因縁を生じるとき生じないとき

ワン爺の独り言(2017年8月27日)
覚りは因縁によって起きるものであるので、因縁とは違うもの、成長(段階の説)と物語(起承転結)などに基づいて修行しても、実りはないとSRKWブッダは言っているのだと思います。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou203.htm



(以下引用)


【因縁を生じるとき生じないとき】



この世のことがらは、すべからく因縁にもとづいて起こる。人がよき処に赴くのも、悪しき処へ赴くのも、そしてまったきやすらぎ(=ニルヴァーナ)に赴くこともそうである。



因縁の現れは、まるで唐突に起こる。それゆえに、そうでないものは因縁とは違うものであると知られることになる。具体的には、成長(段階の説)と物語(起承転結)などが因縁ならざるものである。



人が段階の説や起承転結に浴し耽溺している間は、覚りの因縁を生じることがない。彼らは、ただ人生を無為に過ごしているのである。そして、それをそのように為さしめているものの正体が悪魔とその軍勢なのである。悪魔とその軍勢は、この世には因縁がまるで無いものであるかのように見せかけている。悪魔とその軍勢は、人々を歓喜の渦に巻き込み、喜怒哀楽の波間に漂わせているのである。 けだし、そうすることが悪魔とその軍勢が自らの住み場所をつくることであるからである。



人が、次のように思い考えている間は因縁を生じることがない。



『私はこれだけのことを知っている。それゆえに、私はさらなることを知ることがであろう』

『すべて起こったものは、確固たるかたちで(有形無形の財産として)残るのであるな』


『私はこれだけのことを為した。それゆえに、私には何か(よいことが)が起こるであろう』

『すべて起こったものは、なるほどそうかというかたちで帰結するのであるな』



しかし、人が次のように考え思うならば覚りの因縁を生じるであろう。



『私はたったこれだけのことさえもはっきりと知らない。それでも、私は真実を知りたいと思う』



それらはまるで唐突に起こることであるが、それがまさしく起きたとき人は発心し、また解脱するのである。そして人は、この世のことがらが、すべからく因縁にもとづいて起こるものであることを知るのである。


(以上引用)



*ワン爺のコメント
私は、この理法で着目した点は次の文章です。

「因縁の現れは、まるで唐突に起こる。それゆえに、そうでないものは因縁とは違うものであると知られることになる。具体的には、成長(段階の説)と物語(起承転結)などが因縁ならざるものである。」

SRKWブッダは覚りはまるで突然に起こることを体験されたので、因縁によって起こると述べられておられるのです。もちろん、法華経などの経典で検証されておられます。

そのようなものを、因縁以外の成長(段階の説)と物語(起承転結)などの考え方で修行すると、それが覚りの妨害になると指摘しているのです。

公案も因縁によって解けるもので、成長(段階の説)と物語(起承転結)などの考え方で解けるものではないのでしょう。

私はSRKWブッダの公案「一円の公案」を2年ほど前から、それを解こうと挑戦して、すでに38回目の回答を提出していますが、未だに解けていません。多分、成長(段階の説)と物語(起承転結)などの考え方をしているのでしょう。しかし、先日(8月2日)に掲載した「観(=止観)のヒント」という理法の中の公案について、何気なくその回答が頭に浮かびましたので、提出したところ一回で通過しました。まさに唐突です。これが因縁というべきものだと思いました。

8月2日のブログ記事のアドレス:http://76263383.at.webry.info/201708/article_2.html

「一円の公案」については次のアドレスを参照してください。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/kouann_itiennno_kouann.htm


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