善知識(化身)の出現を見るには

ワン爺の独り言(2017年12月17日)
善知識(化身)の出現の話は仏教の肝であります。それを明確に伝えているのはSRKWブッダです。その様子を具体的に知っておくことは自分自身が解脱するために必要なことだと思います。
http://www.geocities.jp/srkw_buddha/rihou308.htm



(以下引用)

【善知識(化身)の出現を見るには】

見慣れないというだけで怪訝な対応をするのは、正しいとは言えない。聞きなれないと言うだけで疑うのは、早計である。しかしながら、覚りの道のこ とについては、見慣れた光景の中にこそ、また聞き慣れた言葉の中にこそ、世に稀有なる善知識(化身)は出現するのである。修行者は、気をつけているべきで ある。

なお、善知識(化身)は世界のどこにでも出現し得る。そこに仏教徒がいなくても、出現するであろう。実際、私がそれを聞いた時、私の存在は隔離されていた (全く関係が無かった)からである。もし、そうでなかったならば、善知識(化身)の出現を見ることは無かったかも知れない。

ところで、法の句(善知識)は、本当に不可思議なものである。もし、それがそれを発した当人に由来するものであるならば、その当人が覚ることになるだろ う。しかしながら、当人はそのとき化身(一瞬の化身仏)に過ぎず、その法の句の根源(発信地)は法界であると知られるのである。

そして、法の句が法界に由来しているものであることを心底から理解したとき、慧解脱が起こる。

(以上引用)


*ワン爺のコメント
中国の慧能大師は「六祖壇経」の中で、「私が説く教えは、第一に無念をうち立てて宗旨とし、無相を本体とし、無住を根本とするものであります。」と述べておられます。SRKWブッダはそれを意識されておられたかどうかわかりませんが、今回の理法はそれに沿って述べられています。

「見慣れないというだけで怪訝な対応をするのは、正しいとは言えない。聞きなれないと言うだけで疑うのは、早計である。しかしながら、覚りの道のこ とについては、見慣れた光景の中にこそ、また聞き慣れた言葉の中にこそ、世に稀有なる善知識(化身)は出現するのである。修行者は、気をつけているべきで ある。」は、修行者は無念であるべきであると言うことです。

「なお、善知識(化身)は世界のどこにでも出現し得る。そこに仏教徒がいなくても、出現するであろう。実際、私がそれを聞いた時、私の存在は隔離されていた (全く関係が無かった)からである。もし、そうでなかったならば、善知識(化身)の出現を見ることは無かったかも知れない。」とは、修行者が無相であるとき、善知識(化身)の出現があると言うことです。

「ところで、法の句(善知識)は、本当に不可思議なものである。もし、それがそれを発した当人に由来するものであるならば、その当人が覚ることになるだろ う。しかしながら、当人はそのとき化身(一瞬の化身仏)に過ぎず、その法の句の根源(発信地)は法界であると知られるのである。 そして、法の句が法界に由来しているものであることを心底から理解したとき、慧解脱が起こる。」これは無住について述べられたものです。

無住について少し説明すれば、この世には済まないと言うことで、この世のものではないと言うことです。すなわち、法界のものであると言うことです。この場合はその法の句がこの世の知恵ではなく、仏慧であると心底から理解したとき、慧解脱が起こると言うことです。

この記事へのコメント

toshi
2017年12月17日 07:57
 自らを解脱に誘う「世に希有なる善知識(化身)」に出合うには、少なくても幾つかの条件があると思う。・・・一つは、地道に自らを信じて「仏道」を歩み、次第次第に修行を進めているという事。・・・二つ目は、「よく気をつけている」という事。善知識は、「世界のどこにでも出現し得る」し、「身近な意外なところに出現する可能性が高い」のだから。・・・三つ目は、「法界」の存在を信じる事。法の句は「法界に由来」しており、その根源(発信地)は「法界」だからである。
ノブ
2017年12月17日 18:59
由来
人にはいくつかの識があると言う。
末那識、阿頼耶識、そして阿摩羅識である。無意識の領域に属すこれらのうち、阿頼耶識は人類普遍の共通の無意識であると聞き覚えがあります。すると、阿摩羅識がいわゆる法界、善知識の由来ということになるのでしょうか。
https://kotobank.jp/word/阿摩羅識-27222