善知識出現の契機

ワン爺の独り言(2017年11月26日)
善知識という言葉は人を覚りに導く言葉を発する人及びその言葉(法の句)という二つの意味がありますが、仏教のキーワードでありますので、SRKWブッダの理法を読んで正しく理解してください。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou287.htm


(以下引用)

【善知識出現の契機】

真実を知ろうと熱望する人があって、功徳を積んで、その人がまさに疑惑を去りつつあるとき、善知識はそれにまるで呼応するかのように世に出現する。そうして、彼は善知識の真実を知って解脱することになる。これが覚りの瞬間に起こることの全貌である。

ただし、善知識はその出現を望む人があるゆえに世に出現するのではない。おそらく、それとは無関係に世に大事があればそこに出現するのである。たとえば日食や月食が、人間を喜ばせたり驚かせたり不思議がらせるために出現するのではなく、一定の天体条件が整えば対応する地球上の場所で現象が観測されるようなものである。それを見て喜んだり驚いたり不思議がったりするのは、人間側の主観的な都合に過ぎない。

善知識出現の契機もそのようである。諸仏は世に善知識を出現させるが、それは特定の人間を仏にしようとして出現させるのではない。ただ、善知識出現をありさまを眼のあたりに見て、それがまさしく正法の云う通りのことだと知る人が解脱するということである。

ところで、皆既日食を見ようと思っても、自分が住んでいる場所に起こるのは稀である。一生の間に一度もチャンスは訪れないかも知れない。現代においては日食や月食のメカニズムが解明されているので、それが起こる日時や場所が予測できるが、それが出来なかった時代に皆既日食を見ようとして見ることはほとんど不可能だったであろう。善知識出現を眼のあたりに見ることもそれと同じように難しい。自分が住んでいる場所に善知識が出現する保証は無いし、かと言って善知識を求めて闇雲に世界をうろついてもそれによって善知識に遭遇する可能性が高まるわけではない。ただ、真実を知ろうと熱望し、功徳を積む人の前には善知識が必ずや出現すると期待され得る。日食のメカニズムを知っている人が日時と場所とをうまく選ぶことができるように、功徳を積んだ人の前には善知識が向こうからやって来るのである。

(以上引用)


*ワン爺のコメント
善知識はパーリ語のカリヤーナミッタ(善友)の訳語とされていますので、善友にまつわる過去の「ワン爺の独り語(2017年1月2日)」の記事を再掲載します。


「今回はサンユッタ・ニカーヤ(相応部経典)から、SRKWブッダが正法として引用された次の二つの文章を紹介します。

「そなたらは、すべて、順次みごとに詩をとなえた。しかし、わたしの詩にも耳を傾けよ。ただ、善き人々と共に居れ。善き人々とだけ交われ。善き人々の正しい理法を知ったならば、すべての苦しみから脱れると。」

「そなたらのどの詩も、すべて、順次みごとにとなえられた。しかし、わたしの詩にも耳を傾けよ。信仰をもって(与えること)が、実にいろいろと讃めたたえられた。しかし、(与えること)よりも「法の句」のほうがすぐれている。昔の善き人々、それよりも昔の善き人々も、智慧をそなえて、ニルヴァーナにおもむいたと。」

同じサンユッタ・ニカーヤ(相応部経典)に次のような話があります。
「ある日、アーナンダ尊者がお釈迦さまにこのように言いました。
善友がいること、善友といっしょにいること、善友とつきあうことによって、仏道の半分が達成できると思いますが、いかがでしょうか。これに対し、お釈迦さまはこのように説かれました。
アーナンダよ、そうではない。善友がいること、善友といっしょにいること、善友とつきあうことによって、仏道の半分ではなく、仏道の全てが完成するのです。」
この話しは仏教における善友(善き人々)との親交の重要性を語ったものです。

始めに引用した二つの文章は、善友(善き人々)と親交することの意義を細かく語ったものです。
SRKWブッダのホームページの「正法」欄の次に「善智識」の欄が設けられていますが、そこには善友(善き人々)及び「法の句」について述べられています。これが理解できれば、何が正法なのかわかるのです。それまでは正法とは何かは分からないはずです。」

以上です。


この記事へのコメント

toshi
2017年11月26日 10:30
 私事ですが、長く原始仏典を学び「善友」と言う言葉は知っていましたが、「善知識」と言う言葉は最近知りました。・・・ブログにもあるように、「善知識」は「人を覚りに導く言葉を発する人」及び「覚りに導く言葉(法の句)」と言う二つの意味を持つ言葉ですが、修行者をして「覚り=解脱」に導く「決定的な意味」を持つ概念なので、しっかり意味・内容を学んで習得する必要があります。・・・SRKWブッダの理法では、覚りは「頓悟」(一挙に覚りをひらく)であり、それに導く重要な要素が「善知識」と言う概念です。
ノブ
2017年11月27日 04:36
高い山の頂には雪が降り積もり、遠くからでも陽の光を反射して白く輝いて見えます。
善友とはいわばこの様なものであり、たった一度の出会いが、その後の人生において絶えず輝き続けるということでは無いでしょうか。人は過去に善友と出会っている可能性があり、省察によってその光を見出すこともあり得るのでは。
物理的な距離によって、善友や如来の近くにいることが正法の言いたいことでは無いのでは無いでしょうか。
この事は、SRKWブッダの「場と道」にも述べられていることと思います。
とは言え実際に善知識に遭遇する瞬間はあるわけで、それは生きている間に成される事柄であるでしょう。
三日坊主
2017年12月10日 14:52
おひさしぶりです。このブログに通ってかなりの年月が過ぎます。今年は、少々このブログから縁遠くなっていました。善友。なかなか見つかりませんね。善友を見つけて、心に灯りをともしたいと願っています。