「正直な感想」は「直ぐなる心の発露」にほかならない

ワン爺の独り言(2017.6.6.)
それが当たっているかどうかはさておき、正直に感想を述べることはつねに称讃さるべきことであると言ってよいのである。このようにSRKWブッダは言われる。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou131.htm


(以下引用)

【正直な感想】

それが当たっているかどうかはさておき、正直に感想を述べることはつねに称讃さるべきことであると言ってよいのである。けだし、正直さは直ぐなる心の発露に他ならないからである。

人は、直ぐなる心によって道を見いだし、ついに円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)へと至る。それゆえに、直ぐなる心は称讃されるのである。

ことわり知るこころある人は、正直な言動を耳にしたならば、それがどのような人から発せられたものであるとしても、その言葉をよく恕(じょ)して、自らの省察の糧とすべきである。

それをまさしく耳にしたことは、実にめぐまれたことであるからである。


[補足説明]
維摩経では、直き心について次のように述べています。

●──直き心はすなわち菩薩の浄土である。菩薩が仏になったときに、へつらわない衆生がやって来てその国に生まれるであろう。 (中略) このように菩薩はその直き心をおこしたのに随って、その行いをおこし、その行いをおこしたのに随って深い願いをおこし、その深い願いをおこしたのに随って意(こころ)をととのえ、意(こころ)をととのえたのに随って説かれたとおりに行い、説かれたとおりに行ずるのに随って功徳を廻向し、その廻向するのに随って方便あり、その方便がおこるのに随って衆生を完成し、衆生を完成するのに随って、その仏国土が浄らかになる。その仏国土が浄らかになるのに随って、説法が浄らかになる。その説法が浄らかになるのに随って、その智慧が浄らかになる。その智慧が浄らかになるのに随ってその心が浄らかになる。その心が浄らかになるのに随って一切の功徳が浄らかになる。この故にもしも菩薩が浄土を得ようと欲したならば、その心を浄くすべきである。その心が浄くなるのに随って、その仏国土が浄らかになる。 ──

(以上引用)


※ワン爺のコメント
「へつらわない衆生」という言葉は、「観」に関する理法の中で、次のように説明されています。

[平等観]
衆生を対象とした観において、平等を極めるならばついには平等心(本来清浄心:完成された発菩提心)を得ることができるであろう。この観の終着点において、「衆生」と「ブッダ」は互いに平等の地位と尊厳とを確立するに至る。 この観において、衆生は完璧に死ぬことで完全に生かされ、ブッダは完璧に生きる(真に目覚めている)ことで分別を超えた喜捨の本当の意味を理解するに至るのである。

このとき、衆生はブッダに全面的にすがりつき、一方ブッダは衆生を全身・全霊で受け止めると同時に、甘んじて苦を受け止めている完成された衆生(へつらわない衆生と名づく)をこころから尊敬することとなる。 

ここに至って、観を行っている人は、ブッダの立場も衆生の立場もどちらの立場も究極においては対等で変わりが無いことに気づき、自らの立場としてどちらを選択してもよいとさえ思うのである。 すなわち、どちらの立場も、究極では優劣を付けられない平等なレベルでのこころの充実と尊厳が安立していることに気づくのである。 これを、完成された平等観と名づく。 この完成された平等観を知ることが覚りに向けた観の主たる目的であり、そのようにして自ら得たこころこそが完成された発菩提心(ほとんど菩提心そのものと言ってもよい)に他ならない。 なお、この観を行う人はあくまでもブッダの立場に立って観ずるべきである。 決して誤って衆生の立場に立ってはならない。 この観によって、ブッダの行為のもといが培われるのである。


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