最高よ!
おとうと: へ~ぇ? 「シュン」っていう魚が最高?
兄貴:  ちがうよ 馬鹿野郎 「旬」だよ「旬」 「旬」を知らないのか?
おとうと: 「しゅん」?
兄貴:  ちがうよ 「旬」だよ「旬」
おとうと: 「シュン」?
兄貴:  そうか。 おめえ、「旬」の意味が分かってねェな。
おとうと: どこでとれるの? 「シュン」?
兄貴:  ちがうよ。 「旬」てえのはなぁ。 とれるんじゃあねぇ。 ある季節のことだよ。
おとうと: 「春」のこと?
兄貴:  ちがうよ。 そうじゃねぇよ。 魚ってぇやつは、ある時期に一番旨くなるのさ。
おとうと: たとえば?
兄貴:  たとえばだな。 秋刀魚は秋だな。
おとうと: 10月何日頃?
兄貴:  そうじゃねぇよ。 ひにち じゃあないんだよ。 時期。 時期。
おとうと: もうじき?
兄貴:  ちがうよ。 "その時期"だよ。 "その時期"になると旨ぇんだよ。
おとうと: どの時期?
兄貴:  つまりなぁ。 ある時期になると旨ぇんだよ。
おとうと: ある時期?? どの時期?? その時期??  ?????...
兄貴:  そうじゃなくってなぁ。 その時期になると、秋刀魚がものすごく旨くなることが分かるんだよ。
おとうと: どうやって?
兄貴:  食べれば分かるんだよ。
おとうと: 誰でも? 僕でも?
兄貴:  ああ。 多分な。
おとうと: 多分?
兄貴:  いやぁ。 きっとな。
おとうと: 本当に僕でも分かるの?
兄貴:  ああ。 きっと分かるよ。
おとうと: じゃあ。 その時期になったら教えてっ。
兄貴:  よっしゃあ。 その時期が来たらきっと教えてあげるよ。 (本当は自力で分かるんだがなぁ)
おとうと: きっとだよ。
兄貴:  ああ。 きっとさ。
おとうと: 楽しみだな~あ。
兄貴:  ああ。 旨ぇぞォ。 その時期の秋刀魚は。 
おとうと: う~ん。 早くその時期が来ないかなぁ。
兄貴:  もうじきだよ。
おとうと: やっぱり もうじき?
兄貴:  いや..。 とにかく、その時期が来たら教えてやるよ。
おとうと: うん。 分かった。 待ってる。 教えてよォ。 兄貴。 きっとだよ。
兄貴:  きっとさ....。

[ニルヴァーナの味わいも]
旬は、どの種類の魚にもあるものですから、魚自体を説明しても始まりません。 すなわち、旬を合理的,体系的に説明することは本来的に困難です。 ニルヴァーナの味わいを説明することも、同様です。 それを「慈悲」や「平等」や「無我」や「縁起」..などという言葉で説明しようと試みることはできますが、それだけで相手に真に理解してもらうことはできないことでしょう。 ニルヴァーナの味わいも、旬の味わいのようにその時期になれば分かるものであるとしか言えないものです(一大事因縁)。 その時期がいつであるのかを予言することはできませんが、最終的には皆さんもその境地を味わうことになるでしょう。 そのためには、旬の味(最高の味わい)を求める心のように、素朴で純真な心があれば良いのです。 如何なる誰であっても、法(ダルマ)を聞こうと(正しく)熱望するならば、必ずやニルヴァーナの境地に至ることは間違いないことであるからです。

[おまけ(その後)]
おとうと: 兄貴っ。 兄貴っ。 兄貴っ。 旬の秋刀魚って めちゃめちゃ旨いね。
兄貴:  そりゃあ おめえ 何たって「旬」だからな。 しかもおめえ 今年初めて秋刀魚を食ったんだろ。
おとうと: うん。 ところで、兄貴。 これ高かったんだろ?
兄貴:  いやぁ。 安いよ。 秋刀魚だから。
おとうと: ふ~ん。 「旬」って安いんだね。
兄貴:  違うぞォ。 安いけどめちゃ高いんだぜ。
おとうと: どうして?
兄貴:  約束だからな。 この一週間、俺は魚屋に通いづめだったんだぞ。 だから、高ぇんだよ。
おとうと: いくらぁ?
兄貴:  たしか 一匹100円だったな。
おとうと: 安いじゃん。
兄貴:  違うんだよ。 このツケはおまえに後で払ってもらうから高いんだよ!
おとうと: なにがぁ? どうやって払うのぉ?
兄貴:  ....
おとうと: 兄貴。 ツケってなにさぁ?
兄貴:  .. おまえが大きくなったら分かるよ。
おとうと: なにがぁ?
兄貴:  .. きっと 分かるさ。
おとうと: なにがぁ? 兄貴? なにが分かるのさぁ?
兄貴:  .... もう、きっと分かるようになったのさ それに、おまえは俺のおとうとだからな。

以上引用終わります。
「円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)」を食べ物の旬に譬えるなんて面白いですね。


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円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)とはいかなるものか?

ワン爺さんの独り言(2017.1.7.)
今回はSRKWブッダのHP「覚りの境地」の「理法」の欄から「円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)」について記述を紹介します。http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou003.htm

以下引用。
【円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)】
この世に生きる誰しもが、死ぬよりも以前に到達すべき安穏の境地。 すなわち、ニルヴァーナの境地(覚りの境地)は、略して説明すれば次のような境地である。

敢えて仏教用語を用いて説明すれば、図らずも慧能が六祖壇教の中で述べているように、三毒が三学に転換した境地と言える。 すなわち、次のような境地である。

① 貪が消滅して戒に転換した境地
② 瞋が消滅して定に転換した境地
③ 痴が消滅して慧に転換した境地

また、他の用語で表現するならば、次のように言うこともできるであろう。

① 情欲が消滅して具足戒(無相戒)に転換した境地
② 嫌悪が消滅して不動心に転換した境地
③ 迷妄が消滅して清浄心に転換した境地

さらに平易な表現では、次のように言ってよい。

① まったく、きょろきょろしない境地
② まったく、いらいらしない境地
③ まったく、じたばたしない境地

さて、ニルヴァーナの境地では次のようなことが体現される。

● いずこからか不意にやって来る衝撃音や怒声、罵声にまったく驚かない(どきっとしない)
● 突然、目の前に飛び出た衝撃的映像にまったく驚かされない(ひやっとしない)
● 顔が触れ合うほどの至近距離に、他人が近づいてきても嫌でない(ぞわっとしない)
● 全世界において嫌いな人が一人もいないと確信する(親族や我が子のように見える)
● 他の人の行為に、影響を受けない(おののかない,じれない,せかされない)
● 他の人の行動に、いかなる悪意をも見出せない(悪意が何かさえ思い出せない)
● 他の人の表情に、嫌な顔を見出せない(誰の顔をも目をそらさずに見つめることができる)
● 他の人の表情に、真実の笑顔を見出せない(目が笑っていないと感じる)
● 他の人のくすぐりなどに、煩わされない(自分でくすぐっているのと同じ)
● 争いに巻き込まれることが無くなり、また他の人々の争いを見かけることも無くなる
● (大好きだった人も)お酒を一滴たりとも飲めなくなる(気取りではなく、本当に飲めない)
● あらゆる味わいが余韻を残さず、同時に嫌な味も無い(味や旨みは正常に分かります)
● 時間の遅延、停滞が気にならない(例えば、予想外の渋滞に巻き込まれても平気)
● 過去に為したことについて、気にやむことが一切無くなる(くよくよしない)
● 未来のことについてとくに思い悩むことがない(あくせくしない)
● 身体の中心軸が通り、重心が安定し、つまづかない(動作が基本的に対称的になる)
● ため息をつくことが出来ない(演技さえ出来ない)
● (時を経て)声が響く声になる
● (時を経て)瞳が透き通ってくる
● すべてがそれしかないぴったりのタイミングで起こる
● [諸天および神々が何としてでも仏を守護する]

つまり、ニルヴァーナの境地とは(悪しき、余計な、煩いを生じるような)識別作用が滅尽し、完全にくつろいだ、ときほごされた、怒ることのない、一切と争わない境地である。  したがって、いかなる手段を以てしても、ニルヴァーナの境地に至った人を驚かせたり、動揺させたり、怒らせたり、争ったりすることはできない。

また、ニルヴァーナの境地は、一旦そこに至ればその後は一瞬たりとも途切れることなくその人を安穏たらしめる境地であり、ニルヴァーナを知る人は一瞬たりともニルヴァーナ以外の境地に堕して住することはない。 つまり、ニルヴァーナの境地を維持するために継続して行うべき世間的な努力は何も必要無い。 ニルヴァーナの境地は、人類が作為せざる一大事因縁によってのみ顕現する出世間の境地であり、それゆえに一旦そこに至ればあらゆる世俗のことがらから正しく離れることができる境地であると知られるのである。

以上引用です。ニルヴァーナの境地(覚りの境地)に具体的にわかりやすく述べられています。これほど具体的に表現できるのはSRKWブッダが本物だからでしょう。


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ヘレン・ケラーの伝記映画「奇跡の人」で「慈悲喜捨」を正しく理解できないことを教える

ワン爺さんの独り言(2017.1.6.)
「慈悲喜捨」を正しく理解することは覚りの境地に至った人だけにしかできないことを、SRKWブッダはヘレン・ケラーの伝記映画「奇跡の人」の例で説明しています。以下それを引用します。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou001_sub.htm

【奇跡は?】

慈悲喜捨の何たるかは、覚りの境地に至った人には自明のことでありますが、未だその境地に至らない人にとっては見当もつかないことでありましょう。 ところで、そもそも”分かる”とはどういうことなのでしょうか。 以下では、その”分かる”ということについて説明します。

[ヘレン・ケラー]
先ず、家族でテレビ映画をみていたときのエピソードをご紹介したいと思います。 その映画は、ヘレン・ケラーの生涯を綴った伝記ドラマで、”奇跡の人”という題名でした。 映画では、全編にわたって彼女の前向きに生きる積極的な態度と明るい振る舞いがユーモラスに、そしてときにはしんみりと演じられていてとても感動的でした。 さて、映画が終わりキャストを紹介する字幕の文字(スタッフ・ロール)が画面に流れているときのことでした。

一緒にみていた当時7歳の娘が、ぽつりと言いました。

 ”奇跡はどこ?”

そうです。 娘には、「奇跡」という言葉の意味がまったく分かっていなかったのです。

 ”奇跡は映画の全部だよ”
 ”映画のどこをとっても奇跡の連続だったよ”

と言い聞かせようにも、それは全くらちの明かない空しい行為と思われました。 娘は、”奇跡”という名のまったく別のものを期待していたのは明らかであったからです。

慈悲喜捨の理解も、同様です。 人情や人情のエッセンスとして作り上げられた人為的感動にとらわれている人々(衆生)には、慈悲喜捨を理解することはできないでしょう。 人智にとらわれている人々(衆生)には、仏智(慈悲喜捨のこころ)を知ることは本来的に絶望的です。 そして、それは年端もいかない子供が”奇跡の人”の意味を理解できないことと同様に、無理からぬことなのです。

ここで大事なことは、覚りに至ることによって慈悲喜捨のこころが顕現する訳では無いということです。 むしろ、逆だと考えなければなりません。 つまり、慈悲喜捨が分かる人のみが覚りに至り、その時に自分自身が本来持っていた慈悲喜捨のこころそのものが仏のこころであることに思い至るからです。

”奇跡”の本当の意味を分かっている大人だけが、映画”奇跡の人”を全編にわたって感動とともに鑑賞できるように、慈悲喜捨の本当の意味を(そうとは知らずにですが)分かっている人だけが慈悲喜捨の境地に至るのです。 実際のところ、”奇跡”という字面にこだわってしまうと”奇跡”の本当の意味を見失ってしまうように、慈悲喜捨についても字面にこだわっている間はそれを真実に理解することはできないのです。 しかしながら、たとえ”奇跡”という言葉は知らなくても、ヘレン・ケラーを人間としてこころから尊敬できる人でありさえすれば、映画”奇跡の人”を正しく鑑賞することができるに違いありません。 そのことに、疑いは無いでしょう。 それと同様に、慈悲喜捨という言葉は知らなくても、苦しむ衆生とこの身が入れ替わっても良いと思うほど衆生と自らの立場を平等に観じ、かつ苦しむ衆生の根底にあるそのこころに尊敬の念を抱く人こそが、慈悲喜捨の本当の意味を知ることになるのは間違いないことなのです。 いかなる人を見ても非難せず、争わず、しかもその人を無視することなく正しく関わる人。 そのような人こそが、究極において慈悲喜捨を正しく理解する人になるであろうと言えるのです。

以上引用。


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慈悲喜捨

ワン爺さんの独り言(2017.1.5.)
SRKWブッダのHP「覚りの境地」(http://www.geocities.jp/srkw_buddha/)の「素質」の欄の次には「理法」の欄があります。「理法」とは何かSRKWブッダは次のように述べています。
「慧解脱者がいろいろと語るように見えるのは、すべて一つのことを対機に、言語表現として語った結果に過ぎない。もろもろの如来が説くことは一つである。それが正法である。他の理法(ことわり)は、正法を説くために援用して語っているのである。」つまり、正法を理解できるように説く言葉が理法ということになります。

という訳で、正法を理解するために、SRKWブッダの理法について調べていきましょう。今回はその一「慈悲喜捨」です。テーラワーダ仏教で学んだ「慈悲喜捨」とは少し異なりますが、ここは素直に学んでみましょう。

以下引用。

【慈悲喜捨】

慈悲喜捨は、完成された円かなるこころ(完成された完備なこころ)の4つの側面です。したがって、慈悲喜捨なるこころに生きることは、覚りの境地に至った人の行為そのものであると言ってよいでしょう。

慈:慈しみの心。相手に今それを完全な形で与えることが本当は無理であろうということを承知の上で、それにもかかわらずより最高のものを与えようとする其の心。ものおしみ(飢渇)を制した其の心。

悲:世の中には「そのような悲しみ(煩悩)」があることを如実に知って、不誠実な行為(例えばひけらかすこと)をしない決心をする其の心。 高ぶり(妄執)を制した其の心。

喜:大事な局面において、相手が喜び、自らも喜び、目撃した人(ギャラリー)も喜び、伝え聞いた現代の人々および未来の人々も喜び、かつ賞賛するであろうという随時の確信を以て行為する其の心。見下し(嫌悪)を制した其の心。

捨:自らをあらゆる点において捨て去ることによってのみ完成する、やさしさの究極である其の心。愛著(欲望)を制した其の心。

最初に書いたように、慈悲喜捨を正しく理解することは覚りの境地に至った人だけにしかできないでしょう。 なぜならば、慈悲喜捨は覚りのこころそのものであるからです。したがって、未だ覚りの境地に至っていない人(衆生)がそれを真実に理解することは実は不可能です。それは例えば、(世間的な)喜怒哀楽の真実は、大人には理解できても子供には本当には理解できないことに似ています。それと同様に、人々(衆生)は誰しも、(世間的な)喜怒哀楽については深く理解しているでしょうが、(出世間の)慈悲喜捨はそのような人間的な心の単なる延長上には無く、またそれは人々(衆生)が推量できるあらゆることのいずれにも属さないものであるゆえに、それを人々(衆生)が理解するよすががありません。したがって、慈悲喜捨について覚りの境地に至った人が人々(衆生)にどんな説明をしたにせよ、その真意が人々に(直接に、直ちに)理解されることは無いでしょう。

ところで、慈悲喜捨は、その行為が為された後においてのみその真意が理解され得る性質のものです。その様は、例えば赤色という色全体を理解してもらうために予め用意した赤色の幾つかのサンプルが、相手が赤色全体を理解して初めて、それらのどれもが赤色の良いサンプルであったことを後づけで了解することに似ています。つまり、相手が赤色全体を理解しない間は、それらのサンプルが何を意図して提示されているのかという基本的なことさえ相手には理解されないことでしょう。なお、すでに赤色を知っている人が決して手を抜いている訳ではありませんが、言ってみればそのような適当なサンプルしか予め示せないのは、赤色を知ることを欲しているそれぞれの人が、具体的にどの赤色で赤色全体を理解するかということを前もって予測することが誰にもできない性質のことであるからです。

それと同様な事情から、如来が人々(衆生)に対して行う慈悲喜捨の説明も、それについて適当に用意したいくつかの譬えを無作為に示すしか現実的な方法が見あたりませんが、慈悲喜捨は確かに存在するこころ(の働き)であることは間違いないことです。人が覚りの境地に至ったとき、その人が慈悲喜捨が虚妄ならざる真実のこころであることを後づけで理解することは間違いないことであるからです。 そして、その様は、年端もいかない子供が初めて一つの赤色を正しく理解したときに、それと同時にすべての赤色を正しく理解するのだと断言できることと同様です。それが起こるとき、それは一瞬間の出来事ですが、その一瞬間を境にその子供はおよそ世の中に存在するすべての赤色を残らず理解することでしょう。 そして、その理解は、何かを順次覚えていった結果として段階的に生じるのではなく、そのときがまさに到来したときに一挙にその理解が起こるという性質のものであるのは疑いのないことです。同様に、人がブッダのこころを理解するのも一瞬間の出来事(頓悟)であり、そのときを境にその人はすべての覚りを理解することでしょう。

以上引用終わります。この引用文のあとに、捕捉説明がありますが、かえって難しくなりますから、ここでは引用しません。詳しく知りたい方は次のアドレスを参照して下さい。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou001.htm


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人は、それをこころから望むならば、誰でも覚りの境地(=ニルヴァーナ)に至り得る。

ワン爺さんの独り言(2017.1.4.)
今日はSRKWブッダのHP「覚りの境地」(http://www.geocities.jp/srkw_buddha/)の「素質」の欄を紹介します。「覚りの境地は、虚 妄ならざる安らぎである。この境地に至ったならば、一切と争うことがない。この境地に至った ならば、憂いがない。こころある人は、他ならぬ自らによって道を見いだし、歩み行きて、 因縁を生じ、この不滅のニルヴァーナに到達せよ。」とはじめに書かれていますが、多くの人々は「覚りの境地」を求めていないように思います。さらに、「覚りの境地」を得られるものならば、得たいものだと思っている人も、自分にはそのような素質がないと思っている人も多いと思います。そこで「覚りの境地に到る素質」とはどのようなものか知る必要があるのです。

以下引用。
【素質】
 人は、それをこころから望むならば、誰でも覚りの境地(=ニルヴァーナ)に至り得る。したがって、覚りの素質などというものは何ら存在していない。しか しながら、実際には、世において覚りの境地にすみやかに至る人とそうでない人がいるのは厳然たる事実である。この事実を鑑みて、すみやかに覚りの境地に 至った人には何らかの素質があったのだと後づけで認められ、(死ぬよりも前に)ついに覚りの境地に至らなかった人には素質が無かったのだと認めざるを得ないであろうと言うのであるならば、その時に限り、その意味においてのみ<覚りの素質>ということを論じることができるのである。

<覚りの素質>とは、一言で言えば素直な人であるかどうかということである。なんとなれば、素直な人だけが、ことに臨んでその素直さゆえに善なる行為を 為し遂げるのであると言えるからである。かれのその行為は、自分ならざる如何なるものにも依拠することなく為されたものであり、それは(強いて言えば)かれ自身のこころの奥深くから突き上げてくる「それ(=真如)」によって発動したものである。それは、およそ人(=衆生)なれば誰しもが執著するところのあらゆる心理的障礙を超えて為される行為である。それは、人を超えた真実の行為に他ならない。それゆえに、それを為し遂げた本人でさえ、行為の本当の理由(行為の動機たる潜在的素因とも言うべき「それ(=真如)」)の真実を説明することは出来ないのである。それどころか、かれは、自分が為し遂げた行為の本 当の意味に気づくことさえない。「それ(=真如)」の発動は、不可思議なる因縁によるものであるからである。

<覚りの素質>に関する具体的記述は、例えば法華経-方便品第二の中に見ることができる。そこでは、生まれながらにしてすでに発心している人、あるいは この世において発心し、今生において間違いなく覚りの境地に至るであろう<素質ゆたかな人>の特徴を次のように記している。

以上引用終わりますが、法華経-方便品第二の該当する部分については、PH[覚りの境地]を参照して下さい。
また、六祖慧能による覚りの素質の説明も紹介されています。

要するに、人は、それをこころから望むならば、誰でも覚りの境地(=ニルヴァーナ)に至り得る。したがって、覚りの素質などというものは何ら存在していないということであります。また、別の言い方をすれば、覚りの素質とは、一言で言えば素直な人であるかどうかということであるということであると思います


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この世には、世俗の中にありながら、ときとして<真理の言葉>を発する人が現れる。

ワン爺さんの独り言(2017.1.3.)
今日はSRKWブッダのHP「覚りの境地」の「善智識」の欄を紹介します。
善智識とは正法の核心です。解脱のメカニズムを明らかにするものです。これほどまでに解脱のメカニズムを明らかにしたブッダはSRKWブッダが初めてはないでしょうか。ではその内容を以下に引用します。

【善知識】
 この世には、世俗の中にありながら、ときとして<真理の言葉>を発する人が現れる。この<真理の言葉>は、それを聞いて、その意味するところを知る人が あるならば、かれをして不滅の安穏(=ニルヴァーナ)へといざない、導き、至らしめる働きを為す。世にも不思議な、稀有なる働きゆえに、この<真理の言 葉>を<善知識>と名づけ、同時にその言葉を発したかれ自身も善知識と呼ぶのである。

 善知識は、他の人に好まれる一言を与えようと思って計らう人ではない。なぜならば、善知識は、他の人に期せずして善なる道(=覚りの境地に通じる道)を 与えてしまう人のことであるからである。そして、この善知識が発する<真理の言葉>、すなわち<善知識>それ自体も決して特別な言葉では無く、ごく平易な言葉として語られるものであり、何気ない一言として発せられるのである。したがって、<善知識>は、たといそれがまさしく発せられて、誰かがそれをまさしく聞き及んだとしても、かれに直ちに感激を与えるような言葉では無い。しかしながら、<善知識>は、「それ(=真如,=覚りの境地,=覚者)」の実在をこころに知っている信仰篤き人々に、それがそうだと知られることになるのである。なぜならば、<善知識>は、かれらにこの世における最も美味なる味わいをも たらすからである。<善知識>は、それが発せられた局面に立ち会ったすべての人々を誰一人として悲しませることの無い言葉として特徴づけられ、誰ひとりとして後悔の念を生じることの無い完全な結末をもたらす。けだし、<善知識>こそ世における法(ダルマ)の現れに他ならないからである。

 ところで、善知識は覚りの境地に至ることを目指す人が自分自身で見いださなくてはならない。他の誰かが、「あの人がそうですよ」と指し示してくれる訳で はないからである。しかしながら、もし人が、心構え正しく、よく気をつけて、善なるものの真実を知ろうと熱望するならば、かれはついにその人(=善知識) を見いだすであろう。

 こころある人は、善知識はまさしくこのようにして見いだされるのであると領解せよ。

以上引用終わり。
昨日引用したサンユッタ・ニカーヤ(相応部)の二つの言葉は、善智識の善き人々(善友)と「法の句(真理の言葉)」について、ゴータマ・ブッダが述べられたものであります。また、一昨日引用した法華経第二品の「諸仏世尊はただ一大事因縁によってのみ世に出現したまう」はこのことを述べたものなのです。


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善き人々と共に居れ。善き人々とだけ交われ。(与えること)よりも「法の句」のほうがすぐれている。

ワン爺さんの独り言(2017.1.2.)
今回はサンユッタ・ニカーヤ(相応部経典)から、SRKWブッダが正法として引用された次の二つの文章を紹介します。

「そなたらは、すべて、順次みごとに詩をとなえた。しかし、わたしの詩にも耳を傾けよ。ただ、善き人々と共に居れ。善き人々とだけ交われ。善き人々の正しい理法を知ったならば、すべての苦しみから脱れると。」

「そなたらのどの詩も、すべて、順次みごとにとなえられた。しかし、わたしの詩にも耳を傾けよ。信仰をもって(与えること)が、実にいろいろと讃めたたえられた。しかし、(与えること)よりも「法の句」のほうがすぐれている。昔の善き人々、それよりも昔の善き人々も、智慧をそなえて、ニルヴァーナにおもむいたと。」

同じサンユッタ・ニカーヤ(相応部経典)に次のような話があります。
「ある日、アーナンダ尊者がお釈迦さまにこのように言いました。
善友がいること、善友といっしょにいること、善友とつきあうことによって、仏道の半分が達成できると思いますが、いかがでしょうか。これに対し、お釈迦さまはこのように説かれました。
アーナンダよ、そうではない。善友がいること、善友といっしょにいること、善友とつきあうことによって、仏道の半分ではなく、仏道の全てが完成するのです。」
この話しは仏教における善友(善き人々)との親交の重要性を語ったものです。

始めに引用した二つの文章は、善友(善き人々)と親交することの意義を細かく語ったものです。
SRKWブッダのホームページの「正法」欄の次に「善智識」の欄が設けられていますが、そこには善友(善き人々)及び「法の句」について述べられています。これが理解できれば、何が正法なのかわかるのです。それまでは正法とは何かは分からないはずです。


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諸仏世尊はただ一大事因縁によってのみ世に出現したまう(法華経方便品第二)

ワン爺さんの独り言(2017.1.1.)
明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。
今回は大乗仏教の経典からの正法の引用について述べてみます。
「諸仏世尊はただ一大事因縁によってのみ世に出現したまう(法華経方便品第二)」、この偈が正法の始めに引用されていますが、この言葉を解説するという訳ではなく、私がこの言葉が正法だったのかという因縁話しをしたいと思います。

私がテーラワーダ仏教にめぐり会う前は、日本で仏教と言えば大乗仏教だったのです。仏教に興味を持った私は般若心経の次に法華経も読みました。法華経を読みますと、私の印象では「この経には一番大切なことが書いてある。」と繰り返し述べられているように思いました。そこで私は何度も一番大切なことは何だろう?」と繰り返し読みました。しかし、法華経には一番大切なことが書いてあるとだけ繰り返し書いてあり、その内容は書いてない経だと思っていました。

しかし、2014年にSRKWブッダのホームページ「覚りの境地」
(アドレスhttp://www.geocities.jp/srkw_buddha/
にめぐり会って、「正法」の欄を読み、法華経の中の大切なこと(正法)が「諸仏世尊はただ一大事因縁によってのみ世に出現したまう(法華経方便品第二)」であることを初めて知りました。

実は、私は仏教を勉強するなかで、禅にも興味を持ち、中川孝著「六祖壇経」(タチバナ教養文庫)を読んでいたのですが、その中に法華経の中の大切なことを、禅の六祖である恵能が法華修行者の法達という僧に教える記事が書かれていたのです。私はそれを見逃していたのですが、そのことも「覚りの境地」を読んで初めて気づかされました。

この法達は六祖恵能に「和尚よ、私は『法華経』を7年読誦しておりますが、いつも心に疑問があります。また正しい教えのところがわかりません。和尚は智慧が広大であらせられます。どうか私のために疑いを解決して下さい。」と頼みます。恵能は「『諸仏世尊はただ一大事因縁によってのみ、この世に出でたもうた。』正しい教えはこの十六字である。(漢文では十六文字)この教えは、どのように理解し、どのように修行したらよいか。よく注意して聞きなさい。君のために解説してやるから。」と述べられた。法達は恵能の教えを聞くや、その言下に大悟し、感激の涙にむせんだそうです。このように「六祖壇経」に書かれていたのです。私は改めて、その箇所を読み直し、そうだったのかと思いました。正法はわかる人にしかわからないものだなと知りました。


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