覚りに向けた努力

ワン爺の独り言(2017年11月16日)
明知が信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついてついに解脱が起こるというものですから、「覚りに向けた努力」は必要です。では努力とはどのようなものでしょうか?
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou276.htm


(以下引用)

【覚りに向けた努力】

覚りは、努力の結果としてもたらされるものではない。 しかし、覚りは何の努力も無しにもたらされることもない。 覚りは、明知が信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついてついに解脱が起こるというものだからである。

正しい学びの心を持つ人は、目的に向けて行った種々さまざまな努力が時々に応じて無駄なく望みを達成する力(その正しい流れの源動力)として働くことを知る。 そして、一見して目的とは無関係に思える努力さえもがかれの望みを達成する糧となるのである。 かれは、いかなる犠牲も払うことがなく、損なわれるものも失われるものもない。 かれは、そのようにしてついに望みを超えた究極の望みを達成することになる。

覚りに向けた努力とは、端的に表せば次のことを言う。

 「これは覚りの道とは関係ないかも知れないが、これは無駄かも知れないが、他に思いつかないからと言うわけではなく、しかし敢えて真摯に考究しようと思ったそのことがらについてその究極の相を見ようと思い、そのための考えられるあらゆることに挑戦し、その顛末と帰趨とを見極め、静けさを目指して遍歴し、安らぎの真実を見ようとすること。」

ただし、覚りに向けた努力とは、

 何かを覚えることではない
 何かを習うことではない
 何かを真似ることではない
 何かを思考(演繹・帰納...)することではない
 何かを実践することではない
 何かを願うことではない
 何かを念じることではない
 何かを祈ることではない
 何かを断じることではない
 何かを無条件に受け入れることではない
 何かを予め排他・排斥することではない
 何かを信奉することではない
 何か儀式を執り行うことではない
 何かの衣装を纏うことではない
 何かの義務にとらわれることではない
 何かの役割を果たすことではない
 何かに従属してはならない
 誰かを従属せしめてはならない
 
のであるという点に留意しなければならない。

(以上引用)


*ワン爺のコメント
この理法の最後は「覚りに向けた努力とは・・・・・ことではない」及び「・・・・・ならない」という形になっています。
これはSRKWブッダが勧める公案「どうしてもいけなければ、どうするか」と似ているような気がしました。

ところで、努力している人は、本人は努力していると思っていないかもしれませんが、外から見ればわかるものです。そのような人に二種類あるように思います。苦しみながら努力している人と楽しみながら努力している人です。

最近よく耳にする将棋の藤井聡太四段の話題では、彼は幼い時から、将棋について上達しようと努力していたようですが、それが決して苦しみながらではなく、面白くて、楽しくてしょうがないというように努力していたように思います。その時の努力には自ずと精神統一や意欲もあったに違いありません。

覚りに向けた努力は当然、苦しみながらではなく、楽しみながら行なうものでしょう。



この記事へのコメント

toshi
2017年11月16日 09:46
もし自分自身に、「覚りに向ける努力をしてきたか?」と問われたら・・・「はて?」、と考えてしまいます。・・・特段、「能力がある」人間ではなし、せいぜい自慢?できるのは、素直に「ブッダ」と言う存在に対して「尊敬の気持ち」を持ち続け、「こつこつ飽きないで、その道を歩み続けて来た」と言う事位でしょうか?・・・今考えると、それが一番の才能であり「努力」だったような気がします。