因果と縁起と真如

ワン爺の独り言(2017年7月19日)
「因果を確定することは実はできない。それゆえに、因果(因果律)によってことの真相を知ろうとしても、それは無理なことなのである。」というSRKWブッダの言葉を知る必要があると思います。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou166_sub.htm


(以下引用)

【因果と縁起と真如】



因果は、ここに明らかな果(結果)があり、あれがまさしくその因であったと当事者に確信され、また第三者から見てもその(当事者が確信した)あれがまさしくその因であると考えられるという場合においてさえ、因果を確定することは実はできない。それゆえに、因果(因果律)によってことの真相を知ろうとしても、それは無理なことなのである。



その一方で、縁起は、ここに明らかな報(結果)が顕れ、あれがまさしくその縁であったと当事者に確信された場合、その(当事者が確信した)あれが真実に縁であったと正しく確定され、それが覆ることはない。それは、第三者に認定してもらう必要のないものであり、決して妄想ではなく自分自身の心に確かな頷きをもたらすものである。したがって、縁起の考察によってことの真相に迫るならば、それは少なからぬ利益(りやく)をもたらし、ひいては快・不快や善悪などの世の軛を超克する機縁ともなる。



ここなる人が何者であるか。それはかれ(彼女)が為す行為によって知られることになる。その一方で、自分が何者であるかを知りたい人は、自分のまわりにどのような人が集い、どのようなことが起こるかを見ることによって知ることができるであろう。それを正しく知ったとき、つまりその真実のすがたを見たとき、かれ(彼女)は世の一切の軛を超克している自分自身を発見することになるのである。



他人であれ自分であれ、為し終わった行為を褒めても責めても許してもそれは時間つぶしに過ぎず、解脱の機縁とはならない。しかしながら、他人であれ自分であれ人の行為の根本の「それ」(=縁起)を見るならば、それが解脱の因(=直接の要因)となる。人は、真如によって縁起を見るからである。



こころある人は、自らの心構えのありようを誤ってはならない。 正しい省察によって、道の歩みを浄めかし。

(以上引用)



*ワン爺のコメント
「因果を確定することは実はできない。」ということは、この世の現象は多くの要因が積み重なって起きるからです。それらの要因の全てを知ることができません。特に潜在意識の事柄など知ることができません。ですから、因果を確定できないのです。一方、縁起は多くの要因のどれか一つでもそれは縁起になります。自分がある事柄が起きたとき、これが重要な要因だったと確信できれば、それは縁起になるはずです。

ただ、ここで重要なことは、「人は、真如によって縁起を見るからである。」ということです。人の心には煩悩がありますから、人は普通、真如によって見ることができませんから、縁起を見ることができないということになります。

このブログではSRKWブッダの理法「縁起」については引用しませんでしたから、この際次のアドレスの「理法」をお読みください。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou035.htm


また、真如については次のアドレスの理法を参考にしてください。
真如とは素直な心なのですが、それを理解するためには「名称と形態」を理解する必要があるのです。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou006.htm#sinnnyo






この記事へのコメント

Satya
2017年07月19日 18:23
智慧が生じたとき、あれが真実に縁であったと正しく確定され、それが覆ることはありません。

そして、真如と智慧の違いも知ることになります。