人が為すべきこと

ワン爺の独り言(2017年11月27日)
今回のSRKWブッダの理法で、不還と阿羅漢と仏の違いが明らかになっています。これらの違いは原始仏典を読んでも、大乗仏典を読んでも明らかではなかったものです。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou289.htm



(以下引用)

【人が為すべきこと】

人がこの世で為し遂げるべきことは、次のことである。

一つの為すべきことは、人と世の真実を明らめ(見極め)て真如の現れを見ることである。
これによって心解脱を生じ(名称(nama)の解脱を生じ)不還となる。

一つの為すべきことは、功徳を積んで因縁を生じ、識別作用の滅を見ることである。
これによって身解脱を生じ(形態(rupa)の解脱を生じ)阿羅漢となる。

一つの為すべきことは、諸仏に親近し、さらに功徳を積んで一大事因縁を生じ、一切から解脱することである。
これによって慧解脱を生じ(名称と形態(nama-rupa)の解脱を生じ)仏となる。

これらのどれか一つでも為し遂げたならば、この世で為すべきことを為し遂げたのである。


【補記】

子供らしい遊びを満喫し、子供時代に未練を残さない。これが大人になる一つのプロセスである。

子供時代からしっかりと勉強し、成長して、成人する。これがきちんとした大人になる一つのプロセスである。

よく学び、よく遊んで、温和で立派な人になる。これが「彼はおとなだ!」と称される立派な大人になる一つのプロセスである。

どれによっても大人だと認められるであろう。それでも、立派な大人になるに越したことはない。

人々(衆生)もまたそのように、不還でもなく、阿羅漢でもなく、仏となるべきである。


(以上引用)
原始仏典ではブッダ(仏)とアラカン(阿羅漢)は覚りの境地としては同等であるとして、だたゴータマ・ブッダのみをこの世界で初めて覚った方としてブッダと呼んでいます。辟支仏(独覚仏)はブッダの指導を受けずに覚った方を言いますが、これらの方は身解脱者だったのだろうと思います。一方、大乗仏典では、阿羅漢は声聞の覚者を指していて、仏と阿羅漢を覚りの境地を区別していますが、その内容の違いが明確でないと思います。今回の理法で、仏と阿羅漢と不還の違いが明らかになりました。

不還も阿羅漢も仏も、人が為すべきことですが、【補記】にありますように、「人々(衆生)もまたそのように、不還でもなく、阿羅漢でもなく、仏となるべきである。」ということです。

この記事へのコメント

toshi
2017年11月28日 10:11
 「この世で為すべきことを為し遂げる」のは大変難しい事ですが、不可能ではないと思います。・・・ただ最近、ある方とお話をしていて・・・「私たち衆生は、余計な情報を耳に入れ過ぎ「解脱への道」を歩んでいないのではないか?」と言う疑問を感じました。そして、今一度「正しい信仰」と言う基本形に戻る必要があるのではないか!と痛切に思いました。・・・「・・・それゆえに、こころある人は世間において知られるいかなる宗教にも、宗派にも、その他真理と称する何ものにも、さらに如来の言葉にさえもこだわってはならない。この世で見聞きする何に対しても、こだわらない真理探究のありようこそが、正しい信仰のかたちに他ならないからである。」(『覚りの境地』43頁)
ノブ
2017年11月28日 21:24
自分を信じて、頼り、人生を歩むなら、求めるところのものも、その様にしている事で明らかになる。こだわりを離れつつも、自分の定の乱れない確固たる自身を確立することが、道の歩みの礎になるのだと思います。
難しいですが、その様に生きたいと思える。
自分の求めるものさえ不透明な現状が、自分自身を信じる事でひらけていくのでは。