「すぐれた言葉」及び「すぐれた言葉(2)」

ワン爺の独り言(2017.3.27.)
SRKWブッダは「すぐれた言葉」と「すぐれた言葉(2)」を述べておられます。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou071.htm
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou071_sub.htm


(以下引用)
【すぐれた言葉】
同じ内容のことを語るのであるならば、耳にさわるような荒々しい汚い言葉を語るよりは、耳に心地よい、穏やかな、清らかな言葉を語る方がすぐれている。

たとい、それが、怒りやすく恨みをいだき、邪悪にして、見せかけであざむき、誤った見解を奉じ、たくらみのある賤しい人が語った言葉であるとしても、もし語られた言葉が耳に心地よい、穏やかな、清らかな言葉であったとするならば、その言葉を口にした本人だけに留まらず、それを耳にし、あるいは伝え聞いた人々に少なくとも世間的な意味においての利益を、場合によっては出世間の意味においてのすぐれた利益さえも、もたらすのは間違いないことである。

そして、もしそのようなすぐれた言葉が、こころ正しき人から語られたのであるならば、それは人をして覚りの境地に至らしめるという最上の利益を人々に与える言葉を含んでいると期待され得るのである。

それゆえに、覚りの境地に至ることを目指す人は、せっかちで怒りにまかせた言葉、思わせぶりな言葉、(他の人からの)賞讃を望んで語られるような言葉などの、いわゆる心にもない言葉を語るという愚かなことをつつしんで、敢えて言葉を発するときには、それを語り終えてのち自分と相手の両方の心を二つともに安んじる(見事に語られた)すぐれた言葉をこそ語るべきである。

語ってのち、人の心を安んじてこそ、すぐれた言葉はまさしく正しく語られたのである。


【すぐれた言葉(2)】
人が、他の人に対して何かを語るとき、同じ内容のことを語るのであるならば、耳にさわるような荒々しい汚い言葉を語るよりは、耳に心地よい、穏やかな、清らかな言葉を語る方がすぐれています。

たとい、相手が、怒りやすく恨みをいだき、邪悪にして、見せかけであざむき、誤った見解を奉じ、たくらみのある賤しい人であったとしても、あるいは相手がそのような人だと感じられたとしても、自らが語るその言葉が(相手の)耳に心地よい、穏やかな、清らかな言葉であるならば、その言葉を口にした本人だけに留まらず、それを耳にした相手にとっても、そしてそれを伝え聞いた人々にとっても、善き利益がもたらされるのは間違いないことであるからです。

そして、もしそのようなすぐれた言葉が、心正しき人から心正しき人に向けて語られたのであるならば、それは人をして覚りの境地に至らしめるという最上の利益(りやく)を人々に与える言葉を含んでいると期待され得るのです。

それゆえに、覚りの境地に至ることを目指す人は、この理と利益とを知って、せっかちで怒りにまかせた言葉、思わせぶりな言葉、(他の人からの)賞讃を望んで語られるような言葉などの、いわゆる心にもない言葉を語るという何ら益のないことをつつしんで、敢えて言葉を発するときには、それを語り終えてのち自分と相手の両方の心を二つともに安んじる(見事に語られた)すぐれた言葉を語るべきだと言えるのです。
(以上引用)


※ワン爺のコメント
「すぐれた言葉」と「すぐれた言葉(2)」はほぼ同様の文章なので、よく読まなければその違いが分からない。
どちらも「耳にさわるような荒々しい汚い言葉を語るよりは、耳に心地よい、穏やかな、清らかな言葉を語る方がすぐれている」ということでありますが、その違いは文章の第2段落にあります。その違いは「すぐれた言葉」を話す人か或は「すぐれた言葉」を聞く人であるかという点であります。すなわち、それを語り終えてのち自分と相手の両方の心を二つともに安んじる(見事に語られた)すぐれた言葉を語るべきだと言われるのです。


~~~~~~お知らせ~~~~~~
◎このブログ記事が参考になったと思われた方は右上の仏教バナーを一日一回クリックして下さい。そうすると、仏教ブログのランキングが上昇します。ランキングが上昇すると閲覧者が増えると思われるからです。御支援をお願い致します。


この記事へのコメント