世界のどこにいようとも

ワン爺の独り言(2017年11月30日)
「世界のどこにいようとも」とは「修行者は、世界のどこにいようとも悲観するにはあたらない。」ということです。それはなぜなのか?SRKWブッダの理法を読んでみよう。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou291.htm


(以下引用)

【世界のどこにいようとも】

世界のどこにいようとも、SRKWブッダの理法を読んで真理を追究する人は間違いなく我が縁者である。その中には、弟子と認める人もある。 ただし、細君は私の弟子ではなかったように、如来の弟子だから覚りに近づき易いということはなく、別に如来の弟子でなくても充分に解脱は起こる。如来のことは脇に置いて、自分はどのようになりたいのかを追求することが立派な一つの修行となり得るからである。

覚るのに環境は関係がない。もちろん、静かであるに越したことはないが、種々さまざまな固有の人間関係が覚りの修行の障害となることはない。 むしろ、その人間関係を正常ならしめることを考究し、念じよ。それによって思い当たり、智慧を見たとき、解脱は起こるであろう。

覚るのに言語は関係がない。もちろん母国語が分かりやすいが、種々の言語を知っていることはむしろ覚りのアドバンテージとなり得るだろう。表現上、「善知識を聞いて覚る」と言うが、実際には善知識をどのように聞いたかが重要なのである。すなわち、聞き及んだ「その言葉」の真意を法(ダルマ)であると見たとき解脱が起こる。

修行者は、世界のどこにいようとも悲観するにはあたらない。

(以上引用)


*ワン爺のコメント
インターネットがある現代では、ますます「修行者は、世界のどこにいようとも悲観するにはあたらない。」ということが言えるのです。しかも、現在はスカイプもあります。SRKWブッダは熊本県熊本市に在住でありますが、スカイプでいつでも目の前でお話しすることができます。私も時々如来とスカイプでお話しさせて頂いております。また、全国の善友と気軽に話しすることができます。

ただ、残念なことは現在SRKWブッダの理法は日本語のみで書かれておりますので、日本語を読めない人々にとってはそれを知ることができないのです。もし、それを例えば英語に翻訳してくださる方がいれば、その方の功徳は測りしれないものです。その方は間違いなく菩薩です。英語の得意な方是非翻訳してください。

話は変わります。「世界のどこにいようとも悲観するにはあたらない。」は地理的なことについて述べられたものですが、時間的なことについても言えることだと思います。すなわち、人生などんな時期でも言えるのではないでしょうか。私のように晩年になって正法を学び始めましたが、決して遅かったとは思っていません。

また、人生の最悪の時期であっても悲観することはありません。私は昨日、日馬富士の引退記者会見をTVで見ました。師匠の伊勢ケ浜親方は彼の隣で泣いていました。暴力を振るったという過ちを覆すことはできませんが、「人は皆やさしい」のだと考えると、なぜあのようなことをしてしまったのかと悔やまれます。本心を狂わせる情欲のなせる技なのです。貴乃花親方も日馬富士を貶めようとして告訴したのではなく、相撲界を正そうとした行為でしょう。しかし、人々は物事を最悪な方向に向かわせます。世間的に見れば、日馬富士の前途は真っ暗です。しかし、彼がこれを契機に覚りの道に気づき、この道を進むことになったのならば、良かったと言えると思います。

この記事へのコメント

toshi
2017年11月30日 10:06
 世界のどこに居ても、「覚り=解脱」のチャンスがあると言うのは、何よりの朗報だと思います。・・・問題は、「ブッダの理法を学んで、真理を追究する気持ちを起こすかどうか?」だと思います。・・・また、「覚り=解脱」に導く要素として「善知識に聞く」と言う事があることを考えると、日頃から良好な人間関係を構築する態度は何より大事な事だと思います。・・・そう考えると、常識ある人間として、「普段(日常)から自らの環境を整え、正しい理法を学ぼうとする態度」が絶対的に必要だと言う事ですね・・・。
ノブ
2017年11月30日 18:36
「自分はどのようになりたいのかを追求することが立派な一つの修行となり得る」

自分はどのようになりたいのか。確かにそのイメージを私は持っていたけれど、それが真っ当なものだったかどうかは分かりません。清浄というものを美しいものと思っていたけれど、それが本当にそうなのか。果たして自分はどのようになりたいのかが、よく分からなくなっています。なりたい自分と今ある自分との乖離があり、それが果たして実現可能なのか、実現すべきなのか、といったようなことが分かりません。
しかしながら、余計なものの脱落した自分というのであるならば、なれるような気がします。
イメージはいつも遠く、年を重ねるにしたがって一層距離が増している気がします。青春の輝きは私たちを捨ててゆきます。世間の利欲を捨てて静けさを目指せというところの静けさとはいったいどのような処なのか、静けさとはいったい何なのか。煩いがないこと?憂いがないこと?余計なものの脱落した人生とはさぞ楽なことと思います。しかしどうにも、修行者の目指すものはそれ(楽になること)だけではないような気がするのです。美しいということはどういうことなのか、気高いということはどういうことなのか、私は明らかにしておらないのです。想いからの解脱とはいったい何なのか、想いに先導されているので、そこからの解脱となると、想像がつかないです。