観の奥義

ワン爺の独り言(2017年11月15日)
「観の奥義」をSRKWブッダが教えてくれると喜んではいけません。これがなかなか難しいのです。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou275.htm


(以下引用)

【観の奥義】

人を覚りへと近づけ至らしめるこの一なる道には、いかなる教義も存在していない。 仏道は、宗教ではないからである。 しかしながら、観(=止観)の完成については、それを敢えて奥義として弟子達に授けることはできるのである。 それをここに述べたいと思う。 SRKWブッダに縁のある人は、この奥義によって自らの観を完成させよ。

SRKWブッダの奥義:

知らぬ間に大火傷を負ってしまった人がある。 かれは、頭から熱い油をかぶってしまったので目も見えなくなり、手足さえもままならない状態となった。 傷に触れるだけでも激痛が走ってしまうので、治療することもできない。 風が揺らいでも痛みがあるほどだ。 しかしながら、かれ自身は自分がどのような状態にあるのか知ることができない。 そこで、かれは声を振り絞ってわたしに尋ねた。

 「どうなってしまったのですか? まるで状況がのみこめないのです。」

私は答える。

 「そうですか。別に大したことはありませんよ。大丈夫です。」

私は、かれに知られないように周りを牽制する。


(以上引用)


*ワン爺のコメント

SRKWブッダが教えることがらの中で、比較的理解しぬくいことの一つが観(=止観)だろうと思います。しかし、私はゴータマ・ブッダが説いた観(ヴィパッサナー)と同一のだと思っています。観をテーラワーダ仏教も大乗仏教も誤解して伝承してきたのだと思っています。

ですから、SRKWブッダに学んで観を勉強してください。このブログでも、観(=止観)に関する理法を引用しました。このブログの右側の検索欄で検索できます。

さて、この「SRKWブッダの奥義」ですが、知恵の輪を解くように色々省察してみる以外はないのでしょう。
これも一つの公案ですね。



この記事へのコメント

toshi
2017年11月15日 09:38
「人を覚りへと近づけ至らしめるこの一なる道には、いかなる教義も存在していない。」のだから、奥義と言われ喜んではいけないし、喜ぶべきものでもなく、「自らを戒めよ・・・」と述べているように聞こえます。修行者は、淡々と・・・ゆっくり・のんびりでも地道に「観」(衆生の苦を観る)の修行を続けるべきであると思います。
SRKWブッダ
2017年11月15日 11:38
奥義は、相応しい弟子に瞬時に伝授されるものである。なぜならば、これは奥義を受ける側の問題だからである。もちろん、奥義を聞いた初学の者がすぐにこの奥義を伝授出来るわけでは無い。受ける者の根本が奥義に達したとき、奥義は速やかに伝授されることになる。***